本人に相手をくるしめるつもりがなくても、本人の行為によって、相手がくるしむ場合がある。こういうことすら、明るい言霊主義者の世界では、ないことになっている。
さらに言ってしまえば、「立場」というものをまったく考えていない。
たとえば、社長と平社員がいたとする。社長は、平社員に「不平不満」を言うことはたやすいけど、平社員は社長に不平不満を言いにくいということがある。立場で、不平不満の言いやすさがちがうのである。
ある人が、ある人に不平不満を言う場合は、不平不満の言いやすさにちがいがある。
立場によって、不平不満が言いやすい相手と、不平不満が言いにくい相手がいるのだ。こういうことは、現実的な条件のひとつだ。こういう現実的な条件のなかで、喘ぎながら生きているのが人間だ。社会的な人間だ。
なので、現実はそうなのだから、現実を無視するわけにはいかない。
ところが、「不平不満を言う」ということを、普通の人が考える場合、「不平不満を言う」という抽象度の高いことを考えることになる。
これは、言ってみれば、なにもない空白空間で、とてつもなく、抽象度の高いことを考えることになるのである。これは、『善』とか『悪』という場合にも成り立つのだけど、いまは、横に置いておく。
ともかく、抽象度が高いのだ。抽象度が高いということは、現実の条件について考えなくてもいいということだ。だから、空白空間で、「不平不満を言う」という抽象度の高いことを考える場合は、さまざまな条件が、捨象されてしまう。
捨象されるからこそ、なにか、「XをすればYになる」というような法則性がありそうなことを、言えるような状態になる。ところが、現実生活では、さまざまな条件が成り立っているので、空想的な空白空間で成り立った抽象的なことが、成り立たないのである。
立場……。立場だって、現実的な条件のひとつだ。自分を中心にして考えた場合、自分よりち立場が上である(と認識している相手には)不平不満を言いくく、自分よりち立場が下である(と認識している相手には)不平不満を言いやすいという傾向がある。人間にはそういう傾向があるのではないか。
そうなると、空白空間で、抽象的に、「不平不満を言う」ということについて考えたことがむだになるのである。だって、現実的にはそんな、空白空間がないから。その空白空間で出た結論は、現実的な結論ではないのである。しかし、
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現実世界では、他人が、自分にって不都合なことをやる場合がある。他人が自分に危害を加える場合がある。その場合、思霊主義者は、自分が「危害を加えられる」と考えた「から」「危害を加えられた」と考えるのである。
過去のある時点で「自分」が「危害を加えられる」と考えたので、「危害を加えられた」と考えるのである。
しかし、他人は、他人の意思によって動くので、自分が考えてなかったのに、他人が自分に危害を加える場合がある。
だれのみに降りかかることなのか、ということについて、思霊主義者は、まったく考えていない。自分の思考によって、世界が決まるのだから、自分の思考でそうなったと考えるのだ。しかし、これが、言霊主義者のように、でたらめなのだ。
たとえば、「どれだけ生き返ると言っても、死んだ人は、生き返らない」と言ったあとに、「言ったことが現実化する」と言って、まったく矛盾を感じないレベルの思考をしている。いきあたりばったりなのだ。
矛盾しているということについて、極端に鈍感なのだ。
思霊主義者も、そういうレベルで矛盾を感じない。空白空間の思考においては「自分が」「自分が」ということになって、自分が思うことだけを考えているので、他人が、自分の思いとは関係なく、行為する主体であるということを見逃しているのである。
自分の思いに関係なく、他人が、他人の思いを実行することがある。他人は、自分の「思い」とは関係なく、生きているのである。他人には、他人の「思い」があるのである。しかし、思霊主義者の考えのなかには、「他人」がない。(注1)
思霊主義者のように、「他者」を無視して「思ったことが現実化する」と考えるのは、無理がある。他者が参加している空間だから、自分の思いとは関係なく、他者が活動し(行動をしその結果、自分の身に関係があることがしょうじることがある。自分の身に関係があることがしょうじないという前提で、「自分の思い」だけ考えてもしかたがない。
利益追求を考えている他人は、工場排水を流しても、なにも感じないのである。もし、工場排水と「病気」に関係があるといわれても、工場排水と「病気」の関係を否定しようとするのである。どうしてなら、利益追求を考えているからだ。
効率主義者なら、たとえ、工場排水に問題があると指摘されても、効率を第一に考えて、行動する。不効率なことは、しないようにする。
そうなると、なにも、「病気にしてやろう」と思って、工場排水を流したわけではないけど、工場排水の影響で、病気になる人が出てくる。この場合、工場排水を出している主(ぬし)と、病気になる人がちがうのである。
思霊主義者は、病気になった人が、病気になると思ったので、病気になると思っているのだ。「他の要素」というものを無視している。「他人」というものを無視している。だから、AさんがBさんに、危害を加えたということにかんしては、立場がクロスした考えをもちがちだ。
思霊主義者は、結果を見て、「Bさんが、病気になる」と思ったので、Bさんが病気になったと考えてしまう。Aさんは、思霊主義者の思考のなかに出てこない。
「自分」対「世界」のところでも話したけど、言霊主義者は、そこらへんの区別があいまいで、その都度、自分にとって都合がいいように考えてしまう。ようするに、「思いが世界に反映する」という考え方にあうようなかたちで、現実を見てしまう。
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(注1)
だったら、他人に明るい考えをもってもらおうとする必要もないのではないかと思うもかもしれない。これにかんしてと言っておくと、思霊主義者がいきあたりばったりなので、その都度、矛盾のある行為をしているのである。空白空間では「他人」というのは出てこない。あくまでも、「自分」対「世界」だ。世界のなかには「他人」が含まれているかもしれないけど、その世界のなかの他人というのは、これまた、極端に抽象度が高い他人だ。ようするに、自分のなかでどうにでもなる他人なのである。ようするに、他人ということになっていても、自分の思考の一部だから、自分の思った通りに動く他人なのである。あるいは、集合的な他人だ。集合的な他人というものも、「世界の人たちがしあわせになりますように」というような言葉のなかに含まれている「他人」でしかない。空白空間で考える思霊主義者にしたって、現実にはふれているので、他人が不平不満を言う行為を禁止しようとするのである。他人が言いたいことを言う行為を禁止しようとしているのだから、ネガティブな行為だ。問題のある排水を流している企業の側に立って、「不平不満禁止」と言っているのだから、ネガティブな行為をしているということになる。