2026年3月10日火曜日

●スネ夫と(ドラえもんがいない)のび太をくらべた場合■社会※2026/03/08 9:26

 基本的に言うと、社会的に優位な人が「掃除をすると幸福になる」と言い、普通の人が「掃除をすると幸福になる」と言って、不幸な人を攻撃し始めるのである。

これは、攻撃なんだよ。

基本的に言って、「掃除をして、幸福な気持ちになる人」というのは、おいつめられた生活をしていない。ある程度、余裕がある、中立的な生活をしているのだ。

「ぎりぎりの生活をしていない人」が、掃除をしたあと、幸福な気持ちになれるだけなのだ。

一時的な気分ではなくて、継続的に幸福な生活を送れるようになったという場合も、当然、ある。

ほんとうに、掃除をしないことで、実害がしょうじている生活をしていた人が、掃除をすることによって、実害がしょうじる生活から抜け出した場合であって、なおかつ、掃除以外のこと(あるいは、掃除をしないということが生み出すこと以外のこと)に、不幸になる原因がない生活をしている場合に限られるのである。

ようするに、たとえ、実害がしょうじている生活をしていた人が、掃除をすることによって、実害がしょうじる生活から抜け出した場合であっても、ほかのことで不幸を感じる場合は、掃除をする生活をしても、不幸を感じる生活をしているということになる。

ほかのことで、頻繁に、ひどく腹立たしいことが、発生する生活の場合は、掃除をしても、全体的に、幸福感を感じられないのである。

ところが、「掃除をすると幸福になる」と言っている人は、「掃除をすると運があがるので、ほかの問題も、自動的にかたづいて、幸福になる」ということも、言っている場合が多い。

「運があがる」という中間項目は重要だ。

本当は、「掃除をする」ことと「運があがる」ことのあいだに、明確な因果関係はない。

掃除をしても、不幸な人はいる。

そして、「運気」のところで説明したけど、「運」もまた、現実の写し絵なので、後出しで、運がいいとか運が悪いと言っているだけだ。

「運」を個人に固有の能力のように考えている人がいる。

しかし、固有の能力じゃないのである。

固有の能力のように仮定して、見ているだけなのである。

実際には、よい出来事が頻繁に起こる人のことを(後出しで)運がいい人と言っているだけなのである。

そして、よい出来事が頻繁に起こるかどうかというのは、たいていの場合、「条件」によって決まってしまう。

たとえば、スネ夫と(ドラえもんがいない)のび太をくらべた場合、スネ夫のほうが、好きなものを買ってもらえる機会が、(ドラえもんがいない)のび太より多いので、(ドラえもんがいない)のび太よりも、頻繁に「よい出来事」が発生するだけなのである。

「よい出来事」が頻繁に発生する人を「運がいい人」と言い、「よい出来事」がめったに発生しないか、まったく発生しない人のことを「運が悪い人」と言っているだけなのである。

生まれた家の条件のちがいが、スネ夫の「欲しいものをゲットできる頻度」と(ドラえもんがいない)のび太の「欲しいものをゲットできる頻度」を決めている。

「スネ夫がスネ夫のうちに生まれたから、そもそも、運がいいのだ」という言い方もできるのだけど、その言い方の問題については、ここでは取り上げない。

自分が欲しいものをゲットできるという「よい出来事」が頻繁に起こるスネ夫と、自分が欲しいものをゲットできるという「よい出来事」がそんなには起こらない(ドラえもんがいない)のび太をくらべた場合、スネ夫のほうが運がよく、(ドラえもんがいない)のび太のほうが運が悪いと言うことができるのだけど、それは、条件を言い換えたにすぎないのだ。

現実的な条件を、妄想的で仮想的な「運」という言葉で言い換えたにすぎない。

スネ夫の固有能力ではなくて、親の財産と親の生活の問題なのである。(ドラえもんがいない)のび太の固有能力ではなくて、親の財産と親の生活の問題なのである。

「勝負ごと」については、試行回数が少なければ、ばらつきが多いので「運」があるとかないというような感覚がしょうじる。

これ、試行回数の問題なのだ。

試行回数を増やしていけば、運は関係がないということがわかる。

「勝負ごと」と言っても、能力にちがいがあるものに関しては、能力のちがいが関係する。

完全にランダムな現象について勝負をすると、試行回数が少ないうちは、ばらつきがあるので、「運がある」とか「運がない」ということは、ばらつきが関係している。

ばらつきの結果、運があるように見える場合と、ばらつきの結果、運がないように見える場合がある。

しかし、試行回数が増えれば、ばらつきが収束する。

運があるように見える人も、運がないように見える人も、ちがいがなくなる。

つまり、試行回数が少ないうちは、運があるように見えた人も、運が普通レベルの人になり、試行回数が少ないうちは、運がないように見えた人も、運が普通レベルの人になる。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。