「やめろ!やめろ!」と言い続けたのに、ずっと無視して、鳴らし続けやがって……。鳴っている時間の俺が、どれだけつらいか、きちがい兄貴はまったくわかっていない。
ほんとうに、どれだけ言っても、きちがい親父とおなじで、まったく、通じないんだよな。普通の人なら考えもしないことをやる。きちがい兄貴も、きちがい親父も普通の人だったら、考えもしないことをやる。
そりゃそうだろ。普通の人だったら、自分で自分に「制限」をかける。禁止する。
「こんなことはやってはいけないな」と思う。それが普通だ。あんなでかい音で、「うち」で、ずっと鳴らし続けるなんて、そんなの絶対に普通の人は考えないのである。思いつきもしない。「こんなでかい音で鳴らしたら、迷惑だからやめよう」と普通に思って、そういうでかい音で鳴らすことを考えもしない。
ところが、きちがい兄貴は、そういうところの思考回路がきちがい親父とおなじなのである。きちがい兄貴は、そういうところの「スイッチ」がきちがい親父とおなじなのである。
スイッチがはいったら、絶対の意地で鳴らす。
普通の人が、かりに、「こんなでかい音で」鳴らしたとしよう。けど、言われたらわかる。「でかいぞ」とか「でかい音で鳴らすな」と言われたら、音がでかいということは、認める。そして、やめる。
そういうところがまったくないんだよ。一度スイッチがはいったら、絶対に気しないんだよ。ほかの人になんと言われようが、気にしない。そして、おそろしいことに? 言われなかったことになってしまうんだよな。
これ、文句を言われているときの状態が、ほかの人とはちがうんだよ。
「文句を言われた」「なにか不愉快なことを言われた」ということは、理解できるのだけど、「文句の具体的な内容」が、まったく理解できないのだ。
じゃあ、知能に問題があるかというとそうではないのである。知能じゃなくて、無意識に問題があるのである。無意識的に、内容をうけいれることを、こばむのである。
そういうスイッチがある。
そういうスイッチが入ってしまったら、本人は、特に意識しないまま、「怒り狂って」無視してしまう。この無視というのが、これまた、本人は、「無視をしよう」と思って、無視しているわけではないのだ。頭がおかしいから、そういう反応になる。外部から見て、そういう反応になる。
ようするに、普通の人は、「無視をしよう」と思って「無視をした場合は」自分が「無視をした」ということを知っている。意識に「のって」いる。
けど、きちがい兄貴の場合は、「無視をしよう」と意識的に思って、無視をしているのではないので、「無視をした」ということを、知らないのだ。本人が、知らない。本人が、そう思ってない。
本人が、「無視をしようと思って」無視をした場合とは、ちがう反応なのである。
きちがい兄貴はきちがいだけど、「無視をしようと思って」無視をすることもできるのである。
けど、スイッチが入らないことについてなのである。この差は、微妙だけど、きちがい兄貴においても、「無視をしようとして、無視する」場合があるのだけど、無視をするつもりがないまま、無視をする場合がある。
「うち」にいるときは、そういうスイッチが入って、そういうモードになっているのである。だから、『うちの人』以外の人に対しては、「こいつは、不愉快なことを言ってきたら」無視をしようと思うことがあるのである。この場合は、普通の人が「無視をしようとして無する場合」とおなじ思考回路が働いている。
けど、「うち」では、そういう思考回路が働かない。ようするに、不愉快なことを言われたら、それはかならず、きちがい親父とおなじで、無意識的に無視することになるのである。
だから、本人は「無視したつもりがない」のである。
けど、からだが真っ赤で目が三角で、脂汗をかいて、きちがい的な意地でやってしまうのである。きちがい的な意地でやってしまう……意地をはってやったのだから、普通にやったときよりも、やったという感覚が残っていて当然だ。
ところが、きちがい的な意地でやった場合は、「やった」という感覚が、ごく普通に、残ってないのである。本人にとっては「やった」のか「やってないのか」わからないことなのである。「どうでもいいこと」なのである。
あるいは、これまた、無意識的に「わからないほうが都合がいい」ことなのである。
なので、やったかやってないかの境界が非常にあいまいになり、無意識的に「不都合なことをさける」思考回路が働いているので、現実的な場面では、これもまた「やってない」という感覚が打ち勝ってしまうのである。
なので、本人にしてみれば、やってないことなのである。そのくらいに、表面的な関心がないことになってしまうのである。
この……きちがい的な意地でやってしまう状態と、表面的な関心がないという状態で、やったということを無視してしまう状態が、これまた、おなじなのだ。これ、似たようなところがあるというか、おなじなのである。
やったという感覚がないわけだけど、それにプラスとして、自分にとって認めたくないことは認めない……いまの自分にとって不都合なことは、絶対の意地で、無意識的に認めないという感覚がある。
「しずかにしてくれ」と言われて、しずかにすることがいやな場合は、でかい音で鳴らしているということ自体を認めずに鳴らしきる。それが、過去のことになったら、「でかい音で鳴らしていた」ということと「(弟がやめてくれと言ったのに)自分が無視して鳴らし続けた」ということは、不都合なことなので、自動的に無意識的に無視してしまうのである。
認めないのである。感心がないし、認めない。
けど、これも、認めなかったことを認めないということになってしまうである。時系列的にはそういうふうに、ネスト構造が成り立っているのである。
ともかく、表面的な関心のなさが異常なのである。これが、腹の立つ部分なんだよな。腹がたつ部分のひとつなんだよな。
ともかく、時系列的には、つみかさなっていく。そして、きちがい兄貴の場合だと、時系列的には、まったく気にしないで、自分が好きな音でずっときちがいヘビメタを鳴らすという行為をしてしまう。
まったく気にしないのである。これ、どれだけ言われてもまったく気にしない。
そりゃ、自分がでかい音で鳴らているつもりがないのだから、そうなる。
普通だったら、でかい音で鳴らしているということは、耳が正常なら、絶対にわかることなのである。
そういう絶対にわかる部分を、へんなやり方で、きちがい頭をもってして、無視してしまう。相手がこまるということも、普通の頭なら、絶対にわかることなのだけど、わからないままなのである。
だから、相手がこまっているということが、本当に心底わからないのである。相手が、必死になって言ってきたら、必死になって、きちがい的な意地で鳴らすことになってしまうのである。
ところが、本人は、そういうふうにしたという記憶がまったくない状態なのである。
だから、相手とのトラブル(弟とのトラブル)の記憶もない……という状態で、毎日鳴らしているいるのである。いるのであった。そして、そういう期間が長いのである。
これも、「どーーして、ぼくの人生はこうなんだ」と思えるところだ。普通の人には「ない」ことなのである。普通の人が、経験しないことなのである。