ちょっと、言葉の遊びをしてみよう。
「だけ」という言葉は、排他的な意味をもってしまうのである。なので、排他的な意味が付け加わってしまう。
たとえば「掃除をすること(ほかのことをするかどうかは不明)」と「掃除だけをすること」は意味的に等価ではない。
「掃除をすること(ほかのことはしない)」場合は、「掃除をすること」と「掃除だけをすることは」は意味的に等価になる。「掃除をすること(ほかのこともする)」場合は、「掃除をすること」と「掃除だけをする」ことは、意味的に不等価になる。
しかし、掃除だけをしたとしても、幸福になるのである。「掃除をすると、幸福になる」のだから、「掃除をする」ということは「掃除だけをする」ということを含んでいる。
たとえ「掃除だけをしても、幸福になる」のである。「掃除だけをする」ということは、掃除をするという条件を満たしている。
「掃除をすれば、幸福になる」という言い方は、掃除をすることが、幸福か不幸かを決めるのだと……暗示的に主張しているのである。
たとえば、「掃除をして、人に感謝すると幸福になる」と言っているわけではなくて「掃除をすれば、幸福になる」と言っているので、「幸福になる条件」は「掃除という行為をすることだけ」なのだ。ほかの行為をすることは、「幸福になる条件」ではなく、掃除をすることが幸福になる条件だと考えているのである。
この場合「人に感謝する」という行為は、条件の中に含まれないのである。掃除以外のことをすることも、条件に含まれていないのである。
たとえば、食事をすることは、掃除をすることではない。掃除をすることは、幸福になることと、関係があるけど、食事をすることは、掃除をするとではないので、食事をすることは、幸福とは関係がないということになってしまうのである。
しかし、通常の暮らしにおいて、「掃除をすれば幸福になる」と言った場合、ほかのことをして、さらに「掃除をすること」を想定して言っているのである。
なので、「掃除をすれば幸福になる」と言っている人も、「掃除だけをすれば幸福になる」と言っているわけではないという、主観的な感覚がある。まあ、認識でもいい。
なら、「言う」ことのなかに「熱心に言うこと」が含まれているということも、「想定」の問題にしていいかというと、そうではないのだ。他分野への(意味的な)言及があるかということが重要になる。
たとえば、「掃除をすること」のなかに、たしかに、「熱心に掃除をすること」が含まれているのである。
それとおなじように、「掃除をすること」のなかには「掃除だけをすること」も、じつは、含まれている。
しかし、「掃除だけをすること」と言った場合には、ほかの分野についても、ほかの分野のことは一切合切しないということを、意味してしまうのである。
なので、集合的には、たしかに、掃除をするという集合のなかに「それだけをする」という集合が含まれているのだけど、「掃除だけをする」という言い方には、排他的な要素が含まれている。
「熱心に言う」という場合、他の分野における排他的な要素を含んでいないということと、対照的だ。「熱心に言う」という場合、おなじじ分野における排他的な要素を含んでいる。
しかし、「幸福になると言えば、幸福になる」と言った場合、「幸福になると言う」という集合のなかに「幸福になると言うだけ」という集合も含まれてしまう。しかし、「幸福になると言う」と言う場合は、特に(他分野における)排他的な要素がない。他分野のことは、関係なしに言っているのである。
ようするに、「だけ」をつけると「他分野における排他的な要素」が付け加わってしまうけど、「だけ」をつけないで言う場合は、「他分野における排他的な要素を含まない」ということになる。
「だけ」をつけないで言う場合は、「ほかの分野をしていても」「ほかの分野のことをしていなくても」関係がないのである。
ようするに、両方とも含んでいる。分野的に言って排他的ではない。だけをつけて言うと、分野的に言って排他的になる。ようするに、「だけをつけないで言う場合」は、他分野に関しては「不定」なのである。
まあ、言葉の遊びだけどね。
「Xをするだけで」と「Xだけをすれば」は、意味内容がちがう。「Xだけをすれば」のほうは、排他的な要素があり、「Xをするだけで」は、排他的な要素があるかどうかは、不明だ。
ほかのことをするのかしないのかは、特に、明確に示唆されているわけではない。
しかし、人間の生活は、Xをするだけでは、成り立たないので、「Xをするだけで、幸福になる」という文は、もともと、正しくない。「掃除をするだけで、幸福になる」……。
いや、食事をしないと、人間は生きてはいけないので、掃除だけをする生活だと、死んでしまう。幸福にならない。
そして、ほかのことをして、生活を成り立たせて、掃除をする場合は、掃除をするだけで、幸福になるという意味で使っている場合がある。
しかし、掃除をするだけでは、やはり、幸福にならない場合がある。どうしてかというと、人によって、なにに幸福を感じるかはちがうからである。生活を成り立たせたうえで、掃除をするだけで、幸福を感じる人もなかにはいるかもしれない。
しかし、ほかのことをしているということは、否定できない。ほかのことをしているのである。掃除をするだけで、生活しているわけではない。
まあ、言葉の遊びだけどね。
「Xをするだけで、幸福になる」というようなキャッチコピーを考える人もいるかもしれしれない。「Xをするだけで、幸福になるなら、Xをしてみよう」と思う人もいるかもしれない。
けど、「Xをするだけ」というのが、ほんとうに「Xをするだけ」ということを意味しているのであれば、それは、嘘だ。
あんまり書きたくないけど、排泄をしなければならない。しかも、排泄ができなくなっただけで、不幸になってしまうのである。食べたり排泄をするということをしないで、「Xだけをして」幸福になるかというと、幸福にはならない。
呼吸だってしている。
「Xだけをして」呼吸をしなければ死んでしまう。
だから、「Xをするだけで、幸福になる」という発言は、最初から嘘だ。 「Xをするだけで、幸福になる」という文は、「Xだけをすれば」という文と、意味的に等価になってしまう場合がある。不定なので、X以外のことをしている場合は、「Xだけをすれば、幸福になる」という文と「Xをするだけで、幸福になる」という文は、不等価になる。
「Xをするだけで、幸福になる」という場合、ほかのことをしているのかどうかは、不明なのである。「Xだけをすれば、幸福になる」という場合は、ほかのことはしないことになっている。
まあ、言葉の遊びだけどね。
まあ、Xをするだけで幸福感を感じるかどうかというのは、人によってちがうので、一〇〇%構文で言う場合は、嘘になる。命題として『偽』だ。
まあ、前にも指摘したけど、一時的に幸福感を感じることと、幸福な生活をすることはちがうことだ。
今回書いたことに関しては、あとで、意見をかえる可能性がある。備忘録として、残しておく。