いまでも、ヘビメタ騒音が鳴っている感じがする。いまでも、ヘビメタ騒音が鳴るんじゃないかと不安になる。あれが鳴り始めてしまったら、すべてが破壊されるのだ。たとえば、いま、土曜日の午後一時二三分なんだけど、土曜日の午後一時二三分は、いつも、ヘビメタが鳴っていたので、土曜日の午後一時台の雰囲気が、ヘビメタ騒音の雰囲気なのだ。午後二時も、午後三時も鳴っているのだけど、土曜日の、まだ明るい午後の雰囲気は、ヘビメタ騒音の雰囲気なのだ。やられてない人には、ない。やられてない人には、経験による学習がないので、当然、そんな雰囲気はしない。けど、さんざん、やられたので、学習してしまって、そういう雰囲気がある。そういう雰囲気を感じるようになった。「土曜日の午後」の雰囲気……は、きちがいヘビメタが鳴っている「土曜日の午後」の雰囲気なのだ。この学習をしなかったやつに、どれだけ、こういう雰囲気がすると言っても、わからない。わからないし、ひとごとだ。「そんなのは関係がない」「過去なんて関係がない」と言える。そいつは、平気でそういうふうに言える。けど、繰り返しの学習があると、現実認知……に、そのことがくっついてしまう。現実認知というは、こういう時間の午後は、こういう明るさだというような認知のことだ。まあ、晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、雪の日もあるわけだけど、晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、雪の日も、ヘビメタ騒音が鳴っていたので、土曜日の午後の雰囲気は、こういう雰囲気なのだ。鳴っている雰囲気だ。
しかも、人間なら、だれだって、学習がしょうじるのに、学習がしょうじなかった人から見ると、俺が「ヘビメタ騒音にこだわっているからダメなんだ」と見えてしまうのである。だれだって、長期間にわたって、毎日、きちがい的な物理刺激をあたえられれば、その物理刺激と、別の物理刺激がむすびつくようになるのに、まるで、こだわっている人がこだわっているから、こだわっているのだということになってしまうのだ。やられたことがないやつにとってはそうなのだ。そして、やられたことがないやつだって、「苦労」はしているので、「俺だって苦労した」「わたしだって、苦労した」と「言える」状態ではある。けど、ほんとうに、同等の苦労をした人が「こだわっているからダメなんだ」というようなことを言うだろうか? ほんとうに同等の苦労をした人は、学習が(意思に関係なく)しょうじるということがわかっているから、そんなことは、言わないのではないか。わかってないから、「こだわっている」と決めつけて、「こだわっている」と言うのではないか。「こだわっているからダメなんだ」と言うのではないか。
同等の苦労をした人は、学習がしょうじるということは「からだでわかっている」ことなので、「こだわり」というタームをもちいて、「こだわっているからダメなんだ」と言うだろうか? 同等の苦労をした人は、学習がしょうじてしまうということは、からだでわかっている。自分だってそういう状態になっている。そんな人が「こだわっているからダメなんだ」と言うだろうか?
なお、「の」の重複は指摘しなくてもいい。