だからまあ、支配者層にやられたときや、支配者層が用意したしくみにやられたときは、「自己責任だ」と思って、おとなしく死んでいくけど、普段は、他人の自己責任を批判して、悦に浸っているような状態になってしまうわけ。
他人の身上に起きた不幸は、その他人の責任だと、断言して、断罪してしまう。
そして、自分が他人に対する攻撃をするときも、攻撃されてだめになった人間(他人)の自己責任になってしまう。自己責任論者というのは、自分が被害者になったとき、それは自分の自己責任だと自動的に考えるようになっているわけ。
けど、それは、自分が被害者である場合だ。
自分が加害者である場合も、被害者の責任だということになってしまう。自分が被害を受ける場合についてだけ、考えているから「いさぎがいい」考え方だと思えるわけ。自分が被害をあたえる立場である場合については、一切合切考えてないわけ。
意識的に空白であるわけ。
空白なら、自動的に、自己責任という考え方が流れ込んでくるわけ。ようするに、被害を受けたなら、被害を受けた人の自己責任だということになってしまう。
生まれながらに条件のちがいがある。不利な条件のもとに生まれた人もいる。その人がこうむるいろいろなことは、自己責任論の立場に立つなら、その人のせいだということになってしまう。
条件のちがいは、無視してしまうのである。悪い条件の人と、良い条件の人は、ちがう。悪い条件の人はいる。
ところが、『条件なんて関係がない』と最初から無視してしまうのである。 無視したところで、自己責任論について考えるのである。
だから、これも、セットになっているというところがある。
どれだけ、不利な条件のもとに生まれてきたとしても、そんなのは、自己責任だということになる。不利な条件からしょうじる、さまざまな、事件にかんしても、そんなのは、自己責任だということになる。そいつの自己責任だということになる。
なので、人が人に対して、つめたくなる考え方なんだよ……。自己責任論というのは。