2021年7月24日土曜日

過去のことは、頭のなかにしかない……という考え方はまちがっている。過去の記憶がなくなっても、なお残る問題がある。

過去のことは、頭のなかにしかない……過去のことは過去の記憶にすぎない……という考え方がある。この考え方を敷衍すると、過去のることで悩んでいる場合、過去のことを忘れれば、悩みがなくなるという考えに行きついてしまうのである。

けど、そうだろうか?

ぼくはちがうと思う。

この、「過去は記憶でしかない」というような言い方が、そもそもまちがっている。過去のできこどか、脳みそを含んだ体に影響を与えているのであれば、脳みそを含んだ体の影響がなくならないのであれば、「過去の記憶」がなくなったとしても、脳みそを含んだ体の影響によって生じた問題は片づかない。

過去は記憶のなかにしかないという考え方がまちがいなのである。過去の出来事は、記憶だけではなく、脳みそを含んだ、さまざまな体の部位に影響をあたえる。あたえてしまっている以上、その人が「過去の出来事」を忘れても、過去の出来事の影響下にあると言っていい。

過去は、頭のなかにしかない……という考え方自体がまちがっている。

たとえば、ある人が、二〇二一年に認知症になったとしよう。そして、二〇二一年の時点では、自分が認知症だという自覚があったとしよう。また、自分が認知症になってしまったということについて悩んでいたとしよう。そして、二〇二三年に、認知症であるという自覚がなくなったとしよう。自分が認知症であるということで悩んでいたその人は、認知症であるという自覚がなくなり、認知症であったという過去の記憶がなくなれば、認知症であるということから生じる現在の問題を解決した言えるのだろうか?

現在の時点で認知症で、あれば、認知症であるということから生じる問題は生じる。たとえ、過去のある時点において認知症だったという記憶がなくなったとしても、現在の時点で認知症なのであるから、認知症であるという問題は存在する。

しかし、そういう場合でも、本人が過去のことにこだわらなければ、問題はないと考える人たちにとっては、解決済みの問題になるのである。

どうしてなら、過去の出来事について悩んでいる場合、過去の出来事は頭のなかにしかないからだ。過去の記憶に……にすぎないのだから、記憶を失えば、効力を失うのである。

過去の出来事に関する記憶を失うか、あるいは、過去の出来事に関する解釈をかえれば、「記憶にしかすぎない」のだから、問題は解決してしまうのである。

しかし、解決しない。

身体が残る。

この身体というのは、脳みそを含んだ体のことだ。脳みそは「記憶」だけしているわけではないのだ。

たとえば、度重なる騒音によって、睡眠に関する能力と、体力に関する能力に障害が生じた人がいるとする。この人にとっては、騒音の記憶がなくなったとしても、睡眠に関する能力と、体力に関する能力問題は残る。睡眠に関する能力に関しては、単に睡眠障害と言ってもいい。体力に関する能力に関しては、わかりにくいと思う。

この体力というのは、体力測定で測れるような体力とはちょとちがう。言ってみれば『生活体力』と言えるようなものだ。ようするに、ものすごくつかれやすい体になってしまったということだ。つかれやすさの問題というのは、ほんとうは、ある。あるけど、根性論や努力論によって無視されてしまう。

それに、「つかれやすさ」という問題は、脳みそのなかの問題のように、他人にはわかりにくいものなのだ。ようするに、外から見てわかりにくい問題だということだ。右手がないというような身体的な障害の場合は、外から見てわかりやすい。

なので、右手がない人に向かって、右手を使うような行為を強制する人はいない。あるいは、無視できるほど少ない。しかし、身体のつかれというのは、本人にしかわからない部分がある。ものすごくつかれている人に対して、「もっと動くこと」を要求する人は多い。逆に、「つかれ」が身体的な特徴や動作的な特徴に現れるということも多い。

ただし、この場合も、客観的に見た身体的な特徴や動作的な特徴が、そのまま、本人の主観的な疲労(つかれ)の認知と一致するかどうかはわからない。

「つかれ」と「疲労」という言葉を使ってしまったけど、ここでは、「つかれ」と「疲労」は完全に一致するものとする。また、本人の主観的な疲労(つかれ)の認知と本人の疲労(つかれ)自体は完全に一致するものとする。ようするに「つかれ」というものは、目に見えないので、脳みそと神経の問題としてあつかうことにする。疲労自体と易疲労性はもちろん、区別して考えなければならないけど、つかれやすい人は常につかれているとする。

その場合、たとえば、睡眠障害と駅疲労性によって、通勤・通学ができないということがしょうじる。睡眠障害と易疲労性がある場合は、その睡眠障害と易疲労性が、長期間の騒音によってもたらされたものであり、なおかつ、その長期間の騒音が終了しているにもかかわらず、身体的にくるしいということがしょうじる。

ようするに、頭のなかにある「過去の記憶」を消しても、睡眠障害と易疲労性は残る。

 過去のことは、頭のなかにしかない……という考え方はまちがっている。

過去のことはすべて、記憶でしかないことだから、過去の記憶を消せば、過去のことが原因で生じた、さまざまな身体的な障害が治ってしまうということはない。身体的な障害のなかには、脳みそや神経がかかわってる障害も含まれる。

 

 

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。