たとえば、痛覚というのは、「それをやられ続けるとやばいぞ」とか「それをやり続けるとやばいぞ」とかということを伝えるためのものなのである。
まあ、これは、仮説だけどね。この仮説は、相当に説得力がある。痛覚がなかったら、傷ができてもまったくいたくない。いたくなければ、いいのか?
いたいと思うから、傷ができることをさけようと思うわけなのだよ。
やられ続けたら、死んでしまうだろ。
だから、いたみを使って「これはやばいぞ」という信号を発信しているわけ。
痛覚がなければ、いたるところで「ぼろぼろ」になって、身体が、はやめに、動かなくなってしまう。
そりゃ、そうだろ。
自然界は厳しいのだから、やばい状態がいっぱいある。そのやばい状態から逃げるために、痛覚が必要なのである。あるいは、痛覚があったほうがいいのである。
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「暗いことを考える」というのは、「思考の痛覚」みたいなものなのである。たとえば、干ばつで、作物が育たないということが発生したとする。期間が長ければ、食べ物がなくなって、死んでしまう。
そこで、「干ばつになるとこまるから、食料を備蓄しておこう」ということになるのである。「干ばつになる」という可能性について考えるから、食糧を備蓄しようと思うのだ。
「干ばつになる(かもしれない)」という思考は、暗い思考なのである。ネガティブな思考なのである。暗いことを考えるからこそ、食料備蓄という対策を思いつくことができる。
これは、干ばつについてだけ、言えることではない。ほかのいろいろなことにかんしても、暗いことを考えて、対策をしているのだ。
たとえば、「食中毒を起こすかもしれない」から、においをかいだり、カビがはえてないか、くさったところがないか、確認しているのである。
まだ、雨がふってないときに、外出するとして、天気予報で、雨になると言っていたから、傘を持って外に出るとする。これなんかも、「雨にぬれる」という暗いことを考えて、傘をもっていくという対策をしているのだ。
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暗いことを考えると暗いことが起こると信じている人が、本当に「暗いこと」を考えないかというとそうではないのである。
普通に、考えている。
本人が、意識してないだけで、本当は、暗いことを考えている。
もし、「暗いこと」を考えないようにするとなると、食品の見た目やにおいを一切合切気にしないで、食品を食べるということになる。
暗いことを考えると暗いことが起こると言っている人だって、実際には、「これは、だいじょうぶかな」とにおいをかいで確認したり、目で見て、へんな色になっていないか確かめたりする。
暗いことを考えると暗いことが起こると言っている人だって、雨がふりそうだと思えば、傘をもって外に出るのである。
いまの世の中、裸足で歩くと、やばいものをふんでしまうかもしれない。だから、靴を履いて、外に出るのである。あるいは、ただ単に、足の裏がよごれるといだから、靴を履いて出るのである。
その場合、「やばいものをふんでしまう」というようなことや「足がよごれる」というようことを考えるわけだけど、「やばいものをふんでしまう」ということや「足がよごれる」ということは、ネガティブなことなのである。暗いことなのである。
歯みがきをするのだって、歯磨きをせずに、虫歯になったり、歯槽膿漏になったりするのがいやだから、歯磨きをするのである。まあ、そこらへんは、人の考え方次第なのだけど、ともかく、「虫歯になる」ということや「歯槽膿漏になる」ということは、悪いことなのである。思い浮かべてはいけないことなのである。
暗いことを考えると、暗いことが起こると考えている人は、「虫歯になる」と思うことができない。ほんとうは、そうなのである。「虫歯になる」と思ってしまったら、実際に「虫歯になってしまう」ので、「虫歯になる」と思わないようにするのである。
「虫歯になる」ことをさけるために、歯磨きをしようと思わないのだ。歯磨きは、虫歯対策なのである。歯槽膿漏でもおなじ。「歯槽膿漏になる」と思ってしまうと、実際に歯槽膿漏になってしまうので、「歯槽膿漏になる」と思うことはやめようと思うわけだ。けど、思うことはやめようと思った時点で、過去において「歯槽膿漏になる」と思ってしまったということを意味している。
暗いことを考えると、暗いことが起こると本気で思っている人は、「虫歯になる」ということや「歯槽膿漏になる」ということを考えると、虫歯になったり、歯槽膿漏になったりするので、虫歯になることや歯槽膿漏になることを考えることができない。
思い浮かべたら、その通りになってしまうのだから、虫歯になると思ったら、虫歯になってしまうのである。
ところが、思いとは関係なく、虫歯菌が、物理的に、歯に作用して、虫歯になるのである。歯槽膿漏だって、思いとは関係なく、歯槽膿漏を引き起こす細菌が、歯茎に物理的に作用して、歯槽膿漏になるのである。
「虫歯になる」と思ったから虫歯になるのか?
「歯槽膿漏になる」と思ったから歯槽膿漏になるのか?
「虫歯になる」と思わなければ、虫歯にならないのか?
「歯槽膿漏になる」と思わなければ、歯槽膿漏にならないのか?
「虫歯になる」と思わなくても、虫歯菌と、歯を構成する物質の相互作用によって、虫歯になる。「虫歯にならない」と思っていれば、虫歯菌と、歯を構成する物質の相互作用が起こらないかというと、起こる。
なので、「虫歯にならない」と思っていたとしても、虫歯になることはある。そして、「虫歯になる」と思っていても、口内に、虫歯菌がまったくいないなら、虫歯にならない。
悪いことを考えると悪いことが発生すると考えている人だって、雨がふりそうなときは、傘をもって外に出るし、靴を履いて外に出るし、普通に歯みがきをする。
自分の「注意」がむかないところでは、自分だって、「悪いことを考えて」対策をしている。けっきょくのところ、自分の注意がむくか、あるいは、自分の注意がむかないかの問題なのである。
虫歯になると思うと、虫歯になるので、虫歯にならないように、虫歯になると思わないようにするとしよう。その場合、逆に、虫歯になる確率があがる。
どうしてかというと、歯みがきをしないからだ。虫歯になる」と思ったから、対策として、歯磨きをしようと思うのだ。もちろん、親がそういうふうに教えてくれたということだってある。理由を考えないで、歯磨きをしていたということだってある。
けど、親は、こどもが歯磨きをしないと虫歯になってしまうと悪いことを考えて、対策として、歯磨きをすることを教えるのだ。
靴を履くということでもそうだけど、慣習として受け継がれているものは、ちゃんと理由があることが多い。悪いことを考えて、対策として、そうしているのだ。けど、そういうふうにすることを教えられ子供が、その理由を完全に知っているとは、かぎらない。
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魚を食べて、水俣病になってしまった人は、「この魚を食べると水俣病になる」と悪いことを考えることができなかったので、水俣病になってしまったのである。
「この魚を食べると水俣病になる」と暗いことを考えることができたら、食べないので、水俣病にならずにすんだのである。
なので、「この魚を食べると水俣病になる」と暗いことを考えると水俣病になるという考え方はまちがっている。「「今日も魚を食べて元気に活動しよう」と明るいことを考えて、その魚を食べたから、水俣病になったのである。
ようするに、汚染魚であることがわかっていれば、食べなかったのである。
この、「魚に原因がある」ということがわかったのは、「のちに」水俣病と言われる病気になった人がいたからだ。これにかんしても、人間が知っているかどうかにかかわらず、有機水銀と体を構成する物質とのあいだに相互作用がしょうじたから、そうなったのだ。
人間が知らなくても、物理的な相互作用によって、そうなる。
「思うかどうか」というのは「知っているかどうか」とたいへんに深い関係がある。例外がまれにあるかもしれないけど、まったく知らない場合は、思うことができない。
水俣病の場合、有機水銀を摂取すると、水俣病になると思うことができなかったのだ。その魚には、有機水銀がはいっているということを知らなければ、その魚を食べることによって水俣病になると思うことができない。
思うことができなくても、物理的な相互作用によって、水俣病になる。
つまり、本人が思うかどうかに関係なく、暗いことが発生する場合がある。
「暗いことを考えると暗いことが起こる」と言っている人は、暗に暗いことを考えなければ暗いことは起こらないと思っているのである。
明るい思霊主義者は、「思わないこと」で、「防衛することができる」と思っているのだ。
「暗いことを思わない」ことが、「暗いことが(実際に)起こる」ことの対策になっているのである。……明るい思霊主義者の頭のなかでは。
しかし、これは、いままで見てきたように、完全にまちがっている。防衛にならない。対策にならない。
「暗いことを考えないこと」は防衛にならない。「暗いことを考えて」対策をしなければならないのだ。「暗いことを考えて」……その暗いことが起こらないようにするにはどうすればよいかということを考え、対策しなければならない。
しかし、明るい思霊主義者は「暗いことを考える」ということを禁止してしまう。自分にだけ禁止するならいいけど、ほかの人に対して、禁止しようとするな。