「人間ができることは、あなたにもできる」ということを書いたけど、人間ができることだって、個人個人で、できることがちがうのである。Aさんができるから、Bさんもできるとは限らない
Aさんができるということは、Bさんもできるということの、根拠にはなりえないのである。
ところが、Aさんができることだから、Bさんにもできるはずだという思い込みがある人が多い。
あるいは、「普通の人ができることは、あなたにもできる」という言い方もある。
「普通の人」がいったい誰を指しているのか、具体的にはわからないけど、ともかく、普通の人ができることは、特定のある人ができてあたりまえだという考え方をする人たちがいる。
たとえば、Cさんが普通の人なら、普通の人ができることは、Cさんにもできると勝手に仮定して考える人がいる。
けど、この仮定は、まちがっている。
普通の人……ができることでも、Cさんにはできないかもしれない。
普通の人ができるということは、Cさんにもできるということの根拠にはならないのである。
ところが、根拠になると思っている人たちが多い。
そして、おなじ人でも、状態によってちがうのである。Dさんが、普通の状態で、できることと、Dさんが睡眠不足で、つかれはてている状態で、できることはちがう。ちがうのだ。
ところが、「できたんだからできるだろ」と考える人たちがいる。
『できたのだからできる。……だから、つかれはてて、できないなんて言うのは、あまえだ』と考える人たちがいる。
Dさんが、普通の状態で、できたことは、Dさんがつかれた状態でできるとは、かぎらない。
ところが、「できたのだからできる」と考える人は、Dさんの状態に関係なくDさんは(これとこれが)できると勘違いしてしまう。
そして、言霊主義者は「できると言えばできる」と言う。
こんなのは、ひどい。
きちがいヘビメタ騒音というほかの人にはわかりにくいハンディを抱えていると、誤解をされるのである。
これ、誤解なのだけど、誤解をしたほうが、誤解だと思わない。
『できると言えばできる』と考えている人は、自分のことに関しては、認知とメタ認知が成り立っているので、『できると言ってもできないことはある』と思って、自分には『できると言えばできる』と言う考え方を適応しないことがある。
都合よく、適応する場合もある。『できると言えばできる』と考えている人は、自分が、適応する場合と、適応しない場合を使い分けているというとについて、一切合切の認識がない。
ようするに、意識的な自我は……常に『できると言えばできる』と思っている状態で暮らしている。
自分の現実的なことに関しては、『できると言ったってできないことはある』と考えているとしか思えない行動をするのである。しかし、他人のことは、他人のことなので、他人の側の「認知やメタ認知」が「自分」に成り立つわけではない。
だから、他人に関しては、容赦がない状態になる。
他人の抱えている条件がわからないので、他人の抱えている条件を無視して「できると言えばできる」と他人に言ってしまう。
言った本人は、正しいことを言ったと思って、疑問ももたない。
『できると言えばできる』と考えている人と、普通の人のあいだには、たいしたちがいがない。
他人を対象とした言霊理論と、自分を対象とした言霊理論は、ちがうのである。自分を対象とした言霊理論は、自分の認知とメタ認知が成り立っているところで成り立つ言霊理論と、自分の認知とメタ認知が成り立っていないところで成り立つ言霊理論が、ちがうのである。
認知とメタ認知が成り立っていないところで成り立つ言霊理論の場合、空想的な考え方になるのである。ようするに、夢や希望について語るときは、現実を無視した妄想的な言霊理論になる。
ともかく、他人を対象とした言霊理論の場合、他人の認知とメタ認知を無視できるのである。自分のことではないので、条件について、うまく考えることができない。
自分のことであって、なおかつ、現実的なことだと、意識してもしなくても、認知とメタ認知が成り立っているので、空想的な言霊理論が影をひそめることになるのである。
だから、言霊主義者は、他人に関しては、妄想的な言霊理論を語ることができるのである。そうすると、「できると言えばできる」というような発言を他人にはすることになる。
この場合、『できると言えばできる』のだから、その他人も『できると言えばできる』と思っているのである。他人の現実的な条件は、無視されがちなのである。
そして、普通の人たちも、言霊的な考え方をもっているので、『できると言えばできる』という考え方は、それほど、へんな考え方にはうつらないのである。
『できると言えばできる』と考えている人は、ほかの人が『できない』と言うことを、認めない傾向が強い。「できる」と言えば、できるはずなのだから、「できる」と言ってやればいいということになる。
他人のことに関しては、『できると言えばできる』と考えてしまう人がいる。そういう人たちは、自分のことを棚に上げて、他人に対しては「できると言えばできる」と言う。
他人ができないことを、認めないという傾向がある。その他人も「できる」と言えばできるのだから、「できる」と言って、やればいいという考え方をもつようになる。
そうなると、やらない他人は、ただ単に「できる」ということをしない、バカな他人になる。できると言って(そのことを)やろうとしない他人は、言い訳をしているだけなのだ……というとになる。
こういう考え方を基本的にもっている人は、ヘビメタ騒音でできなくなるということを、認めない。きちがいヘビメタ騒音状況下で……あることが、できないということを認めない人たちがいる。
特に精神世界にどっぷりつかっている言霊主義者ではなくても、普通の人は、言霊的な感覚をもっている。この人たちは、言霊主義者よりも、人数的に多い。
「きちがい兄貴の性格」や「きちがい兄貴の感覚」が、あまりにも異常だから、ほかの人は、きちがいヘビメタ騒音下の暮らしのことが、よくわからないのである。ほかの人たちが、ヘビメタそうおの影響について、普通に誤解をして、無理なことを言ってくるようになる。
普通の人は、実際に自分が、きちがい家族に毎日たたられているわけではないから、実際に、毎日どういう状態になるのかということについて、経験的な知識がないのである。
ヘビメタ騒音下で、できないことがあるということを、普通の人たちは、認めない。
そうすると、俺が、おいつめられるのである。
だから、「これこれこういうことがあって、こまるから、やめろ」「しずかにしろ」ということを、きちがい兄貴に必死になって、訴えかけるのだけど、きちがい兄貴の脳みそが、きちがい親父の脳みそと(その部分においては)おなじだから、きちがい的な感覚に基づいて、自分がやりたいぶんは、やってしまうのである。まえの文における、「自分」というのは、きちがい兄貴のことだ。
そうなると、ぼくが、一日中、たたられ続けることになる。
たたられ続けた場合の、体の状態というのは、普通の人が考えられる状態ではないのである。
だから、普通の人は、自動的にぼくのことを見下し、バカにするようになるのである。
その人たちに、ヘビメタ騒音のことを言っても、その人たちは、言霊主義者が言霊理論にこだわるように、自分の感覚(自分の常識)にこだわって、ぼくが言っていることを認めない。
理解しない。
わからない。