たとえばの話だけど、ブラック社長が、どこかの宗教にはいっていて「人のいやがることはやめましょう」というお題目が正しいと思っていたって、実際には、人のいやがることをするのである。
そりゃ、サービス残業を押し付けられたほうは、いやな思いがするだろう。「いやだなぁ」と思うだろう。ちゃんと「できません」と言ったのに、「できないと言うからできないのだ」「できると言えばできる」というような妄想的なこたえが返ってきたら、いやな気持になるだろう。
けど、ブラック社長は、気にも留めない。
どれだけ、ブラック社長が「人のいやがることはやましょう」という教えを正しい教えだと思っていたとしても、ほかに優先することがあったら、「人のいやがること」を積極的にするようになるのである。
そして、たぶんだけど、ブラック社長には、「人がいやがることをしている」という認識がないだろう。
それは、名前だけ店長が、どれだけはっきり、「サービス残業はいやなことだから、やりたくない」ということを伝えても、理解されることがないのである。
ようするに、名前だけ店長が、どれだけ「いやなことだ」ということをブラック社長に伝えても、ブラック社長は、「名前だけ店長が、いやがっている」ということがわからないのだ。
そんなことは、気にも留めない。
ブラック社長が「人のいやがることはやるべきでない」という意見に、こころから、賛成していたとしても、実際には、「人のいやがること」をやってしまうのである。
だから、「人のいやがることはやめましょう」という教えを布教したとしても、社会がよくならないのである。
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ある村が、一〇〇〇人の人で構成されている人する。
その一〇〇〇人が、みんな、「人のいやがることはやめましょう」という教えは正しいと思っていても、実際の生活は、よくなるとは言えないのである。そういうことがまったくわかっていない人が「教祖はだめだけど、教えは、だいたい正しい」などと言う。
「だいたい正しい教え」をみんながみんな、正しいと思っても、運用のレベルで問題がしょうじるのである。
生活がよくなるとは限らない。
実際、「教祖はだめだけど、教えは、だいたい正しい」と言った人は、言霊主義者で、「できると言えばできる」「言霊は絶対だ」と言っている人なのである。この人が言っていること自体が、ブラック社長が言っていることとおなじなのである。
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人がいやがることを、がんがんやってやろうと思っている人もいる。その人が「人がいやがることはやめましょう」と言われて、やめるかどうかわからない。
しかし、正しい教えがひろまれば、それで、問題が解決すると思っている人は、ブラック社長のようなケースをまったく考えていないのだ。
みんながみんな、どういう場合に自分が「人がいやがることをする」のかということについて明確な認識を持っていて、なおかつ、それが、よくないことだという認識をもっている場合においては、「説得」は、ある程度、意味があることかもしれない。
しかし、実際には、そうでない人のほうが多い。
「正しい」と思ってやっていることである場合もあるのだ。たとえば、宗教の勧誘だ。自分は、正しいと思ってやっているのである。相手のためになると思ってやっているのである。
だから、「相手がいやがることをやっている」という気分がしない。そういう気持ちになれない。
実際に、だれか、その相手が「自分の勧誘」をいやがっていたとしても、そんなのは、気にしないのである。それは……「相手がわかっていないだけだ」と思ってしまうのである。
相手が、いやな顔をしても、そんな表情は読み取れない。『なんとか説得して、正しい道に導くのがよいことだ』と思っていれば、相手がいやな顔をしていても、そんなことには、まったく気がつかずに、勧誘をするのである。
相手が、はっきりと「勧誘されるのはこまる」と言ったって、しつこく勧誘するかもしれない。その場合も、鈍感な人は……相手がいやがっているとは、思わないのである。