たとえば、「受け止め方の問題だ」という言葉が発せられるときの、背後のわくぐみを考えなければならないのである。ところが、「受け止め方」ということがキーワードになると、あるいは、受け止め方」に視点が集中すると、あたかも、受け止め方だけの問題であるように錯覚してしまうのである。その錯覚に関しては、従業員が言うことをきかない場合についての、文章を読めばわかるだろう。だれがどういう立場で、なにを発言したのか……こういうことが問題なのである。ところが、背景となる「社会的なヒエラルキー」「個人を中心とした場合の比較優位と比較劣位」について、まったく考えないで、「受け止め方の問題だ」と言ってしまうのである。これは、こうだ」と決めてしまうのである。実際には、現実的な場面に埋め込まれた関係がある。その関係から、だれも、自由ではないのである。すでに、時系列的な関係があり、その関係をささえる社会的な妄想(共同幻想)があるから、その現実的な場面が成り立っているのである。このように、背景は重要なものなのに、背景を無視してしまう。「文」だけを考えて、すべての背景において、すべての関係において、その「文」が成り立つようなことを言ってしまう。これは、よくない。