「Xをすれば、幸福になる」というようなことは、普通の人たちにとっては、希望があることなのだけど、極端に条件が悪い人たちにとっては、絶望的なことなのである。
普通の人たちというのは、いちおう、条件が普通の人たちだ。条件が普通の人たちだって、現代社会で生き抜くことは、つらいことなのである。
だから、なんとか、幸福になりたいと思うわけだけど、そうなると「Xさえ、すれば、幸福になる」というような、話にだまされてしまう。
しかし、普通の人たちは、普通の条件の人たちなので、「誤解をする余裕」がある。条件が悪くて、十数年間にわたって、毎日、究極の疲労生活をしている人は、「誤解をする余裕」がない。誤解をする余裕がある人たちというのは、「実際にXをしたら、しあわせになった」と思うような人たちのことなのである。
その人たちと、条件が極端に悪い人は、ちがうのである。
もう、ぜんぜん、ちがう。
「あと」と「から」を誤解する人たちというのは、ある意味、しあわせな人たちなのである。この人たちが、どれだけ、自分だって苦労したということを言っても、その苦労は、条件が極端に悪い人たちの苦労とはちがうのである。
条件が極端に悪い人たちというのは、誤解をする余裕がない人たちなのである。
苦労と言っても、苦労の苦労がちがう。困難と言っても、困難の困難がちがう。つらさと言っても、つらさのつらさがちがう。
「できると言えばできる」「無理だというから無理なんだ」「感謝をすれば幸福になる」「掃除をすれば幸福になる」「親切にすれば幸福になる」「ニコニコすれば幸福になる」「明るいことを思えば明るいことが起こり、暗いことを思えば暗いことが起こる」「口癖が人生をつくる」「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」「元気だ元気だと言えば元気になる」「引き寄せは可能だ」……こういう言葉の背後にどれだけの死体が横たわっていると思っているんだ?
こういう前向きな助言が、自殺の山をつくっている。
自己責任論とライフハックは、条件が極端に悪い他人を自殺に追い込む(ための)文化的な装置の一部だ。これ、『文化装置』なのである。