ともかく、ヘビメタ騒音の影響を過小評価したやつは、だめなやつだ。性格もわるいし、頭もわるい。しかし、こういうやつが、全体の九五%だった。
こんな、世界、ない。
きちがい兄貴がやったことが、特殊なので、ほかの人は、まったく経験してないのだ。ほかの人だって、そりゃ、この世界に住んでいれば、「いやなこと」はたくさんあるだろう。「騒音」だって経験しただろう。
けど、それとは、ちがうんだ。
「けど、それとは、ちがうんだ」と言っているのに、それを理解しないやつら……。そんなやつらが多数派なのだから、ぼくにとってこの世は住みにくい世の中だ。過小評価したやつと書いたけど、無視したやつも含まれている。
こいつらにとってみれば、ヘビメタ騒音なんてどうでもいいことなのである。こいつらは、実際に経験してないので、どういうものなのかわかってないだけだ。ぼくにとってヘビメタというのは、この世で一番嫌いな音なのである。
それを、至近距離で、大きな音で聞いているやつがいる。そいつが、いわゆる「ヘビメタ難聴」になったのだから、「大きな音」で聞いていたのは、まちがいがない。小さな音なのに、ぼくが「大きな音だ」と感じて文句を言っていたわけではないのだ。ぼくは、押し入れに助けられたのか、ヘビメタ難聴にはならなかったけど、ずっと、大きな音にさらされてきた。だいたい、本人がヘビメタ難聴になっても、まったく気にしないで、そのまま、がんがん鳴らし続けるなんておかしいだろ。頭がおかしいから、そういう音で鳴らしているんだよ。
そういう音で鳴らしても、「まったく問題がない」と考えているから、そういう音で鳴らしているんだよ。感覚がずれているのは、兄貴のほうだ。ぼくじゃない。
ところが、「過小評価したやつ」「無視したやつ」は、そういうことも、過小評価し、そういうことも、無視してしまうのだ。こんな、頭がわるいやつら……。
こいつらは、俺が、音に敏感だから、兄に文句をつけていた」と思っている節がある。「そんな音で鳴らしていたら絶対に、親が文句を言う」「やめさせる」と思っているのだ。
これも、普通の家ではそうなのだろうけど、ぼくの家ではちがうんだよ。
ともかく、常識的なやつらが、誤解をする行為を、きちがい兄貴はずっとやっていた。これ、常識的な人にとって「盲点」なのである。
だれだって、ちょっとぐらいは騒音がある。だれだって、眠れない夜はある。けど、みんな頑張って、通勤している。それなら、たとえヘビメタ騒音があったとしても、エイリさんだって、できるはずだ……と考えてしまうのである。盲点。盲点。強烈な、盲点。
きちがい兄貴が「盲点」をついたのである。
しかも、きちがいだから、きちがい的なやり方で常識的な人の「盲点」をついたのである。常識的な人は、実際に鳴らされてないので、わからない。
これ、単に、音の持続時間の問題だけではないのである。きちがい兄貴の、音に対する感覚や、家族に対する感覚がものを言っている。持続時間も実際に長いのである。普通の人は、どれだけこったとしても、楽器の練習なんて、一日に2時間ぐらいだ。ところが、きちがい兄貴はすべての時間を使って、エレキギターの練習をした。これも、普通の人なら、ヘッドホンをしてやるのに、きちがい兄貴は、「なまのおと」にこだわってこだわって、絶対にヘッドホンをしなかったのである。「なまのおと」といっても、もちろん、スピーカーから出る音だ。
きちがい兄貴が、絶対の意地で、ヘッドホンをしてくれなかったということは、特筆すべきことなのである。
これがわかってないから、「たいしたことがない」と常識的な人が勘違いしてしまう。こんなのはない。常識的な人は、きちがい兄貴の維持や、きちがい兄貴の感覚がわかってない。自分にとって都合が悪いことは、感覚器を書き換えて認めないということの、もつ意味が、わかってない。
普通の人にはわかってない。
常識的な人であって、なおかつ、兄貴とおなじような問題をかかえている人間と一緒に暮らしたことがない人には、まったくまったく、わからない。
ちなみに、きちがい兄貴の「なまのおとにこだわって」絶対にヘッドホンをしてくれなったということと、きちがい親父の「俺がネズミシートでつかまえるからいい」と言って、絶対にネズミ対策工事をしてくれなかったのは、おなじなのである。きちがい親父の、酒糟のついた魚の切り身を、長時間、ずっと、テーブルの上に置いておくということに対するこだわりも、おなじところから出てくる。
きちがい感覚がおなじなのである。
頭の構造がおなじなのである。
これ、「どれだけ言っても修正できない」のだよな。他人は、修正できない……他人を買えることはできないと言っても、正常な他人と、異常な他人はちがうのである。感覚が正常な他人がやることと感覚が異常な他人がやることはちがうのである。
もう、認知症でない人と、認知症である人がちがうようにちがうのである。普通の人は、普通の家族と一緒に住んでいるのだから、感覚器を書き換えてしまうような家族と一緒に住んでいるわけではない。その場合、普通の人とのトラブルになるのである。
ところが、うちには、ふたり、普通の人とはまったくちがう感覚をもっている人がいたので、その人たちとのトラブルというのは、普通の人とのトラブルとはちがったものになるのである。なので、「一般論」というのは、成り立たない。
成り立たないのに、一般人が「一般論」でせめてくるのである。
俺が言ったことを、一般的な常識で理解して、「くそふざけたこと」「勘違いしたこと」を俺に言ってくるのである。一般人、常識的な人が、勘違いして、勘違いした発言を、してくる。これが問題なのである。