本当に殺すしかなかったんだよな。
けど、殺せなかった。結果、俺の人生がズタボロになった。俺のからだがズタボロになった。俺の精神がズタボロになった。
あんなことを毎日やられて、「楽しく感じる心」を維持できるかというと維持できない。けど、ああいうことがなかった人……一時的なことではなくて、十数年間にわたって、毎日毎日、ああいうことがなかった人……にとってみれば、関係がないことなのである。
どうしてかというと、自分にはなかったことだからだ。なので、「人の話を聴いて」想像するものにしかすぎない。人の話というのは、ぼくの話なんだけど、ぼくの話を聴いて、そういうヘビメタ騒音が鳴ってたんだな……と想像するだけなのだ。
自分は、そんなものにさらされてない。
もちろん、ヘビメタが好きな人にとっては、どうでもいいことだ。そういうちがいもある。だから、ここは、自分にとって一番苦手な音が、大音響で、長時間、鳴っていたと置き換えてくれればいい。置き換えたとしても、基本的には、「人の話を聴いて」想像するものでしかない。
だから、ぼくには会った実際の時間が、その人たちにはないのだ。実際の時間……現実の時間……。現実世界において、長時間さらされた……。これが重要なのである。そりゃ、変化をうけるでしょう。脳みそだってからだだって変化をうける。
しかも、学生というのは、学校に通うということをやっている。ヘビメタ騒音がなければ、なんともないことだけど、ヘビメタ騒音があるとなると、その「なんともないこと」がものすごくむずかしいことになる。
これを、一日も経験しなかった人が、わかるかというとわからない。
この世で一番嫌いな音が、一日のなかで長時間続いて、それが毎日続くという生活の、意味がわからない。ひどさがわからない。他人にとっては、「なかった」ことだ。「なかった話」なのである。「俺だって困難は経験した」というけれど、その人が、医者とか、会社員とかこう医務院をしているのであれば、現に、通っているのだから、現に、通うだけの体力があるということなのだ。
そして、その体力は、きちがいヘビメタ騒音にさらされなかったから……自分の一番嫌いな音に、数千日にわたって、休みなく、さらされることがなかったから、維持できているものなのだ。これは、保証する。これはただししい。
けど、俺がそういうふうに言ったって、実際に経験してない人にとっては、……人生のなかでそういうことが発生しなかった人にとっては……ひとごとなのである。「想像の話」。話を聴いて、頭の中で考えるだけの話だ。
だから、自分の体験ではない。自分の人生のなかには、そういうことは発生しなかったわけだ。なので、どこまでもどこまでも、他人事であり、どこまでもどこまでも、「想像の範囲内」のことなのだ。
想像の範囲内のことだというのは、トートロジーになるけど、現実発生したことではないということを意味している。トートロジーになるけど。ようするに、話は理解したという範囲での「理解」と、経験して時系列的にさまざまなことが発生している範囲の「理解」はぜんぜんちがうということになる。