ちょっとだけ、ちがいについて述べておく。なんのちがいについて述べるかは、お楽しみ。
たとえば、「走れば息があがる」とする。
この場合、走るという現実的な行為の結果、ほんとうに、息があがるのである。ようするに、呼吸を短い間隔で繰り返すことになる。それは、人間の体を通した、完全な反応なのである。
これと、「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」ということはちがう。この場合、言霊という、妄想的な設定がはいることになる。
言霊というのは、なんとだって言える、へんなタームなのである。言霊の存在は、証明されていない。言霊の力なんて、あるかどうかわからない。
そして、言った通りにならないことがあるということが、言霊の力がないということを、証明している。言った通りになる場合も、言霊の力によって、言った通りになったのかどうかわからない。
制限時間をつけて、言えば、たいていの場合、言った通りにならない。100%構文で言い切ることは、最初から、無理なことなのである。そして、言う……という恣意的な行為と、実際に言ったことが(別の理由で)現実化したということのあいだに、関係性がないのである。
いっぽう、「走れば息があがる」というのは、関係性があることなのである。体のしくみを通して、関係性を完全に説明できることなのである。
そして、走っていると、息があがってくる……というのは、たいていの場合、再現可能なことなのである。
そりゃ、走る距離によっては、息があがらない場合がある。しかし、息があがらない場合も、息があがらないしくみを、説明できるのである。体の「反応の量」の問題だから、量的に観測できることなのである。
ともかく、「走れば、息があがる」という場合、体のしくみを通して、あらゆる過程が説明できることなのである。
そして、条件も、条件として、ちゃんと記述できることなのである。
たとえば、その人の身体的な条件は、条件として、記述できる。その人の肺活量や、体重や、その人が走れる最大限の速さや、息があがってくるまでの距離というのは、条件として、記述できるのである。
ところが、「言ったことが」「言霊の力」によって、「現実化する」という場合は、その人のもっている「言霊の力」の「量」というのは、そもそも、記述できないことなのである。
そんなのは、はかりようがないのである。
だから、ぜんぜんちがう。
「身体的な出来事」と「身体的な出来事」の関係に関する記述と、「空想的な出来事(恣意的な出来事)」と「現実的な出来事」の関係に関する記述は、ぜんぜん、性格が異なるものなのである。ぜーーぜん、ちがうのである。ぜんぜん、ちがう。