他人の目を気にせず、自分らしく生きたほうがよいというようなことが言われる。ただ単に「他人の目を気にせず、自分らしく生きたほうがよい」というようなことを言いたいだけなのに、「自分軸-他人軸」という言い方で、説明しようとする人たちもいる。
自分軸-他人軸という言い方は、基本的な問題を抱えている。それは、自分軸にしろ他人軸にしろ、自己申告制だということだ。そして、人の目を気にするというのは、道徳観の範囲、マナーの範囲がかかわっている。なにをするのがよくて、なにをするのがいけないのかという考え方にかかわることなのだ。
自己申告制だということについて述べておこう。「自分は他人の目を気にしすぎる」と思うのは、自分だ。明確な基準がまったくない。これだと、自分勝手な人でも、自分は他人の目を気にしすぎると感じることができるので「他人の目を気にせずにもっと自分がやりたいことをやるべきだ」と思うことが可能だ。そして、自分がやりたいことというのが、たとえば、通り魔殺人だったらどうか? 被害者が出ることになる。
こういうことがまったくわかってないんだよね。「自分らしく生きる」の内容が道徳的に肯定できるものであるという前提でものを言っている。けど、現実世界だと、ある人の「やりたいこと」がある人の生命を奪うことである場合もある。
複数の障害者を殺した人がいたけど、この人だって、「やらなければならないことをやるつもり」だったのである。「いいことをしたつもりだった」のである。いまでも、本人のなかでは「いいことをした」と思っているのである。「わるいことをした」とは思ってないのである。「誰かがやらなければならないことを、自分が率先してやった」と思っているのである。
複数の障害者を殺してしまうような「自分勝手な人」だって、自分自身としては「人の目を気にしすぎる」と感じてしまうことだってあり得るのだ。そういうレベルの「自分勝手な人」が「人の目を気にせず自分の信念に従って生きよう」と思ったら、こまる人が出てくるのである。
なお、複数の障害者を殺した人は、障害者は人ではないと思っているので、自分が人殺しをしたとは思ってないのである。ようするに、実際には人を殺したにもかかわらず、その人(犯人)のなかにある「道徳観」には反しないのである。
こういう人が実在するのが、この世だ。
こういう人が実在する世の中で、「自分軸で生きればいい」というようなことは軽々しく言うべきではないと思う。
「自分軸で生きるというのはそういうことではない」「自分らしく生きるということはそういうことではない」と言う人がいるかもしれない。
しかし、それは、個々人が抱えている「道徳観」というものを固定的なものとして見るからそういうふうに言えるわけで、そうではない場合は、そうでない結果がしょうじる。
「自分軸で生きるというのはそういうことではない」「自分らしく生きるということはそういうことではない」と自分実について語っている人が言ったって誤解するやつは出てくる。
誤解と言ったけど、これが誤解じゃないかもしれないのだ。その人のなかでは、誤解ではなくて、まさしく、「自分らしく生きる」ということなのかもしれないのだ。言っていることがわからないかもしれないけど、一度、「自分軸-他人軸」と言った場合の「自分」や「他人」を「還元」する必要があるのである。
ところが、還元してしまうと、たしからしいことは、なにも言えなくなってしまう。ともかく、「自己申告制」でしかないということと「道徳観」の具体的な内容が人によって異なるということは、意識しておいたほうがいい。
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しょせんは、自分軸-他人軸などと言っている人たちは「他人の目を気にせず、自分らしく生きたほうがよい」ということを言いたいだけなのだから、相手にしなくてもいいのだけど、「自分軸」という言い方は、「自己責任」という言い方(特殊な用語)の「うら」であるような感じがするから、もうちょっと、言いたいことを言っておくかな。
「そいつ」が「そいつ」らしく生きようとすると、被害を被る人たちが出てくる可能性だってあるのだということも、言っておきたかったことのひとつだ。