たとえば、ころびやすい靴をはいて、ころびやすい道を歩いている人は、実際にころびやすいのである。そして、ころびにくい靴をはいて、ころびにくい道を歩いている人は、実際に、ころびにくいのである。
これは、一日のことではなくて、毎日のことだとする。
「靴」という条件や「道」という条件を無視した場合、平衡感覚がおなじでも、ころびやすい人ところびにくい人が出てくる。
たとえば、Aさんには、ころびやすい靴、ころびやすい道という条件が成り立っているとする。Bさんには、ころびにくい靴、ころびにくい道という条件が成り立っているとする。
Bさんは、自分がころびにくいので、自分はころびにくいという意識のもとに、よくころぶAさんを、ころびやすいやつだとなじることができる。
ころぶかころばないかが、平衡感覚のちがいによってきまると考えている場合は、事実、ころばない自分(Bさん)は、事実ころぶ相手(Aさん)よりも、平衡感覚において優れていると思ってしまう。
そして、Bさんが思霊主義者だとすると「Aさんは、ころぶということを考えているので、実際にころんでしまう」と思ってしまうのである。
Aさんは、実際に、ころぶということについ考えているかもしれないけど、ころぶということについて考えているから、実際にころんでしまうわけではないのだ。
Aさんがよくころぶのは、ころびやすい靴をはき、ころびやすい道を歩いているからだ。
よくころぶのであれば、ころぶということに意識がいき、ころぶということについてもよく考えがちになるけど、ころぶということについて考えているからころぶのではなくて、ころびやすい靴をはいて、ころびやすい道を歩いているから、ころぶのだ。
ころぶということが、暗いことだとすると、暗いことを考えているから、実際にその暗いことが現実化してしまうというわけではない。
Bさんは、Aさんの条件を無視しているから、そういう結論に達することができるのだ。そして、その結論は、まちがいを含んでいる。
靴という条件や、道という条件なら、かえられると思うだろう。今回は、かえられないという設定で話している。
この靴とか道というのは、生まれながらの条件でかえられないとする。
そして、たしかに成り立っていることなのだけど、他人が無視することなのである。他人がその条件について、考えないのである。
なので、その条件について考えない人は、常に、考えちがいをして、まちがった考え方を前提にした考えをおしつけてくるということになる。
その他人には、そういうふうにしか見えないのだから、そういうふうに言ってくる。けど、まちがっている。