不幸な人は、「徳」が、たりない人であるというイメージが、刷り込まれるようになっているのである。
それは、不足部分としてイメージされるからだ。
「感謝して掃除をすると幸福になる」というメッセージは、不幸な人が、感謝して掃除をしていないというメッセージになってしまうのである。
「Xをすれば幸福になる」というタイプのライフハックは、じつは、不幸な人には「Xをすることがたりていない」というメッセージを送っているのである。
「だから、不幸なのだ」というメッセージを送ってしまっている。
しかし、「不足」がほんとうに、「不幸であること」の理由なのかというと、そうではないのである。
たえとば、「感謝をすれば幸福になる」と言ったとする。不幸な人は「感謝をすること」が足りていないというイメージをつくってしまうのである。
自分が、感謝をするとき、幸福な気持ちになるとする。だから、「感謝をすると幸福になる」と言い換えたとする。この言いかえの問題については、すでに語ってきた。
「感謝をすると幸福になる」のだから、不幸な人は、感謝(をすること)がたりない人なのだということになってしまうのである。
しかし、何度も言うけど、ほんとうは、条件が不幸な状態を引き起こしていることが多いのである。
条件が相対的によい人が、感謝をする機会があったとする。多数の感謝をする機会があったとする。
「すべてのことに感謝をすればいい」ということになるのだけど、感謝を自然に感じられることがあるし、憎しみを自然感じられることもあるのだ。
条件によって、感謝を感じやすいことが起こる機会が多い人と、感謝を感じにくいことが起こる機会が多い人がいる。
だから、「条件が悪い人が、むりやり、感謝を感じることで、幸福になるのかどうか」ということは、別の問題なのである。
たとえば、うちの父親は、うちの父親だったわけで、問題行動をほんとうに、やっていたのである。うちの父親の脳みそに従うと、そういうことをやってしまう人間なのである。
はっきり言ってしまえば、「虐待されても、感謝感謝」ということにはならない。「頭がおかしい理由で怒り狂われても、感謝感謝」ということにはならないのである。「親父が頑固にやった行為のせいで人前で恥をかかされても、感謝感謝」ということにはならないのである。
それがどれだけ人の心を破壊するか、ぜんぜんわかっていない、「普通の人」が、条件を無視してアホなことを言っているだけなのである。
そして、普通の人がみんなみんな「自分だって苦労した」と言うのである。そして、それは、正しいのである。
たしかに、「自分だって苦労した」というのは事実なのである。「自分だってつらい思いをした」と普通の人が言う場合、「つらい思いをした」ということは、事実なのである。
しかし、つらさの質や、つらさの量がちがうかもしれない。まったくちがう「つらさ」について、言及しているのかもしれないのである。
つまり、自分だって同じ質の、同じ量のつらさを経験したという意味で、普通の人が、「自分だってつらい思いをした」と言う場合、同じ質の、同じ量のつらさを経験していないのかもしれないという疑いがある。
たぶんだけど、同じ質の、同じ量のつらさなんて、経験していないのではないかと(わたしには)思えるのである。
どうしてかというと、「すべてに感謝すればいい」なんてことは、言えないということを身にしみてわかっている人は、「すべてに感謝すればいい」とは言わないと思うからだ。
ともかく、「感謝をすれば幸福になる」と言った場合、条件が悪い人が、感謝する気持ちをもっていないので、幸福ではないのだというイメージを与えてしまうのである。
ようするに、条件が悪い人は、そういう点で劣っているのだというイメージを与えるのである。
その言葉は、感謝をする気持ちがないか、あるいは、感謝をする気持ちが普通の人よりも少ない人間なので、不幸になってるというイメージを与えるのだ。
普通の人が感謝するところで、不幸な人は、感謝しない……から、不幸なのだというイメージを与える。
しかし、不幸な人は、条件が悪いから、不愉快なことをいっぱい経験しているだけのなかもしれないのである。
不幸な人は条件が悪いから、感謝するようなよい出来事が発生する機会が少ないだけかもしないのである。
しかし、あたかも、性格が悪いので、感謝するところで感謝をしないから、不幸になるのだというイメージを(言外に)つくってしまうのである。