人から見て、幸福かどうかということは、本人の主観的な感覚とはことなる。ほかの人から見て、不幸そうな感じの人なのに、本人は、幸福だと感じている場合はある。逆に、ほかの人から見て、幸福そうな感じの人なのに、本人は、不幸だと感じている場合もある。
しかし、「だから、思いようだ」ということにはならないのである。
主観的な問題だから、主観をかえれば、そう思うことができる。気持ちの問題だから、気持ちをかえれば、そう思うことができる。こういうふうに、主張する人たちがいる。
これは、まちがいだ。
不幸な人が、自分は幸福なのだと、無理やり思えば、その人が幸福になるかどうかだ。また、幸福な人が、自分は不幸だと、無理やり思えば、その人が不幸になるかどうかだ。 「気持ちの問題だから、気持ちをかえれば、そう思うことができる」と主張する人たちは、意識的な意思と全体的なこころの問題を考えていない。
主観の問題だということと、なのだから、意識的に操作できるということではないのだ。しかし、気持ちの問題だから、気持ちをかえれば、そう思うことができる」と主張する人たちは、主観の問題だから、意識的に操作できると思っているのだ。
主観的な問題だということはあっているけど、「だから、意識的に操作できる」という思い込みは、まちがっている。しかし、この人たちは、主観の問題なら、意識的に操作できると思い込んでいる。「主観の問題だ」という前半部分はあっているのだけど、「だから、思いどおりに操作できる」という後半部分は、まちがっている。
しかし、この人たちは、思慮が浅い人たちなので、前半部分と後半部分を一体化して考えてしまう。前半部分があっているのだから、後半部分もあっていると思って、まちがいに気がつかない。