みんな、「程度」というものを考えないんだよな。
「程度」というのは、重要だ。たとえ、強制的にわらうにしろ、わらえば、病気が治るというようなことを言う人がいるけど、ちがうんだよ。まるでわかってない。
たとえば、ある毒で、症状が出ている人がいるとする。まあ、広い意味で、なんとか病になったとする。その場合、毒の力と、意識的にわらうことによって得られる治癒の力と、どっちが強いのかということを考えなければならないのだよ。
そして、本当に、どんな条件でも、どんな状態でも、意識的にわらえば、治癒の力があがるのかどうかを考えなければならない。
意識的にわらうことが、治癒の力?にいい効果を発揮するとする。
けど、それって、その人の状態によるんじゃないの?
それから、これも、わらったから病気が治ったのか、あるいは、わらったあと病気が治ったかということを考えなければならない。
ようするに、意識的にわらうにしろ、わらえば、病気を治す効果があると言っている人は、病気をもたらしているものの力(物理的な作用)とわらったことによって得られる治癒的な力の差を無視して、わらう人?のもとからある治癒能力(免疫システム)を無視して、さらに、わらう人の環境(条件)を無視している。
たとえば、ある毒を摂取したとする。その毒の一日の効果が、一〇〇メートル。わらうことによってなおる効果が一ミリだったとする。その場合、九九メートル九九センチ九九ミリは、後退することになる。
まあ、じゃあ、一日に一〇〇センチ、毒によってマイナス方向に動くとして、一日に一センチ、わらう効果によってプラス方向に動くとする。その場合、一日にマイナス九九センチだ。一日に九九センチずつ、マイナス方向に動いてしまう。プラスにならない。
毒の効果よりも、わらう効果のほうが、高い場合は、プラス方向に動くことになる。
ところが、わらいの効果を絶対視する人は、毒の物理的な効果を無視してしまうのである。あるいは、わらう効果のほうが、高いと思ってしまうのである。
だから、一点突破できるようなことを言う。
けど、実際には、わらうことによって発生する物理的な効果が、少量であって、なおかつ、毒によって発生する物理的な効果が、多量である場合は、毒の効果のほうが強いので、毒にまけて、死ぬということになる。
ところが、一点突破しか考えず、量を考えない人は、逆の結論を導き出してしまうのである。
量というのは、効果の量だ。一日に同じ割合で、毒の効果もわらう効果も続く場合は、日にちがたてば、効果が高いほうが、優勢になる。全体量としてはつもってしまうので、そうなる。注1。
わらうことによって生じるプラスのパワー? が、毒によって生じるマイナスのパワーを、「物理的に」上回ってなければならないのだ。そういう『条件』がつく。こういうことを、無視するべきではない。無視すると、でたらめなことを言って、人をまどわせることになる。
ようするに、「生き返ると言えば、生き返る」と言っている人とおなじになってしまう。
これは、ある人が「○○さんは、生き返る」と言えば、○○さんが、生き返るということだ。そういう意味で、 「生き返ると言えば、生き返る」と言っている。その場合、ニセの希望をあたえることになるのである。
「生き返るまで言えばいい。気持ちを込めて言えば生き返る。気持ちを込めて言ってないから、生き返らない。おまえの言い方が悪い。だから、だめなんだ。言霊理論は正しいけど、おまえの言い方が悪いから、生き返らないんだぞ。言霊には人を生き返らせるチカラが宿っているけど、おまえの言い方が悪いから、そのチカラを引き出せないだけだ」と言って、生き返らせることができない人を、せめるのである。
もちろん本人は、せめているつもりがなく、「いいやり方について、助言しているだけだ」と思っている。
これとおなじことが、意図せず毒を摂取してしまって、意識的にわらっている人に発生するのである。
彼らは「わらい方がダメなんだ」「わらう回数がたりないんだ」と言って、「わらってもだめだった人」をせめるのである。ようするに、わらうことの効果について説明する人は、わらってもだめだった人を、せめるのである。
わらうことの効果について人に説明する人は、毒の特性と、わらうということの特性について、誤解をしている。『量』について考えていない。
かりに、わらうということにプラスの効果があるにしろ、その量を考えてないのである。
物理的な現象として、わらうということにはプラスの効果があるにしろ、そのプラスの効果の量が問題なのである。物理的なことを考えた場合、毒の効果は固定的で、わらうということの効果は流動的で固定的ではない。
さらに、気分がよくなるとか、血行がよくなるとか、しあわせホルモンが出るとかということが、本当に起こるのかどうかわからない。
これにかんしても、わらうことをすすめる人は……一点突破でかえることができるということを主張する人は……どんな場合でも、絶対にそれが発生すると考えているのである。
けど、ぼくの考えでは、条件によって発生する場合と、条件によって発生しない場合があるということになる。
どんな場合でも発生すると考えて、さらに、毒に対して絶対的な量プラスである(プラス効果がある)と考えてしまのである。
けど、血行が良くなるとか、しあわせホルモンが出るとかということが、毒によってさまたげられている場合だってあるし、血行が良くなるとかしあわせホルモンが出るということの効果が、かりにあったとしても、毒を上回っていない場合もある。
気分がよくなるということだって、本当に、作りわらいを浮かべて、気分がよくなるかどうかは、わからない。わらいをすすめる人は……「科学的に証明された」というようなことを言うけど、それは、まちがっている。誤解だ。これに関しては、専門家?のほうにも罪がある。
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相手に、現実的ではないニセの希望をあたえ、相手がそれをやってダメだった場合、彼らは相手のやり方のせいにする。
ダメなことは、条件によって決まっているのである。条件を満たさなければ、彼らが言っているようなことにはならない。
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注1について
毒があるものを産生して、あるものが毒である場合は、つもることになるので、そういうことを前提にして話している。まあ、毒が減少していく場合もある。しかし、その場合は、毒を分解する体のしくみについて考えなければならないのである。時間経過ともに、毒が減少する場合であって、なおかつ、わらっていた場合、わらっていた効果で毒が減少してなくなったと思うかもしれないけど、体に毒を分解するしくみが備わっていたから、毒が分解されて減少したと考えるべきなのである。毒を分解するしくみがないのに、わらっていたとしよう。その場合、わらっていれば、毒が分解されるということはないから、ない。毒を分解するしくみがなりたっていて、自然にわらうことが、そのしくみを(たしょうは)たすけるという場合は、わらうことには、たしょうの効果があるということができる。けど、その場合だって、まず、毒を分解するしくみが成り立っていなければならないし、自然にわらうということが、その毒を分解するしくみを助けるしくみをもっていなければならないのである。さらに、無理やりわらうことが、おなじしくみをもっているとは限らない。