たとえば、「明るいことを考えれば、明るい世界になり、暗いことを考えると暗い世界になる」と考えている人がいるとする。
この人は、自分が「光側」で「悪魔側」の敵だと思っているだろう。だから、みんなが「明るいこと」を考えることをのぞむのだ。
それは、悪魔が嫌がることだと思っているところがある。ところが、実際には、逆なんだよ。そういうことを言うことで、悪魔側に協力をしてしまっている。悪魔側に、うまいこと、洗脳されて、そういうことを言っている。
「自分の思い」「世界」という二項目で考えているのだけど、実際には、悪い支配者層という項目がある。なので、悪い支配者層にとっては……人々が……「明るいことを考えれば、明るい世界になる」と考えてボケーっとしてくれていたほうがいいわけ。実際には、ぼけーーっと明るいことを考えているうち、どんどん、悪いことを実行していくわけ。
そして、悪いことをされて、ひどい目にあった人たちが、「ひどい目にあった」と言うことを禁止してくれるような存在があればいいなぁ……と支配者層は考えている。まさに、「明るいことを考えれば、明るい世界になり、暗いことを考えると暗い世界になる」と言う人たちが、支配者層がのぞんでいる人たちだ。
こういう人たちにとって、不平不満は、どんなことでも「暗いこと」なので、「暗いことを言うな」という考えに陥って、実際に、ひどいことをされた人たちが、ひどいことをされたと言うことを禁止してしまう。あるいは、禁止しようとしてしまう。
その呼びかけが「不平不満禁止」だ。
その呼びかけが「ネガティブ禁止」だ。
実際にひどい目にあった人たちに、「不平不満禁止」「ネガティブ禁止」と言ってくれる人たちがいたら、悪い支配者層は、おおよろこびだ。
「これは、好都合」と……どんどん、悪いことを実行して、被害者(ひどい目にあう人たち)を増やしてしまう。
なので、「明るいことを考えれば、明るい世界になり、暗いことを考えると暗い世界になる」と言っている人たちは、じつは、悪い支配者に協力してしまっている。
自分が「光側」の存在で、「不平不満禁止」「ネガティブ禁止」は世界を明るくすると思っているけど、じつはその言葉は、世界を暗くする。これ、暗いことだとわかる? 「不平不満禁止」「ネガティブ禁止」という発言自体が、ネガティブな発言だということが、わかるかな?
はっきり言えば、幼児的な万能感を「悪い支配者」に利用されているだけなんだよ。
「明るい言葉が明るい世界に対応」していて、「暗い言葉が暗い世界に対応」しているというような幼稚な考えを、悪い支配者に利用されている。悪い支配者が、この一見ポジティブな言葉を利用すると、じつは、悪いことをおしすすめて、悪いことをされた人たちの口をふさぐことができるわけ。
「明るい言葉→明るい世界」「暗い言葉→暗い世界」という連想は、幼児的な万能感から出てくるものだ。なので、悪魔的な支配者が、この感覚をつくりだしたのではない。
けど、悪魔的な支配者は、この感覚を利用するのである。
そして、非支配者層の人たちの間に、亀裂をつくりだす。「明るい言葉→明るい世界」「暗い言葉→暗い世界」という連想をしている人たちは、自分が明るい世界をつくりだすつもりでそういうことを言っているのだけど、言われたほうは、ものすごく不愉快な気持になるのだ。そして、しかえしをするために、自分よりもくるしい状態にある人に、そういう言葉をぶつけるということになる。これは、不幸の再生産なのである。
まったくわかってないかもしれないけど、本当にひどいことをされた場合、そういうことを、被害者側に言うのは、よくないことだ。よくないことなんだよ。わからないかもしれないけど。言われたほうは、ストレスがたまって、ほかの相手に、やりかえすことになる。それがまた、負の連鎖をうみだす。
前から言っていることだけど、べつに、暗い言葉が暗い世界をつくりだすわけではない。予兆があり、実際に、つらい思いをしているから、その原因について語っているのだ。すでに、暗い世界なのである。明るい言葉を発していれば、明るい世界になる」と言っているけど、なってないじゃないか。なってないということが、その言葉が嘘であることを、証明している。
はっきり言えば、うまくだまされちゃっているだけだ。まず、自分・世界という項目を考えて、自分の気持ちが世界に反映するという考えをもってしまう。これは、幼児的な万能感から生み出されるものだから、しかたがない。
自己責任論とおなじで、信念として、自分の内側にかかえていればよいのだ。
ようするに、対象は、自分自身だけでよいのだ。自己責任論だって、自分だけを対象にしたものなら、問題はない。他人に対して、そういうことを言うから問題になる。他人を自己責任論の対象にするから、問題がしょうじる。
自己責任論とおなじように「暗いことを言うと暗いことがしょうじる」というのは、自分のにだけ適応されるものだと思っていればよいのだ。自分だけが対象なら、それでいい。
しかし、「だれか他人」を対象にして、その言葉を言うのは、失礼だ。まるで、そのだれか他人が暗いことを考えたから、だれか他人がそういう暗い状態になっていると決めつけているみたいだろ。実際、決めつけているのだけど……。
わかんないかな?
* * *
明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えれば暗いことが起こる……これが正しいなら、ずっと昔に、明るい世界になっている。だれが好き好んで、暗いことを考えるか?
暗いことを考えなくても、他者が自分たいして、悪をなせば、暗い状態になる。自分が暗い状態になる。その場合、かならずしも、自己責任ではないのである。
明るいことを考えれば、明るいことが起こるなら、どうして、こんなにも暗い世の中なんだ? 自分が明るいことを考えても、ほかのことが理由で、暗い出来事が発生するのだ。
たとえば、悪い人たちが、ほかの人をだまして、ほかの人の命をうばおうとする。
そういうことが、おこなわれているのに、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と言って、そういうことについて考えようとしない。
そして、「ことあげ」をしている人たちを、「暗いことを言う人たちだ」と決めつけて、その人たちが「ことあげ」できないようにする。
水俣病のところにも書いたけど、その人たち……「ことあげ」をしている人たちには……その人たちなりの、理由がある。自分が水俣病にならなかったからといって、水俣病になった人たちが、不平不満を言うことを、どうして、とめることができようか?
「明るい考え→明るい出来事」「暗い考え→暗い出来事」と考える人たちは、時系列的な順番を考えない人たちだけど、もうすでに、悪いことが起こったあとだ。
そして、べつに水俣病になった人たちは、「いつか、自分は水俣病になる」と考えた人たちではないのだ。こういうことを、ちゃんと、まじめに考えたほうがいい。
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「ことあげ」についてちょっと、思うことを書いておく。神ではなくて、支配者層に対する不平不満を言うべきではないという思想がかくされているのかもしれない。支配者層だけではなくて、ともかく「うえ」のものに対して、不平不満を言うことは、けがれたことだというイメージをつくりだしているのかもしれない。あるいは、つくりだそうとしているのかもしれない。「うえ」のものだけではなくて、ともかく、不平不満を言うことは、よくないことだという思想は、まさしく、「明るい思霊思想」なのだけど、これは、じつは、抑圧システムの重要な要素なのかもしれない。