環境というのは、『条件』の集まりだ。きちがい兄貴や、きちがい親父がいるうちに、「おぎゃー」と生まれると、きちがい兄貴という条件、きちがい親父という条件をかかえることになる。
きちがい兄貴という条件がない人には、きちがい兄貴という条件がある人のことは、根本的にわからない。経験していることがちがうからだ。「実際に経験したこと」が重要だと言っているだろ。
おなじように、きちがい親父という条件がない人には、きちがい親父という条件がある人のことはわからない。そして、きちがい親父と言っても、いろいろなタイプのきちがい親父がいるので、それぞれに、ちがった条件をもってしまうということになる。
Aというきちがい親父と、Bというきちがい親父は、きちがいの部分がちがうのだ。きちがい的な行動をうみだす、脳みそがちがう。
そうなると、Aというきちがい親父のもとに生まれてきた人と、Bというきちがい親父のもとに生まれてきた人とでは、条件がちがうということになる。
なので、ひとことで『きちがい親父という条件』と言っても、その中身はちがうのである。
似たようなきちがい親父はいるかもしれない。似ている度合いが高ければ、きちがい的な行動の特性が似てくるので、話が通じることもあるかもしれない。
けど、きちがい親父という条件をかかえた人と、正常な親父という条件をかかえた人とでは、まったく、ちがう条件をかかえているということになる。きちがい親父という条件をかかえた人が言っていることが、正常な親父という条件をかかえた人に、そのまま、うまく、正確に伝わるとは、到底、思えない。
なので、正常な親父という条件をかかえた人は、実質的には、きちがい的な親父という条件をかかえた人のことかわからないということになる。
しかし、「Xをすれば成功する」「Xをすれば、しあわせになる」というようなことを言うことがはやっているので、条件的に劣位である人は、そういうことを言われる機会が多くなる。条件的に劣位である人は、「成功してない」人であり、「しあわせではない」人なので、そういうことを言われがちになる。
ところが、条件的に優位である人は、条件的に劣位である人の条件について、なにも考えてない。考えたつもりになっているかもしれないけど、考えてない。
理解したつもりになっているかもしれないけど、まったく理解してない。
けっきょく、条件を無視して、法則性があるようなことを言う。
けど、法則性なんてない。条件を無視して、空想空間をつくりだして、そのなかで、推論しているから、そういうことが、あたかも成り立つような気分になっているだけだ。