たとえば、居酒屋の名前だけ店長で、一日に睡眠時間が二時間しかとれない人がいたとしよう。そして、そういう一日に二時間しか眠れない日が一五年間、日曜日も含めて、続いたとする。
とりあえず、Aさんということにする。
普通のサラリーマンで、一日に睡眠時間が八時間の取れる人がいたとしよう。
とりあえず、Bさんということにする。
Bさんがある日、午後一〇時まで残業したとする。その日、帰ったあと、Bさんは七時間しか眠れなかったとする。
Aさんも、Bさんも残業で、賃金がしょうじなかったとする。
ようするに、サービス残業だ。どっちも、サービス残業をしている。サービス残業をしたことがある。けど、Aさんのつらさと、Bさんのつらさがおなじだとは思えない。残業によって生じる、Aさんの疲労と、Bさんの疲労は、程度においてちがいがある。
けど、AさんもBさんも残業をしたということにはかわりがない。そして、たとえば、Bさんが、「俺だって残業をしてつらかった」「俺だってつらい思いをして働いた」と言ったとしよう。
これは、Bさんが、残業をしてつらかったと思っているということだ。
じつは、Aさんも残業で死ぬほどつらいと思っている。なので、どっちも「つらい思いをしている」。ならば、Aさんのつらい思いと、Bさんのつらい思いにはちがいがないのか? 程度に置いてちがいがないのか?
ぼくは、程度においてちがいがあると思う。
けど、Bさんの主観をたいせつする?のであれば、Bさんの主観もたいせつしなければならないということがしょうじる。Bさんだって、つらい思いをしたことにはかわりがないのだから、どっちもつらい思いをしたということに関しては、おなじだと判断する人もいる。
けど、ぼくは、おなじではないと思う。
BさんがAさんにむかって「つらくてもがんばることがたいせつ」などと説教したとする。これは、いいことだろうか? 悪いことだうか? ぼくには悪いことに思える。
程度のちがいを無視する言葉がある。それは、「どれだけつらくたって」とか「どんなことがあったって」とかという言葉だ。そういうことを、付け加えれば、BさんがAさんにむかって「 どれだけつらくたって、がんばることがたいせつだ」と言うことができるのである。
この、程度のちがいを無視する言葉というのは、言うほうは、いい気持になって言うことができるけど、言われたほうは、いい気持にならないことが多い。
程度のちがいがあるのに、程度のちがいを無視されたことを言われると、腹がたつことがある。それは、程度のちがいがある場合なのである。
しかし、ここで、主観と客観の問題が発生する。だれが、Aさんのつらさも、Bさんのつらさもおなじレベルだと判断するのか? あるいは、だれが、Aさんのつらさよりも、Bさんのつらさのほうが、上だと判断するのか? あるいは、だれが、Bさんのつらさよりも、Aさんのつらさのほうが、上だと判断するのか?