ネットスーパーの注文をしたのだけど、はやくも、後悔している。キャンセルするかどうか迷っている。配達の時間帯としては、昼間の一二時から午後二時までの時間帯を選択した。いまは、まだ、眠たくないけど、午前九時ぐらいか眠たくなる感じがする。昼間の一二時までは、起きていられるけど、午後二時はきついかもしれない。けど、どのみち、明日もおなじようなことになるので、明日にずらしてもおなじだ。しかも、明日にずらすとなると、睡眠時間が、うしろにずれてしまうのである。大きく大きくずれてしまうのである。八時間ぐらいずれてしまう。そして、この八時間も、ドロドロで気持ちが悪い時間なのだ。普通の状態でずれるわけではなくて、ものすごく悪い状態でずれることになる。時間を決めるとなると、こうなってしまうのである。これは、後天的なもので、ヘビメタ騒音生活八年目あたりから、こうなった。ほかの人は、理解してくれないけど、人生のマイナスになっている。まあ、ほかの人が理解しないというのはわかる。けど、ヘビメタ騒音で本当にそうなる。
自分で時間を決められる場合でもこうなってしまう。全投稿で、ヘビメタ騒音と学校にはさまれると書いたけど、ヘビメタ騒音と学校にはさまれた結果が、これだ。ほんとうに、人は理解しない。「だらしないやつだな」と思うだけなのである。「面倒なやつだな」と思うだけなのである。必然性なんて、理解しない。けど、じゃあ、ヘビメタ騒音と学校にはさまれた七年間は、どうなるのだ。これ、どうしたって、ヘビメタを六時間以上、あびたあとは、眠れなくなる。もちろん、これも、証明ができない。実験ができない。すべての人で、そうなると言いたいけど、多くの人がそうなるというところまでゆずっても、ぼくが言っているだけのことになってしまう。人間を主語にして、「人間は、ぼくとおなじ生活をすれば、睡眠回路が壊れてこういう状態になる」と言いたいわけだけど、証明ができない。ほんとうに、……多くの人が、みんな……経験していないことなのだ。だから、実際に、ヘビメタ騒音にさらされて、一日が眠れなくなるということがわからない。きちがいヘビメタ騒音のことを無視する人は、ぼくが、さぼっていると思ってしまうのだ。ぼくがたるんでいるから、時間に遅れると思ってしまうのだ。そういうことまで含めて、ヘビメタ騒音を実際にあびてしまうと、どうしても、そうなってしまうのだ。これ、意志の問題じゃないのである。逆に、「時間を守ろう」「眠れ」と、思えば思うほど、眠れくなってしまうのだ。けど、じゃあ、「時間を守らなくてもいい」「眠れなくてもいい」と思えば、眠れるかというとそうではないのだ。けっきょく、そういう思いとは関係なく、きちがいヘビメタを浴びてしまったということが影響を与えているのだ。日曜日は一三(じゅうさん)時間以上、ヘビメタ騒音を、至近距離であびせられるのである。だから、休みの日が、休みの日ではなくて、特につかれる日になってしまう。こういうことも、ほかの人にはわからない。まったくわからない。俺が普通に、日曜日に休んでいると思っているのだ。体を休めていると思っているのだ。「体を休められる日があるのに、それを休むための日として使わないのは、エイリの責任だ」ということになってしまう。けど、日曜日も、祝日も、夏休みも、冬休みも、春休みも、体を休められる日ではないのだ。こういうことだって、「日曜日や祝日に体を休めればいいのに、そういうことをしないで、さぼっている」と思われてしまうのだ。「日曜日や祝日なら、体を休めることができるという前提」が、こういう人たちの「思考の前提」にある。こういう人たちが、気づかずに、そういう前提で話をしてしまうのである。こういう人たちが、気づかずに、そういう前提で物事を考え、エイリのことについて判断してしまうのである。こういう人たちに、「ヘビメタ騒音が鳴っているから、日曜日も祝日も、体を休めることができない」ということを言ったって、たいていの場合は、むだだ。ぼくの経験の範囲で言えば、すべての場合において、むだだったのだ。「どんなに騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできる」と言った人もおなじなのだけど、自分の考えを、かえようとしない。ぼくが「ヘビメタ騒音中で、宿題をすることができない」ということを言っても、この人たちは、認めない。そんなこと、認めないのだ。「できるはず」なのだから、「エイリがわるい」「エイリが、言い訳をして、さぼっている」ということになってしまう。これは、「努力をすれば成功する」と同系列の誤解だ。
ほんとうは「、人間は、ぼくとおなじ生活をすれば、睡眠回路が壊れてこういう状態になる」といいたいけど、一〇〇%詐欺にならないように「人間は、ぼくとおなじ生活をすれば、睡眠回路が壊れてこういう状態になると思う」と言っておく。
「できるはずなのだから、エイリがわるい」というような考え方に触れたとき、ものすごく、腹が立つんだよ。やるせない思いがする。むなくそ悪い気分になる。生きている心地がしない。きちがいヘビメタ騒音が強烈で、ほんとうにそうなるのに、きちがい家族がいない人が、そうなるということを理解しない。その人の常識のなかでは、「そうならない」のである。じゃあ、どうして、その人たちが「そうならない」と考えてしまうかというと、経験がないからだ。この人たちにとってみれば、人の話を聴いて、頭のなかで考えたことでしかないのだ。実際に、自分が鳴らされたとしても、自分ならだいじょうぶだ」と考えてしまうのである。「それは、考えただけだから、そうなんだよ」と言いたくなるけど、言ったって、相手が認めることは、たぶんないだろう。多くの場合で、実際に、相手は認めなかった。ぼくの経験の範囲だと、自分の考えを改めたのは、ゼロ人だ。まったく、いない。「できるはずなのだから、エイリがわるい」と思った人が、「実際にやられていないから、わからないだけだ」ということを認めたことが、ない。みんな、ぼくの説明を聴いたあとも、「自分ならだいじょうぶだ」と思ったままなのである。これは、ようするに、「自分よりも、エイリが弱いから、ダメなんだ」ということになる。きちがい兄貴のような家族が、この人たちにはいないのである。きちがい的にでかい音で鳴らして、でかい音で鳴らしているということを、耳が正常なのに、認めないようなきちがい家族がいないのである。そして、ほかの家族も、けっきょく、その家族が、よそのひとがやらないようなきちがい行為を毎日やりづけることを黙認してしまう。きちがい親父なんて、支援している。黙認しているだけではなくて、支援している。お母さんは、「こまった。こまった」と言っているだけなのである。