これ、ヘビメタ騒音、どうするんだよ。ほんとうに、終わらないよ。ずっと、ヘビメタ騒音だった。
ほかの人から見れば、俺が、こだわっているように思えるんだろうな。けど、それは、ちがうんだよ。ほかの人が、経験してないから、広大な影響がわからないだけだ。ほかの人たちは、実際に経験してないから、どれだけの影響が出るかわかってない。これ、ちょっと無視しすれば、それで、すむもの、ではないのである。けど、わからないのだから、わからないのだろう。数千日、きちがい的な住人が、横の部屋で、自分が一番苦手な音を、まったく気にせず、がんがん鳴らしていたら、そりゃ、すべての生活がくずれるんだよ。鳴っているときだけつらい」と思っている人は、「鳴り終わったら関係がない」と思うけど、まったくちがう。そういうこと自体がわかってない。そりゃ、経験がないなら、そうなのだろう。これは、一日のなかでのヘビメタ騒音の話だけど、人生のなかでのヘビメタ騒音の話もある。きちがいだから、スイッチがはいったらずっとやり続ける。よその家では一分間だって鳴らせない音を「うちでは」「きがねなく」鳴らし続ける。どれだけなにを言われたって、そのとき、腹をたてるだけで、現実を無視して、きちがい的な意地で鳴らし続ける。きちがい的な意地で鳴らし続けたら、きちがい的な意地で鳴らし続けたという「きもち」が、残っていればいいのだけど、そんな気持ちはまったく残ってない。この、「残ってなさ」がきちがいなんだよ。ほか人は、「自分の家族をきちがいとか言って、おまえがきちがい」というようなことを言ったりするのだけど、きちがい兄貴は、普通じゃないんだよ。おまえの家族が普通だったからって、ぼくの家族が普通だということにはならないんだよ。おまえは、きちがい家族の影響をまのがれている。だから、『きちがい』というような形容が気にくわないのだろう。「自分の家族」にたすいるきちがいというような形容が気にくわないのだろう。けど、ちがうんだよ。これ、一分間だって、くるしくてくるしくて、たまらないのに、毎日、やられていいわけがない。きちがい兄貴のきちがい的なやり方や、きちがい的な感覚が、まさに、きちがいなんだ。それ以外の形容がない状態なんだよ。それ以外の形容がない状態で、現実を無視して、きちがい兄貴がやりきった。現実を無視してというのは、これまた、ほかの人にとっては、「どうでもいいこと」なんだけど、やられた俺にとっては、どうでもいいことじゃないんだよ。どれだけの気持ちが、積もると思っているんだ? いや、まったく、どういう気持が、どれだけ積もるかなんて、わからないのだろう。わからないからそう言っているのだろう。けど、ちがうんだよ。まあ、どれだけ言ってもわからないとは思うけど。でっ、ぼくにとって、他者というのは、そういう他者なんだよ。これも、きちがい兄貴が、現実世界で、実際に、がんがん鳴らし続けることでつくってしまった、ぼくと他者の関係だ。 きちがい兄貴が、現実世界で、実際に、がんがん鳴らし続けることでつくってしまった、ぼくと他者の「認識のちがい」だ。「認識のちがい」……でかいよ。
ともかく、他人に言っておきたいのは……どうせわからないとは思うけど、言っておきたいのは、ヘビメタ騒音というのは、ぼくにとって、いま現在の問題なんだよ。ここが、まったくわかってないんだよな。今現在、ヘビメタ騒音でくるしいんだよ。ヘビメタ騒音は鳴り終わっているけど、いま現在、ヘビメタ騒音でくるしいんだよ。ヘビメタ騒音のくるしさは、過去のものじゃないんだよ。やられてない人は、最初から経験がないので、「過去の出来事」なら、影響も「過去」にとどまるはずで、「現在」には影響をあたえないと思うんだよ。けど、ちがうのぉーーーーーー。まったくちがうのぉーーーー。
これ、鳴っているときから問題だったんだよな。一日のなかで、学校にいるときは、ヘビメタ騒音問題は、過去の問題だから。一日のなかでも、理解されない。昨日鳴っていたヘビメタ騒音は、過去の騒音なんだよ。過去の騒音は現在に影響をあたえないという考え方だと、「昨日のヘビメタ騒音なんて関係がない」ということになってしまう。けど、鳴っている時間のからだの影響と、鳴り終わったあとの睡眠時間としてあてがわれている時間の、えいょきうがあるんだよ。そりゃ、寝不足なら、次の日の日中に影響をあたえる。日中の身体に影響をあたえる。寝不足については、次の日に影響をあたえるというのはわかるけど、前の日にヘビメタ騒音を浴びせられた時間の影響が、次の日の日中に影響をあたえることはないと思うかもしれないけど、寝不足とおなじぐらいには影響をあたえている。これもわからないだろうな。