2021年6月26日土曜日

「きついことでも、楽しいことに書きかえることができる」はまちがい。悪い意味できついことは、いい意味できついことにはならない

  「楽しんだほうがいい」というのは、わかる。

けど、ぼくは、これ、楽しむ能力というのが、決まっているわけではないと思う。実際に楽しめるかどうかは、その人が、経験してきたことで決まると思う。

ようするに、個別の能力を想定して、「自分は楽しむの力がある」「あの人は楽しむ能力がない」と決めつけるのは、よくないと思う。

実際に、楽しむ能力というものがあるならば、楽しむ能力に対応しているのは、個人の経験だ。体験だ。実際に、体験したことが影響を与えている。理屈じゃないのである。「べき論」ではないのである。「べき論」はこの場合、「楽しむべきである」という「べき論」になる。

「一度の人生なのだから、楽しむべきなのである」「楽しんで暮らしている人は、ポジティブでいい人だ」「楽しんで暮らしてない人は、ネガティブで悪い人だ」……と。

まあ、こんなことが語られるわけよ。「善悪」「好悪」が最初から決まっている。「楽しんで暮らしている人は善」「楽しんで暮らしてない人は悪」「楽しんで暮らしている人は良い感じがする(なので好感が持てる)」「楽しんで暮らしていない人は、悪い感じがする(悪い感じしかしない)」というような意識にもとづいたことが語られる。

あとは、自己肯定感が高いと、人生を楽しむことができて、自己肯定感が低いと人生を楽しむことができないということが言われる。

これには、「例の疑惑」がある。

 

ようするに、「自己肯定感が高いから人生を楽しむことができる」のではなくて「人生を楽しむことができるから、自己肯定感が高くなる」のではないかという疑惑だ。また、「自己肯定感が低いから、人生を楽しむことができない」のではなくて、「人生を楽しむことができないから、自己肯定感が低くなる」のではないかという疑惑だ。

けっきょくのところ、冒頭で述べた通り、体験に、いきつくのではないかと思う。

そうでしょ。実際の体験が、悪い意味で、きつくて、つらいのに、楽しめますか?

楽しめるという人は、マゾか、あるいは、いい意味で、つらいことに意味を感じているのではないかと思う。

悪い意味で、きつくてつらいというのは、書きかえられない。

しかし、ほんのちょっと負荷があることを、やって成功した場合、きついけど、楽しいという感覚が生まれる。ほんとうは、無意識的に「悪い意味」と「いい意味」のちがいがわかる能力はあるのだと思う……人間は。すべての人間は……。

しかし、「悪い意味できついこと」を経験したことがない人は、経験したことがないので、「悪い意味できついこと」が経験としてわかってないのだと思う。ようするに、その人にとっては「悪い意味できついこと」はこの世に存在しない。なので、「きついことでも、楽しいことに書きかえることができる」と言うまちがいをおかすのである。

ようするに、悪い意味できついことは、いい意味できついことにはならないのだけど、いい意味できついことしか経験してないので、悪い意味できついことと、いい意味できついことのちがいを認識でないのだと思う。

そういう人たちにとっては、きついことというのは、一意にいい意味できついことに決まっているので、きついことも、楽しいことに書きかえることができるという信念を持つにいたる。

その人たちにとってのきついことというのは「いい意味できついこと」に限定されているので、そういう認識ができあがる。

しかし、ほんとうに、悪い意味できついことは、いい意味できついことにならないのである。どれだけ、自分を洗脳して書きかえようしても、悪い意味できついことは、いい意味できついことにかえることができない。そういうことができると言っている人は、ほんとうに悪い意味できついことを、五年以上毎日経験したことがない人だと思う。

その場合、本人は、「最初はつらかったけど、あとになったら楽しくなった」というようなことを言うかもしれない。それは、ちょっと負荷があることを、悪い意味できついこととして、認識しているだけである。

ちょっと負荷がかかることは、本人が主観的に最初は「きつく」感じても、達成感などを味わえるので、そんなに悪いことではないのだ。つまり、最初から、悪い意味できついことではない。実際に、悪い意味できついことを数年間にわたって毎日経験した人じゃないと、ここらへんのちがいがわからないのかもしれない。

個別の能力の問題ではなくて、個人が経験してきたことがそのまま反映されているだけではないと……ぼくは思う。「楽しむことかできる」「楽しむことかできない」という話をする場合、あたかも、「楽しむ能力」が……固有の能力としてある……という前提で話をしているように思えるのだ。

しかし、固有の能力としての「楽しむ能力」なんてものは、じつはないんじゃないかと思う。

「楽しむ能力がある人」「楽しむ能力がない人」という言い方をする場合、楽しむ能力がある人のほうが優れているような感じを受ける。けど、それは、固有の能力ではなくて、体験によって押し出されてしまうものなのではないかと思う。その時点での固有の能力というものを考えてしまってはダメなのである。

ようするに、その時点での「楽しむ能力がある人」「楽しむ能力がない人」という分類は、例によって、生まれの格差を隠すものなのではないかと思う。ようするに、ほんとうは、論点をそらしている。

固有の能力としての「楽しむ能力を上げる方法」として、紹介されていることが、すべて、うちのめされた人にとっては、つらい方法なのである。憂鬱度があがる方法なのである。読んだだけで、不愉快な気持になる方法なのである。

これが、不思議なんだけど、……いや、不思議でもないか?……楽しむ能力をあげる方法を読んだ人は、うつになってしまうのである。 もちろん、「うちのめされた人」が読むと、うつになるということだ。ニュートラルな人は読んだからといってうつにならないだろう。

どうしてなら、うちのめされてないからだ。

本人が「俺にだってつらいことはあった」「わたしにだってつらいことはあった」と言っても、ほんとうは、それは、いい意味でつらいことを経験しただけであって、悪い意味でつらいことを経験してないのではないかと思う。「うちのめされた人」は、悪い意味でつらいことを、最低五年間ぐらいは、毎日、経験しているものだ。積み重なってしまうのである。この期間の長さが問題だ。

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ほんとうは、固有の能力としての「楽しむ能力」などというものは、なくて、ただ単に、経験がちがうから、事柄に対する反応がちがうのではないかということだ。ぼくがここでずっと述べているように、生まれの格差がある。生まれの格差は生まれた時点での格差だけけど、経験を通して拡張されていくのである。ようするに、親がきちがいだと、不愉快な体験がつもっていくのである。あるいは、才能がないと不愉快な体験がつもっていくのである。不愉快な体験の回数が増えると、人間は楽しめなくなるのではないかと思う。ようするに、「いま」の時点で、楽しめる人は、不愉快な体験が少ない人で、「いま」の時点で、楽しめない人は、不愉快な体験がめちゃくちゃに多い人なのではないかと思う。体験の差が、楽しめるか、楽しめないかの差になると思う。その場合、「能力の差」ではないということになる。楽しむ能力がある人と楽しむ能力がない人が「さいしょから」決まっているわけではないのだ。

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わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。