「過去も、未来も存在しない。存在するのは現在だけだ」「過去は記憶の中にしかなく、未来は、まだ到来していないので、現在しかない」と言うようなことを言う人たちがいる。とりあえげ、「現在だけ主義者」と言っておこう。
しかし、これだと、「現在」と考えられた時点がずっと続くということになってしまうのだ。時間が流れて行かない。「現在」と表現された時点から、未来に時間が動いていくとする。そうなると、未来は必要なのである。
まあ、これ、現在と表現されているものをどのように考えるかということが、重要になってくる。
もし、現在だけなら、現在が、ずっと続くことになってしまう。
瞬間という言葉を使ってもおなじである。「今、この瞬間」がずっと続いてしまうのである。
この問題は、「ある」とか「存在する」ということの意味にもかかわってくる。ともかく「過去も、未来も存在しない。存在するのは現在だけだ」「過去も未来もない。あるのは現在だけだ」という言い方は、ふわふわっと、感じだけを言っている言い方だ。厳密に考えると、なにを言っているのか、わからない話になる。たぶん、言っている本人も、まったくわかってない。
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ところで、この言葉の問題だけではなくて、「今現在だけ主義者」は、じつは、「今現在しかない」と思って生活しているわけではないのである。
階段から落ちて、体がいたくなれば、階段から落ちたから、体がいたくなったと思うのである。
落ちたのも過去、いたくなったのも、過去だ。
けど、現在もいたいとする。これは、前にも書いた通り、過去の出来事が「現在だと考えている現在」に影響をあたえているということだ。
たとえば、今現在だけ主義者のAさんがいたとする。Aさんが、電車に乗っているとき、人身事故が起こって、Aさんが乗っている電車が止まったとする。人身事故の内容が、飛び込みだっとする。その場合、過去において、飛び込みという出来事が発生したということが、重要なのである。
実際に過去において、飛び込みという出来事が発生したから、Aさんが乗っている電車が停止した。過去の出来事が、現在の状態に影響をあたえている。あるいは、「すでに」あたえた。
Aさんは、「過去は記憶の中にしかない」などと主張しているのだけど、もし、人身事故が起こらなかったら、たいへん高い確率で、電車は止まっていなかった。
「人身事故が起こった」という過去の出来事が、人々の「記憶の中にしかない」ものだったら、こんなことにはならない。
そして、普通の生活の中にいるAさんは、電車が止まったので、遅刻するかもしれないと考えるのである。
これは、Aさんが、じつは、未来のことについて考えているということをあらわしている。
「過去も、未来も存在しない。存在するのは現在だけだ」「過去は記憶の中にしかなく、未来は、まだ到来していないので、現在しかない」とAさんは、主張しているわけだけど、普通に、未来のことについて考えて生活しているのである。
電車が動きだせば、「まにあうかもしれない」と未来のことについて考えるのである。
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Aさんが小便をしたくなったら、駅のトイレを使おうと思うのである。今現在しかないのであれば、そもそも、ある程度の「時間の長さ」をもつ「小便をしたい」というようなこと自体が、思い浮かばないのだけど、とりあえず、「小便をしたい」と思ったAさんは「過去も、未来も存在しない。存在するのは現在だけだ」などとは、思わずに、小便の問題を解決するために、未来のことについて考えてしまうのである。
「小便がしたくなった」のも、過去が今現在(と表現されているもの)に影響をおよぼしているからなのである。
過去の水分摂取と、Aさんの体の中でおこったことが、影響をあたえている。
もし、過去の出来事が、「人間の記憶」の中にしかないものだったら、過去の水分摂取と、Aさんの体の中でおこったことは、Aさんの「今現在」の尿意に影響をあたえない。ところが、過去の水分摂取と、Aさんの体の中でおこったことは、Aさんの「今現在」の尿意に影響をあたえるのである。
Aさんの電車が(Aさんにとって)目的の駅についたとき、Aさんは、ドアのほうに移動するだろう。これだって、Aさんが未来を考えて、ドア付近に移動したのである。
ほんとうに「今現在しかない」のであれば、こんなことはできない。
そして、移動したということは、過去の影響が、記憶の中にしかないということを否定している。移動したのだから、実際に移動したのである。
位置の変化があったのである。
「位置の変化」の結果を享受しているのに、「過去はない」とか「過去は記憶の中にしか存在しない」と考えるのは、自分勝手だ。
ちゃんと、普段は、未来のことを考えて、行動しているのに、未来の存在を否定する。
そして、行動の結果、状態の変化がしょうじたのに、「今現在しかない」「過去は存在しない」と言って、状態の変化がしょうじたということを、無視してしまう。
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もう、書く必要もないけど、Aさんが、食中毒になったときは、普通に、過去との関連を考えるのである。「あれを食べたから、食中毒になった」と思ったりするのである。
まあ、実際に、なにを食べたから、食中毒になったということは、検査で特定しなければならない。
けど、あるものを食べたという過去が、現在に影響をあたえているのである。
現在というのは、この場合、現在の状態という意味だ。食中毒になったらなったで、食中毒でくるしいということを感じるのである。
過去は記憶の中にしかないのであれば、どうして、今現在?食中毒でくるしんでいるのだ。
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ちなみに、Aさんの尿意には、言霊も、思霊も関係していない。水分摂取と、Aさんの体の働きが影響している。そして、尿意を感じるまえに、いろいろな原子的な、あるいは分子的な運動が存在したということを意味している。運動の結果が尿意としてあらわれるのだ。尿意を感じるのには、これまた、体が、尿意を感じるようにできていなければならないのだ。
Aさんが、尿意を感じていないのに「小便がしたい」と急に言って、「言った結果」言霊の力により、尿意を感じたわけではない。過去の運動の結果が、尿意を感じるということに結びついている。尿意を感じること自体も、過去の物理的な運動の結果なのである。人間のからだがそういうふうにできている。
おなじように、Aさんが、尿意を感じていないのに「小便がしたい」と急に思って、「思った結果」思霊の力により、尿意を感じたわけではない。尿意ひとつとっても、思霊や言霊は関係がない。
ところが、「小便をしたいと思うから、小便がしたくなる」とか「小便をしたいと言うから、小便がしたくなる」とかと、まちがったことを言う人たちがいる。
小便をしたくないときに、「小便がしたい」と思っても、小便がしたくならない場合のほうが多い。小便をしたくないときに「小便がしたい」と思ったら、小便がしたくなったような気分になったということを言う人たちがいる。
自己暗示でそういうふうに感じたのだろう。
しかし、じゃあ、ほんとうに、膀胱に小便がじゅうぶんにたまっていないときに、小便ができるかというとそうではないのである。 そして、実際に、小便がしたくてたまらない時の「小便がしたい」気持ちと、小便なんてまったくしたくないのに、「小便がしたい」と言って、なんとなく、小便がしたくなった時の気持ちは、ぜんぜんちがうのである。
実際に、小便をしたいときの膀胱の状態と、小便をしたくないときの膀胱の状態はちがう。言霊の力によって、急に、膀胱の状態がかわるわけではないのだ。ようするに、かわったのは、気持ちだけなのだ。しかも、気持ちですら、かわらないときがあるのである。ここでも、一〇〇%詐欺をしている。
言霊、言霊と言う人たちは、小便をしたいときの膀胱の状態と、小便をしたくないときの膀胱の状態はちがうということを、無視して、言えば、言ったから、膀胱の状態がおなじ状態になると、勝手に妄想しているのだ。これは、まちがった考え方だ。言えば、言ったから、膀胱の状態が、言霊の力によって、おなじ状態になったわけではない。
普段、言霊主義者だって、体のしくみによって、尿意を感じるのである。小便をしたくなった後に、小便がしたいと思うのである。小便なんて、まったくしたくないときに、突然、「小便がしたい」と言って、言霊の力によって尿意を感じて、小便をするわけではないのである。
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膀胱の状態ではなくて、気持について考えてみよう。私はちょっと前に……小便がしたくてたまらない時の「小便がしたい」気持ちと、小便なんてまったくしたくないのに、「小便がしたい」と言って、なんとなく、小便がしたくなった時の気持ちは、ぜんぜんちがうのである……と書いた。気持ちの問題は、膀胱の問題よりも、ちょっと、複雑なのだ。
言霊主義者は、他人事であれば、他人の状態を考えずに、言霊的なことを言う。たとえば、「小便をしたいというから、小便がしたくなる。小便をしたくないと言ったら、小便なんてしたくなくなる」と言うわけだ。相手の状態をガン無視したことを言うのだ。
「小便なんてしたくない」と言ったら、尿意が消えたなどと言うのだ。しかし、実際には、「小便なんてしたくない」と言ったあとに、小便をしているのだ。一時的に、「小便をしたくないような気分になったかもしれない」ということだ。そのくらいに弱いことなのである。言霊の力なんて、そのくらいに弱いものとして設定されているのである。ところが、同時に、すべてを現実化してしまうほど、強い力として設定されているのである。あるいは、すべてをかえることができる強い力として、設定されている。この「気分になる」「気がする」というような弱い力としての「言霊」と、すべてを現実化してしまうような強い力として「言霊」というのが、言霊主義者のなかで、ごっちゃごっちゃになっているのである。そして、ごっちゃごっちゃになっているということを利用して、まちがったことを言うのである。そして、ごっちゃごっちゃになっているから、矛盾に気がつかないのである。そもそも、「弱い力として言霊」と「強い力としての言霊」の設定自体に、問題がある。