「願いがかなう」というのは、エサなのである。「思い通りになる」というのは、エサなのである。「幸福になる」というのは、エサなのである。「運があがる」というのは、エサなのである。
エサにつられて、「これは、正しい」と思い込む。
いったん思い込むと、それが、そいつのなかで「絶対法則」になる。
しかし、それは、自分が一倍速で経験していることには、あてはまらない。自分が一倍速で経験していることに関しては、「あたりまえだ」と思ってスルーしてしまう。無視してしまう。
言霊主義者の例で、説明したとおりだ。
自分が、電信柱に頭をぶつけて、いたいと思った場合は、「電信柱に頭をぶつけたから、いたい」と思っているのだ。いたくないときに「いたい」と言ったから、「電信柱に頭をつぶつけた」のだとは考えないのだ。
「いたい」と言ったから、「電信柱に頭をぶつけていたく感じるということが起こった」とは考えないのだ。
付け加えて言うと、冷蔵庫・庫内がひえるのは、あたりまえだから、「冷蔵庫・庫内がひえる」と言わなくても、ひえると思っているのだ。
以降、冷蔵庫と言う場合は、冷蔵庫の庫内のことを意味しているとする。
言霊理論が正しいなら……「冷蔵庫がひえる」と言わなければ、冷蔵庫はひえない。
「冷蔵庫がひえる」と言わなければ、「冷蔵庫がひえる」ということが現実化しない。
ところが、「冷蔵庫がひえる」と言わなくても、電気が供給されれば、物理的なしくみによって、冷蔵庫がひえるのである。
それから、室温が三〇度なら、部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける。
これも、言霊理論が正しいなら……「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言わないと、アイスキャンディーがとけない。
これも、物理的な現象だ。
別に、「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言ったから、言霊の力によって、「部屋のなかにあるアイスキャンディーがとけた」わけではない。
しかも、室温がマイナス一〇度なら「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言っても、アイスキャンディーはとけない。室温という条件が、アイスキャンディーがとけるかどうかを、決めている。
言霊なんて、関係がないのだ。
「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言ったかどうかということは、「部屋のなかにあるアイスキャンディーがとけるかどうかに、あまり影響を与えない。
本人が、部屋のなかにいることで、室温がかわったり、「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言うときに、室温がかわったりしなければ、影響はない。
たいていの場合、「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言うことは、室温にたいした影響を与えない。
「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」と言うこと自体が、室温にものすごく小さな影響を与えるとする。
その場合だって、「部屋のなかにあるアイスキャンディーはとける」という言葉に宿っている言霊が結果に影響を与えているわけではない。
言霊主義者自身が、「あたりまえだ」と思っていることに関しては、言霊の力で、そのことが現実化していなくても……まったく、疑問を持たない。
そういうレベルの「信仰」なのだ。
「ぬけぬけ」なのである。
* * *
こいつらは、きちがい家族による至近距離の長時間騒音を経験していない。長期間騒音を経験していない。
こいつらは、毎日鳴る、きちがい騒音を経験していない。
それなのに、「俺だって騒音ぐらいあった」と言うのだ。「どれだけ騒音が鳴ってたって、勉強ぐらいできる」と言うのだ。「できるできると言えばできる」と言うのだ。こんなうんこ野郎ばかりだったよ。
きちがい家族にやれると、こういう夜郎自大なバカに、わかったようなことを言われ、バカにされるのである。こんなの、ない。
以降、実際のクラスメイトを思い浮かべて書くことにする。
そいつらだって、ほんとうは、自分がこの世で一番きらいな音が、あの至近距離で、あの時間の長さ、あの長期間、鳴っていたら、影響を受ける。自分がこの世で一番きらいな音……だという条件を満たすなら、あの音のなかで、勉強なんてできない。
やろうと思った時間が、汚染される。勉強しようと思ってみたものが、すべて、きらいになる。勉強しようと思ってみたものに、「騒音がしみついて」しまうからだ。
教科書を見たなら、教科書に書いてあることと、騒音が関連付けられてしまうのである。
これが、どこまでも、マイナスに働くのである。至近距離手を、あんな音のでかさで、自分がこの世で一番きらいな音が鳴っていたら、勉強なんてできない。
たぶんだけど、みんなできないんじゃないかな。もちろん、証明はできない。