2025年12月31日水曜日

●実際の場面では、条件は関係があることなのである■社会※2025/12/31 16:07

ヘビメタ騒音が毎日続くことは、ほんとうに、ひどいことなのに、九九・九九%ぐらいの人が、まったくわかってくれなかったなぁ。こいつら、みんな、誤解をしている。きちがい兄貴が、普通の兄貴ではなくて、かわっているので、わからないのも、しかたがないけど……。それにしても、ひどすぎる。九九・九九%の人を「みんな」と表現してしまうけど……。みんな、言霊主義者のように誤解をするのである。みんな、思霊主義者のように誤解をするのである。完全に誤解なんだけど、どれだけ説明しても、わかってくれない。これ、理論的なことだから、理論的なことがわかる脳みそがある人なら、わかることなのである。感情とか、経験とか関係なく、理論的なことがわかる脳みそをもっている人なら、理論的なことは、つたわるはずなのである。ところが、理論的ことがわかる脳みそをもっているひとが、極端に少ないので、みんな、誤解があることを言うのである。誤謬があることを言うのである。勝手な決めつけをして、こっちをバカにしてくるのである。これは、信念にかかわることだから、説明をしても、簡単にはかわらない。この誤解は、一般的なものだから、誤解をしている人のほうがスタンダードだということになる。けっきょく、理論的なことも含めて、きちがい兄貴がきちがい的な意地で、きちがい的な感覚でやったことは、みんなに、理解されないのである。そうなると、わからないやつらは、勝手な決めつけをして、こともあろうに、俺をせめるのだ。こんなのない。こいつらだって、苦手な音をあれだけの音のでかさで、あれだけの頻度で、あれだけの時間の長さ、やられれば、おなじような「体の状態」になるのに、まったく、認めないのである。ここで書いてきたけど、「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音下で暮らしているからだ。そして、きちがいヘビメタ騒音下で暮らした年月が一〇年つみかさなれば、一〇年つみかさなっただけの「負の効果」があらわれるからだ。こいつらだって、苦手な音をあれだけの音のでかさで、あれだけの頻度で、あれだけの時間の長さ、やられれば、おなじような「精神状態」になるのに……まったく、認めないのである。やられていないから、わからないだけだ。同レベルの経験がないからわからないだけだ。だから、同レベルの経験がない状態で、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言うわけだ。自分なら平気なつもりなのだ。これは、優越感だ。だから、基本的に、こっちを見下して、バカにしてくるわけなのである。そして、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」というのは、条件を無視した話なのに、「どんな条件でもそうなる」と誤解をして、クソを言ってくるのだ。でっ、何度も言うけど、これは、言霊主義者に限ったことではなくて、みんな、おなじようなことを言ってくる。おなじような態度で、おなじようなことを言ってくるのだ。「努力をすれば成功する」という言葉は、別に、精神世界の人ではなくても、言う言葉だ。「すべては自己責任」という言葉も、別に、精神世界の人ではなくても、言う言葉だ。こいつらみんな、自分の言っていることは、正しいと思っている。条件を無視していると移行とに気がつかない。条件について言及すれば「そんなのは関係がない」と言い放ち、自分が言っていることが正しいと言い張るのだ。つまり、「条件なんて関係がない」ということを言うのだ。こんなのは、アホだ。アホすぎる。条件に関係なく、成り立つことについて言及しているつもりなのだ。こいつらは……。けど、条件が関係あるのである。実際の場面では、条件は関係があることなのである。条件に関係なく、成り立つことについて……この人たちは、言及しているつもりなのだけど……まちがっている。

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どんな条件でも、できると言えばできる……なんて、どれだけひどいことを押しつけているか、わかっているのか……と言いたくなる。どんなにひどい条件でもできると言えばできる……。自分はできるつもりでいるんだよ。実際に、その条件でやろうとしているわけでないから、できると思っている。想像力がない人が想像しているから、自分なら平気だと思っている。どんなにひどい条件でも、できると言えばできる……なんて、ほんとうに、どんだけひどいことを言っているのか……わかっているのか?

「どんなにひどい条件でも、できると言えばできる」と言っているやつらは、ほかの人にひどいことを押しつけて、悦に浸っている変態だ。そういうレベルのやつらなんだよ。

2025年12月30日火曜日

●ニセの原因をつくって、人をせめるのはやめろ■社会※2025/12/30 20:20

 悪い空気のところに住んで、肺病になった人に「よくなるよくなると言うと、よくなる」と言うのは、いいことなのか悪いことなのかというと、悪いことだ。

悪い空気のところに住んで、肺病になった人に「なおるなおると言うと、肺病がなおる」と言うのは、いいことなのか悪いことなのかというと、悪いことだ。

どうしてかというと、空気が悪いところで、どれだけ「なおるなおる」と言っても、なおらないからだ。

「病気になると思ったから、病気になった」という決めつけをした場合も、おなじだ。

もともと、「病気になると思ったから病気になった」のではないのだ。悪い空気が原因で病気になったのだ。「思い」は関係がないのである。

けど、後出し思考をする人は「実際に病気になったのなら、病気になると思ったにちがいがない」と思ってしまうのである。

これも、推論自体が間違っている。思ったから病気になったのではなくて、悪い空気によって……悪い空気の中に含まれている物質によって……病気になったのだ。

だから、病気になった人に、「病気になると思ったから病気になった」というのは、ひどいことなのである。勘違いの原因をつくりだして、病気になった人のせいにしてしまう。

これと、自己責任論がつけば、「病気になる」と思った人の自己責任だということになってしまうのである。本当に必要なのは、空気を浄化することなのである。悪い空気という条件をかえることなのである。

ニセの原因をつくって、人をせめるのはやめろ。

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悪い空気のなかで「なおるなおる」と言っても、なおらないことが決まっている。どうしてかというと、「悪い空気」によって、病気になったからだ。手短に言うと、ニセの希望をもたせて、挫折させるということになる。挫折することが、最初から決まっているのである。でたらめなことを言っているだけなのである。余裕がある人が、でたらめなことを言っているだけなのである。

たとえば、いい空気の中で生活しているAさんがいたとする。そして、悪い空気のなかですごしているBさんがいたとする。そしてさらに、Bさんが肺の病気になったとする。

Aさんは、自分のことではないので、余裕があるのである。AさんにとってBさんの「肺の病気」というのは、自分の「肺の病気」ではないので、余裕があるのである。

そして、Aさんが、精神世界を信じている人だと、「Bさんが病気になると思ったから病気になったのだ」と言い「Bさんが、なおるなおると言えばBさんの病気がなおる」ということを言うのである。ひとごとなのである。余裕があるのである。

Aさんは、自分の推論が正しいと思って譲らない。そして、Aさんは実際に悩んでいない。Aさんは、悪い空気のことでこまっていなのだ。Aさんの身の上には、悪い空気によって、肺の病気になるという出来事か発生していない。発生していないのだ。

けど、Aさんは、Aさんで、「よかれ」と思って、「実用的な方法」を教えてやっているつもりなのだ。当然、(方法に)自信があるので、方法が無効だということを言われると、腹を立てやすい傾向がある。精神世界の人にはそういう傾向がある。ぼくの経験の範囲で言うと、一〇〇%の人が腹を立てたのである。

Aさんが実用的な方法だと思っている方法は、ぜんぜん実用的な方法ではないのである。どうして、そうなってしまうかというと、Aさんが、原因について間違った考えをもっているから、そうなってしまう。Aさんは、Bさんが肺の病気になった原因について、間違った考えをもっているのである。 

もともと、悪い空気が原因なので、Bさんがどれだけ「なおるなおる」と熱心に言っても、なおらない。悪い空気のなかで、Bさんがどれだけ 「なおるなおる」と熱心に言っても、なおらないということが、決まっている。そうなると、Aさんは、「Bさんが、なおるなおると言ったときの言い方が悪かったから、なおらないのだ」ということを言い出すのである。これも、決まっているのである。

●間違った推論をして「否定できる」と思っているだけ■社会※2025/12/30 19:36

遺伝の問題で、いい空気の中で暮らしていても、肺の病気になる人のことを考えてみよう。ようするに、悪い空気の中で暮らしていても、肺の病気になることはあるし、いい空気の中で暮らしていても肺の病気になることがある世界について考えてみよう。

原因が、空気と遺伝子のふたつある場合だ。

たとえば、Aさんが「いい空気の中で暮らしていても肺の病気になる人はいるのだから、空気の問題ではない」と言ったとする。空気の問題なのであれば、いい空気の中で暮らしている人が肺の病気になることはないという理論を(Aさんが)主張したとする。

けど、この理論は、まちがっている。最初の設定では、悪い空気の中で暮らしていると一〇〇%の確率で、肺の病気になるのである。

そして、遺伝の問題で、病気になる人がいるにしろ、「悪い空気の中で暮らしているから、肺の病気になった」という理論は、正しいのである。Aさんの推論が間違っているのである。

いい空気の中で暮らしている人が肺の病気になったということは、『空気原因論』を否定しないのである。

ところが、Aさんが勝手に間違った推論をして「否定できる」と思っているだけなのだ。

空気が悪いところに住んでいる人は、空気が悪いから肺の病気になっている。たとえば、空気がいいところに住んでいるのに、肺の病気になった人をBさんだとする。Bさんは、空気の悪さではなくて、遺伝の問題で肺の病気になったのだ。

Bさんが肺の病気になったということは、空気が悪いところに住んでいる人たちが、空気の悪さによって肺の病気になったいうことを否定しないのである。 

空気がきれいなところでも、肺の病気になった人がいるので、「空気の悪さによって肺の病気が引き起こされる」という『空気原因論』は間違っていると主張している人は、間違っている。空気がきれいなところにいる人が、ひとりでも、肺の病気になったのであれば、『空気原因論』は間違っているという推論は、間違っているのである。

空気がいいところに住んでいる人が、肺の病気になったということは、『空気原因論』を否定しないのである。Bさんは、遺伝の問題で肺の病気になったのだから、『空気原因論』を否定できない。 

●この決めつけは間違っている■社会※2025/12/30 0:06

 条件を無視した話というのは、よくない話なのだ。

しかし、言霊、思霊、引き寄せ、努力論、自己責任論というのは、条件を無視した話なのだ。

だから、それらの言説というのは、じつは、悪い効果をもっている。それらの言説というのは、社会に対して良い効果ではなくて、悪い効果をもっている。

条件というのは重要だ。たとえば、いい空気と悪い空気について考えてみよう。いい空気のところに住んでいる人は、普通に暮らせる。けど、悪い空気のところに住んでいる人は、時間の問題で肺の病気になるとする。まあ、悪い空気の内容によっては、ほかの病気にもなるだろう。これは、空気の成分がもたらす結果だ。だから、空気という条件が重要なのである。

「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」とする。この場合、よい空気のところに住んでいる人も、悪い空気のところに住んでいる人も、みんな、「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということになるはずだ。

ところが、悪い空気のところに住んでいる人は、明るいことを考えても、「肺の病気になるという」悪いことが起こることが決まっているのである。

いっぽう、いい空気のところに住んでいる人は、すくなくても、空気が原因で「肺の病気になるという」悪いことが起こらないようになっている。

もちろん、ほかの原因で、肺の病気になる場合はあるのだけど、すくなくても、悪い空気によって、肺の病気になることは避けられるのだ。

この結果は、「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」ということとは、一切合切、関係がないことなのだ。

しかし、いい空気のところ住んでいる人は、「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と言って、悪い空気のところに住んでいる人が肺の病気になったことを、悪い空気のところに住んでいる人のせいにすることができるのだ。

悪い空気のところに住んでいるということが、ほんとうの原因なのに、肺の病気になった人は、「暗いことを考えたから、肺の病気になったのだ」と責めることができるのである。

もちろん、ほかの条件が一緒なら「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と考えに関係なく、いい空気のところに住んでいる人は、悪い空気のところに住んでいる人よりも、肺の病気になりにくいということが言える。

ほかの条件が一緒なら、いい空気のところに住んでいる人は、悪い空気の影響を受けないので、悪い空気が原因である肺の病気にはならないのである。

とりあえず、いい空気のところに住んでいる人と、悪い空気のところ住んでいる人の、ほかの条件はおなじだとする。これは、遺伝子的個体差をこえて、おなじだとする。

その場合、肺の病気になったかどうかというのは、「明るいことを考えたか 暗いことを考えたか」のちがいではなくて、いい空気のところに住んでいるか、悪い空気のところに住んでいるかのちがいによって、決まるものなのである。考え方は、一切合切関係なく、「いい空気」か「悪い空気」かでちがってくる。考え方の差が、結果の差をもたらすわけではないのだ。これが重要だ。

そして、とりあえず、肺の病気になっていない人が、肺の病気になっている人をせめることができるということも、非常に重要なことなのである。

これは、行為としては、悪いことをやっているとぼくは思う。

けど、前投稿のように、本人は、悪い行為をしているつもりなんてない。「明るい考え方を持てば、肺の病気にならないのだから」いい行為をしていると思うだろう。

やっている人はそう思うだろう。

だって、本人の意識としては「病気にならない方法」を教えてやっているのだから、いい行為にちがいがないのである。しかし、まちがった認識に基づいた、悪い行為なのである。

思霊理論は、一般的には、自己責任論とともに語られることはないけど、思霊もこの点において、自己責任論なのだ。実際には、運用において、思霊理論は他人を対象にした自己責任論になる。

「暗いことを考えた人が、病気になったのだから、そんなのは自己責任だ」ということになる。

ほんとうは、空気の問題なのに、空気の問題であるということを無視して、「その人(病気になった人)が暗いことを考えたから、病気になったのだと決めつけてしまうのである。

この決めつけは間違っている。間違っているし、病気になった人に対して、たいへん失礼な決めつけなのである。

まちがった決めつけをされて不愉快になる人はいる。その場合、まちがった決めつけをした人は、まちがった決めつけをされた人に、まちがった決めつけをされた人がいやがることをしているということになる。

別に、人がいやがることをしようと思って、人がいやがることをしているわけではないのだけど、結果的に、人がいやがることをしているケースが発生する。

*     *     *

空気の悪さと空気のよさが、肺の病気になるかどうかを決定しているというモデルについて考えてみた。言いたいのは、ほんとうは、空気の問題なのに、「その人がどう思ったか」の問題にすり替えて、「その人」が悪いことを思ったから病気になったんだと決めつけることだ。

しかも、ほんとうは、まちがったことを言っているのに、まちがったことを言っていると認めないのである。精神世界の人たちは認めない。原因の帰属理論が間違っているのである。精神世界の人は、最初から、「原因」について間違った考え方をもっているのである。

その間違った考え方に基づいて現実を解釈してしまうのである。相手の現実を、まちがった考え方に基づいて解釈してしまうのである。決めつけてしまうのである。

しかし、多くの場合、精神世界の人が、自分の間違いを認めることはない。「絶対に、自分の考え方が正しい」と言い張ることが多い。ぼくの経験の範囲だと、すべての精神世界の人がそういう反応をした。

精神世界の人は、人には、「受け止め方をかえればいい」と言うのだけど、自分の受け止め方は、頑固にかえない傾向がある。

精神世界の人は、人には、「相手をかえることはできないから、自分がかわるしかない」などと言うのだけど、条件が悪くてこまっている人の考え方にあわせて自分の考え方を、頑固にかえない傾向がある。

原因について間違った考えをもっているということについて、精神世界の人が「原因について間違った考えをもっていた」と認めることは、ほとんどない。こっちがどこまで説明しても……精神世界の人は、「最初に決めつけた原因が原因だと」と思ったままなのだ。 

2025年12月29日月曜日

●普通の人は普通の人で、「ちがいがある」ということを認めない■騒音※2025/12/29 16:38

 きちがい兄貴がやったことというのは、特殊ことなのである。特殊な騒音、そして、特殊なやり方。きちがいだから、気にしないで鳴らせるでかい音で鳴らし続けた。普通の人なら、「気にして」鳴らせない音で、鳴らした。もう、ここがちがうのである。そして、きちがいだから、きちがい的な熱量で鳴らし続けたのである。普通の人ならやらないしつこさで、鳴らし続けた。ここもちがうのである。もともと、でかい音で鳴らすというのが異常なことなのだけど、それにもまして、「言われても気にしない」性格だった。「言われたら」怒り狂って、やり続けてしまう性格だった。これも、普通の人とはちがうのである。普通の人なら、でかい音で鳴らしたくて、でかい音で鳴らしても、「うるさい」と言われたら、いちおうは、相手が言ってることがわかるということになる。ところが、きちがい兄貴は、きちがいだから、どこまでも、どこまでも、「相手が言っていることがわからない態度」で鳴らし続けた。だから、ちがうのである。そして、家族が何千日も、文句を言っていれば、普通の人は、「気にする」のに、兄貴はまったく気にならなかった。ここもちがう。ちょっと横道にそれるけど、アドラーは「気にしないこと」をすすめる。あたかも、それが正しい態度であるかのような進め方だ。けど、もともと、気にしない人が、どれだけ非道なことをするのかということについては、無視しているのである。「そんなのは、常識だ」というひとことで無視しやがる。完全に、気にさせないでやらせる側の理論なのである。もちろん、気にしすぎの人にとっては、ありがたい理論だけど、そもそも、まったく気にしない人間がいるということがぬけている。そして、そういう人間が、非道徳的ことに邁進してしまう可能性があるということも、無視しているのである。アドラーは無視しているのである。アドラーの主張には、こういう性質がある。これは絶対におさえておかなければならないことなんだよ。けど、普通のアドラーは、おさえない。「正しい教えだ」「いい教えだ」と思っている。だから、基本的には、きちがい的な家族に、きちがい的なことをされた人間のこころを揺さぶるのである。アドラーやアドラー信者が言うことは、きちがい的な人間に傷つけられたほうの人間を、さらに、傷つける可能性がある。だいたい、もともと、気にしない人は、きちがい的な感覚やきちがい的な理論によって、気にしないのである。それが、悪い方向に発揮されると、まわりの人がこまるのである。そして、「家族」だと、もっとこまるのである。家族が、気にしない人で、それが悪いことに発揮される人だと、家族として一緒に住んでいる人がこまるのである。まあ、アドラーの話は、いいよ。ともかく、きちがい兄貴が、普通の人がやらないことをやったのである。きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で、普通の人が絶対にやらないことをやったのである。だから、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んでいる人は、少ない。その少ない人は、すでに、普通の人ではない。だから、普通の人は、きちがい家族が鳴らす騒音を経験したことがないのである。だから、普通の人が「俺だって苦労した」「俺だって困難を経験した」「俺だって、つかれるときはある」「俺だって、憂鬱なときはある」「俺だって騒音ぐらい経験した」と言ったって、それらは、ちがうことなのである。ちがうことなのである。けど、普通の人は普通の人で、「ちがいがある」ということを認めないのである。

2025年12月28日日曜日

●言われること自体が、いやなことなんだよ■言霊※2025/12/28 5:06

「相手がいやがることはやめましょう」ということに、同意している人でも、相手がいやがることをする場合があるのである。

「相手がいやがることをしない」というのはひとつの行動基準だ。

しかし、いつも、「相手がいやがっている」ということがわからない場合がある。AさんとBさんがいるとする。Aさんは「相手がいやがることはやらないようにしよう」と思っている人だとする。

しかし、Bさんが「いやがっている」という認識がないと、Aさんのなかで、Bさんがいやがっていることをしているという認識もないということになる。

Aさんが、たとえ、BさんがいやがることをBさんにしたとしても、Bさんがいやがっているということを、Aさんが認識していない場合は、Aさんが「相手がいやがることはやらないようにしよう」と思っていたところで、BさんがいやがることをBさんにするいうことになってしまうのである。

それから、たとえば、Bさんがいやがっていることは知っているけど、Bさんのためになるから、こうしようと思っている場合などは、相手がいやがっているということを知っているけど、その行為をするということになるのである。

「相手がいやがることをしない」という行動基準よりも、「Bさんのためになるのだからやっていい」という行動の基準のほうが優先されているのである。

この場合は、Bさんがいやがっていても、Bさんがいやがる行為をするということになる。

もちろん、Aさんは、「相手がいやがることをするのはよくない」ということには賛成している人なのである。だから、お題目として相手がいやがることはやらないようにしましょう」と言ったって、現実の場面では、そのことを理解している人が、相手がいやがることをやる場合があるのである。

さらに言ってしまえば、「いやがっている相手が悪いのだ」と思う場合だってあるのだ。その場合は、「相手がいやがることはやめましょう」ということにはならない。

相手がいやがっていたって、相手が間違っているのだから、やるのである。これも、そのときはそのときで「相手がいやがっていることはやめましょう」という基準よりも、(その人のなかで)高い基準があるのだ。高いというのは、優先順位が高いという意味だ。

前に話した例だと、たとえば、宗教の勧誘がある。宗教の教えに、「人がいやがることはやめましょう」と書いてあったとしても、しつこい勧誘をする場合があるのである。

しつこい勧誘をするときは、するときで、「これは必要なことだ」という認識があるのである。

そして、それは、「人がいやがることをしない」という基準よりも、優先順位が高い基準なので、相手がいやがっていたとしても、しつこい勧誘をしてしまうのである。

だから、「人がいやがることはやめましょう」という教えが正しくても、「人がいやがることはやめよう」と意識的に思ってる人が増えても、実際には「人がいやがる行為」をする場合があるので、「人がいやがることをする人」がいなくなるわけではないということになる。

だいたい、熱心に勧誘をしている人が、「勧誘されるといやな思いをする人がいる」ということ自体を認めるかどうかも、あやしい。

「自分は善行をしている」つもりなので、相手がいやがっていることを、積極的にする場合があるのだ。

「人がいやがることはやめましょう」という教えを、人が学んで、人が「その教えは正しい」と思っても、じつは、人がいやがることをする人は減らない場合がある。

だって、他者が自分の行為をいやがっているかどうかについて、鈍感な人は、他者が自分の行為をいやがっているということがわからないので、どれだけ「人がいやがることはやめましょう」ということに同意していたって、他者がいやがることをしてしまうからである。 

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手短に言って、精神世界の人は、ヘビメタ騒音の話をしたとき、きちがい兄貴が「迷惑行為をした」ということに注目しないのである。きちがい兄貴が「人がいやがる行為をした」ということは、無視してしまうのである。精神世界の人は無視する。

そういう基本的なことを無視する。

そして、「できると言えばできる」とか「楽しいと言えば楽しくなる」とか「どれだけ疲れていたって、元気だ元気だと言えば元気になる」とか「すべては、受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」とかということを言い出す。

きちがい兄貴が、長年、毎日、俺が嫌がる行為をしたということは、ガン無視だ。彼らは、普通に無視するのである。そして、ヘビメタ騒音の影響も無視するのである。「影響がある」ということを(こっちが)説明しても、精神世界の人は、影響を無視しやがるのである。

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「人がいやがることはやめましょう」と思ったって、それを運用している時点で、人がいやがっていることなのかどうかということを正確に認識できない点がある。しかも、相手がいやだとはっきり言っても、相手がいやがっているということよりも、重要な基準があれば、その基準に従って、いやがることをするのである。

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たとえば、「人がいやがることはしないようにする」のがいいということは、納得して受け入れた人がいたとする。Cさんだとする。Cさんは、精神世界の人なので、「言えば、言ったことが現実化する」ということも、受け入れていたとする。

けど、Cさんは、「単純なのが正しい」と思って、項目同士の関係を考えないのである。実際の運用でどういう問題がしょうじるかということについて考えないのである。

ばらばらの、正しそうな項目を全部、暗唱したところで、実際には、それを実行できないのである。

言ったことが現実化するなら、「すべての人は、人がいやがることをしなくなる」と言えば、それでおしまいなのだ。すべての人が、人がいやがることをしなくなる。

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兄貴が俺にやったことを無視して、「どんだけつかれていたって、元気だ元気だと言えば元気になるから、元気だ元気だと言えばいい」ということを言った言霊主義者(精神世界の人)がいたけど、兄貴が俺にやったことを考えると、他人から 「どんだけつかれていたって、元気だ元気だと言えば元気になるから、元気だ元気だと言えばいい」ということを言われること自体が、いやなことなんだよ。

2025年12月27日土曜日

●「働かないと生きていけない」■社会※2025/12/27 21:43

無理解ぶり発揮する態度というのがある。この無理解ぶりを発揮している態度というのは、立場によるけど、相手の気持ちを傷つけるのである。相手の生きる気力に影響を与えるのである。

信念と言えば聞こえはいいけど、間違った信念だし、洗脳されて、ただ単にそう思っているだけのことなのだ。

洗脳をするほうは……「これは正しい」とあんまり物をよく考えない人が、考えてしまうようなストーリーを考えだして、説明しているだけだ。洗脳された気分なんてないのだ。自分で判断して「正しいと思った」と思い込むのだ。

けど、相当に誘導されている。矛盾のある考えたに気がつかない。

洗脳するほうが……「納得しやすい例」を考えだして、説明したので、「具体例から」「抽象的な理論」に対する跳躍が起こりやすい人だと「真実だ」と確信してしまう。

けど、多くの場合、嘘だ。これ、洗脳用の理論なのだ。

じゃあ、そういう「あほな人」のことは気にしなければいいということになるかというと、ならないのだ。どうしてかというと、「働かないと、飢え死にする」という考え方があるからだ。

この世では、「働かないと、生きていけない」とか「働かないと、自分が思っていることができない」とかということが、まず、考え方の底にある。実際に、働かないと、じゅうぶんに、楽しく生きていけないとする考え方がある。

そして、これの考え方が嘘かというと、条件によっては、嘘であるけど、条件によっては、嘘ではないことなのだ。

もちろん、生活保護制度などがある。だから、別に働かなくても生きていけるというのはある。あるけど、これも、条件を満たせば、もらえることがあるということだけで、条件を満たしていても、もらえないばあいだって、実際にある。

ようするに、生活保護制度は運営において、信頼できる制度ではないのだ。まあ、ともかく、小さいときから、「働かないと、生きていけない」「働かないと、みじめな思いをすることになる」ということが、思考の根本に植え込まれる。

なので、いちおう、働かないと「社会人としてじゅうぶんに」生きることができないということは、いちおうの前提にしておく。この前提は、ほんとうは間違っている。間違っているのだけど、いちおう、多くの人の頭のなかにある前提として正しいということにしておく。

どうして、かわいい女の子が、過労で自殺しなければならなかったか?

どうして、ほかにもいろいろな企業があるのだから、転職しなかったのか?

このような問題はある。まあ、おいつめられていたからなのだろう。かわいい女の子は、優秀なので、ほかのところで働けたはずだ。

しかし、かわいい女の子よりも、条件が悪い人がいる。職業選択の自由があるようなことを言うけど、実際には、そうではない。条件が悪い人には職業選択の自由なんてない。これが、現実だ。

こういう現実があるのに、「言えば言ったことが現実化する」というようなバカな話が信じられているのだ。こんなのは、おかしい。

言えば言ったことが現実化するなら、そもそも、働かなくてもいということになる。「働かなくても、じゅうぶんに、暮らせる」と、ひとこと言えば、働かなくても、じゅうぶんに暮らせるようになるからだ。

あるいは、「毎日、一〇〇万円が、目の前に出現する」と言えば、「毎日、一〇〇万円が、目の前に出現する」ようになるので、じゅうぶんにリッチ生活ができるようになる。言えば、それだけで、問題を解決できる。……できるはずなのだ。言霊理論理が正しいならそうなる。

ところが、言霊理論が間違ってるので、そんなことにはならないのである。「毎日、一〇〇万円が、目の前に出現する」と言ったって、一〇〇万円が、目の前に出現するようにならない。言霊理論が間違っている。言霊理論が間違っているので、現実的問題に対して現実的な対処をしなければならなくなるのである。

条件が悪い人は、再就職するために、仕事を探しても、条件が悪いから、採用されにくくなっているのである。そして、生活保護を申請しても、うまくもらえない場合があるということは、生存に対する恐怖を与えるのである。

だから、「働かないと食っていけない」というような考え方は、現代社会において、現実味がない話ではないのだ。理論的には「働かなくても、言っていける」場合がある。実際に働かないと、生きていけない人がいるのも事実なのだ。

ともかく、「働かないと生きていけない」というのは、「言ったことが現実化する」というような根拠のない妄想ではなくて、根拠のある現実的な考え方なのだ。

「働かなくても、生きていける場合がある」けど「働かないと生きていけない状態で生活している人もいる」ということは、事実なのだ。

その人が、勝手に「働かないと生きていけない」と思い込んでいるだけではなくて、その人の条件だと、その考え方が正しいという場合がある。

何度も言うけど、働かずに生きている人はいる。その人たちには、そういう条件が成り立っているのである。

現実的問題は「(自分は)働かないと生きていけない」と思っているということなのだ。そして、余裕がない状態で暮らしていると「転職はできない」という考え方になり、「自分は、この企業で働かないと生きていけない」という考え方をもつことになる。

「人は働かないと生きていけない」という考え方は間違っているけど、 「(自分は)働かないと生きていけない」という考えたは間違っていない場合がある。

ホームレスになったり、ほかの人からとやかく言われるのがいやだという問題もあるだろう。ホームレスになるというのは、物理的にたいへんなことだ。

ほかの人からとやかく言われるというのは、「やわらかい問題」なのだけど、この問題には、じつは「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力論」「自己責任論」などがかかわっている。ようするに、「やわらかい問題」をつくりだしている外的な力というのは、それぞれ、「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力論」「自己責任論」を信じている人たちが作り出している力なのだ。

しかし、それも、本人という個人を中心にしてみた場合、外野にそういう人たちがいるという問題と、「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力論」「自己責任論」いう価値観を本人が信じているという問題がある。

「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力論」「自己責任論」いう価値観を内面化してしまうと、つねに「言霊」「思霊」「引き寄せ」「努力論」「自己責任論」でせめてくる他人を自分のなかに飼っているような状態になってしまう。なので、つねに、自分がそれらの価値観によって攻撃されるのである。なので、憂鬱になってしまうのである。 

 

 

 

●アホな発言で、相手の生きる気力をそぐことができる■言霊※2025/12/27 18:33

 アホな発言で、相手の生きる気力をそぐことができる。たとえば、「かゆいと言うからかゆくなる」という発言だ。

言っているほうは、気分がいいのだろうけど、言われたほうは、「言いようがない」気持ちになる。

このあいだ、蚊がたくさんいる家の話をしたけど、あそこで語ったことが正しい。ようするに、「かゆいと言うからかゆくなる」という発言は、相手の条件を考えていない無礼な発言なのだ。ところが、無礼なことを言ったという気持ちがないわけ。

どうしてかというと、ほんとうに「かゆいと言うからかゆくなる」と「そのときは」思っているからだ。自分が蚊に刺されて、かゆくなった場合は、「蚊に刺されてかゆくなった」と「そのときは」本気で思っているのだ。どっちも、本気で思っている。

相手が「愚痴らしきことを言った」と認識したときは、お得意の言霊理論を使って「かゆいと言うからかゆくなる」と「そのときは」本気で言う。正しいことを言ったと(本人は)思っている。

けど、間違っていることを言ったのだ。

たとえば、「かゆいと言うからかゆくなる」と言われた相手が、自分の条件について言及して「かゆいと言ったからかゆくなったわけではなくて、自分のうちに蚊が多いから、かゆくなる頻度が高くなるだけだ」と言ったって、「かゆいと言うからかゆくなる」と言うやつは、信じない。

「かゆいと言うから、かゆくなる。これが正しい」と言って間違っていることを認めない。

こういうやつは、条件の悪い人を、その発言で……おいこんでいる。おいこんでいるんだよ。

無駄な圧力をかけているんだよ。

ただでも条件が悪くてこまっている人に、妄想的なことを言って、もっとこまらせているんだよ。

かぐらいならともかく、きちがい家族によるきちがい騒音など、問題が深刻な場合は、そういうことを言われると、生きる気力を奪われるのである。ほんとうに、きちがい家族にやられて、世間のバカにやられる状態になる。 

*     *     *

かわいい女の子が、過労で自殺したら、かわいそうだということになる。その会社のことについて、いろいろなことが言われることになる。

言霊主義者まで、かわいい女の子がかわいそうだと言って、上司をせめるようになる。

けど、言霊主義者がやっていることは、上司がやっていることとおなじなんだよ。これも、まったくわかっていないんだよな。

こっちが、言ったって、相手は「むずかしいことを言っているようだけど、簡単なことが正しい」と言って、ゆずらない。ゆずらないんだよ。

そのくせ、別の機会において……「受け止め方をかえればいい」などとほかの人に説教をしているのだ。言霊主義者である人が「受け止め方をかえればいい」などとほかの人に説教をすることがある。

言霊で解決できるのだから、受け止め方をかえる必要なんてない。

条件が悪い人は、条件が悪いことで、なやむ。

どうしてかというと、条件が悪いと、悪い出来事が発生しやすくなるからだ。

けど、精神世界の人や精神世界のことをちょっとかじった普通の人が、アホなことを言って、こまっている人をおいつめるのである。

*     *     *

かわいい女の子が、上司に、なんらかのことを言ったとき、上司があほな発言をしたのだと思う。そのとき、かわいい女の子が「あーー。この上司になにを言って無駄だ」と思ったのだと思う。

このとき、かわいい女の子は、絶望を感じたのだと思う。絶望とまではいわなくても、失望したのだろう。無理解ぶりを発揮した「アホな発言」は、しばし、相手を失望させる。

何回も何回も、無理解ぶりを発揮した「アホな発言」を返されたら、普通に、失望すると思うなぁ。生きる気力が減る。

2025年12月25日木曜日

●「そんなのは、あまえだ」と言ってやりたい■騒音※2025/12/25 15:07

 「ヘビメタ騒音なんて関係がない」と言ったやつが、働けなくなったら……「人間は、働くべきだから、あなたも働くべきだ」と言ってやりたい。

そいつが……「病気だから働けない」といったら……「病気なんて関係がない」と言ってやりたい。

そいつが……「歳をとったから、働けない」と言ったら……「歳をとったなんてことは、関係がない」と言ってやりたい。

そいつが、働けなくなったら……「どうして働かないんだ?」と言ってやりたい。

そいつが……「こういう理由で働けない」と言ったら……「そんなのは、言い訳だ」と言ってやりたい。「そんなのは、あまえだ」と言ってやりたい。

「働くということの重要さがわかっていないから、あまえたことを言って、働いていないだけだ」と言ってやりたい。言ってやりたい。そいつにとって、それ……が……じゅうぶんに働けない理由であったとしても、それは、ガン無視して……「そんなのは、関係がない」と言ってやりたい。

こいつらが、死の淵にいて……あと五分で死ぬというときに……ベットの横に現れて……「なんで働かないんだ」と言ってやりたい。「人間は、働くべきだから、あなたも働くべきだ」と言ってやりたい。「だいの大人が、働かないで、横になっていて、はずかしくないのか」と言ってやりたい。言ってやりたい。

 こいつらが、死の淵にいて……あと三分で死ぬというときに……ベットの横に現れて……「働けると言えば、働ける」「できると言えばできる」「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってやりたい。

こいつらが、死の淵にいて……あと一分で死ぬというときに……ベットの横に現れて……「暗いことを考えてたから、そうなっている」「明るいことを考えればそうならなかった」と言ってやりたい。

2025年12月24日水曜日

●条件がちがえば、おこることもちがうのである■社会※2025/12/24 12:25

だれも他の個体になれない。

だれも、ほかの人ではない。

そして、自分の体と他人の体は、わけられているので、他人の体が感じていることを、自分の体が感じることができない。

他人の体が感じていることを、自分の体に置き換えて、他人の体がどう感じているのかということについて、本人が「考える」だけなのである。

これは、他人のくるしみに対して、鈍感だということを意味する。他人がくるしくても、自分はくるしくない。これが、まず、成り立っている。

他人がくるしくても、自分はくるしくないという感覚は、「自己責任論」の基礎になっている。

しかし、自己責任論者が「これ」を自覚することはない。「すべては、自己責任だ」と考えておしまいなのである。

もちろん、他人の身に起こったことは、その他人の自己責任なのである。そして、自己責任論者は、この考え方が正しいと思っている。

しかし、悪い条件をもっている人は、その悪い条件によって、不可避的に、不利なことがしょうじるのである。これは、自己責任とは言えない。

また、他人のいたみがわからない他者と暮らしている場合、他人の行動によって、「自己」が傷つくことがあるのである。他人のいたみがわからないというのは、精神的なことではない。

実際に、他人の体と自分の体がちがうので、いたみがわからないのである。

普通、「他人のいたみがわからないということ」は、想像力のなさについて語られることなのである。そして、他人のいたみがわからない個体と、他人のいたみがわかる個体だと、たいていの場合、その文脈においては、他人のいたみがわかる個人のほうが優れているということになっている。

そういう文脈が頭のなかに、成り立ってしまう。

しかし、これまで述べてきたように、実際に、他人の体と、自分の体が、わけられているので、他人のいたみは、わからないことなのである。他人のいたみは、想像するようなことでしかないのである。

想像力に関しては、個体によって、これまた、差がある。

この差は、普通は、あんまりうまらない。わかるように、努力をしてもわからないままなのである。ようするに、他人のいたみ対する想像力がない人は、生涯そのままなのである。

他人のいたみに対する想像力がある人は、生涯、他人のいたみに敏感である場合が多い。しかし、敏感さも、本人の体調によってかわる。そして、ある他人のいたみに対しては敏感だけど、別のある他人のいたみに対しては、鈍感である場合もある。比較的敏感な人も、敏感さの中に、かたよりがあるがある。

しかし、全体的に(他人のいたみに)敏感な性格と、全体的に(他人のいたみに)鈍感な性格というのは、あるように思える。

話としては、あたかも、他人のいたみに敏感な人のほうが優れているように、語られる場合があるけど、実際には、他人のいたみに敏感な人は、そんな人であって、他人のいたみに鈍感な人のほうが、得をしている。

つまり、「他人たいして思いやりがある」という文脈で、他人のいたみに敏感な人のほうが優れているように語られる場合があるのだけど、実際には、ちがう。

他人のいたみに敏感な人は、うまく社会に適応できないことがある。他人のいたみに鈍感な人たちが社会をつくっていて、他人のいたみに鈍感な人たちが、社会人として標準的な人たちだからだ。

ようするに、鈍感な人たちが、「話の中で考える」……都合のいい……他人のいたみに敏感な人の「イメージ」があるのだけど、実際には、そういうことを言っている人たち自体が、他人のいたみに鈍感な人たちなのである。

エンパスは、社会に適応できなくなってしまう傾向が強い。 

*     *     *

個体として体がわかれているという厳然たる事実であって、体がわかれているからこそしょうじる(感覚的な)部分と、想像力で補う(思考的な)部分は、わけて考えなければならないのである。

そして、個体として、からだがわかれているのが事実なので、体がわかれている事実が持つ意味のほうが、想像力の有無や想像力の強度が持つ意味よりも、強い影響をあたえ。

この根本的な影響からは、逃れることはできない。

しかし、個体として、からだがわかれているのが事実は、自己責任論の中で見過ごされがちなのである。

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一括思考の問題がある。「すべては思考」と言ってもいいのだけど、ここでは、「一括思考」と言うことにしておこう。

たとえば、「努力をすれば成功する」ということが正しいとする。そうなると、成功しなかった人は、努力しなかった人だということになる。

成功しなかった人のなかには、たしかに、努力をぜんぜんしなかったので成功しなかった人もいるのだけど、努力をしたにもかかわらず、成功しなかった人もいるのだ。一括思考のなかでは、どっちも、区別ができないのである。

努力をしたにもかかわらず、成功しなかったというのは、「努力すれば成功する」という考え方に立てば、存在しない人なのである。

しかし、存在する。

「努力すれば成功する」という考え方が間違っているので、その問題が発生する。「努力をすれば成功する」ということを、信じている人のなかでは、努力したにもかかわらず、成功しなかった人というのは、いないことになってるのである。

しかし、それでは、なんとなく、矛盾を感じるのだろう。程度の問題を持ち出すのである。努力したのかもしれないけど、努力がじゅうぶんではなかったということになるのである。

それなら、努力をしたのだから、成功していなければならないのだよ。

けど、努力論者は、自分が言っていることに矛盾を感じない。

「努力がたりなかったから成功しなかったのだ」という鑑賞地域をつくることによって、矛盾を解決したつもりになっているのだ。

しかし、この矛盾は、どこまでも、矛盾して成り立つ。ぜんぜん解決していない。

けど、たいていの努力論者は、解決したつもりになってしまうのだ。

気分だけでものを言うような人たちだから、しかたがない。ちゃんと理論的に物事を考えらない人たちなので、しかたがない。

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一括思考は、自己責任論でも成り立っていて、「すべては自己責任だ」ということになっている。もちろん、最初は、自分自身を対象とした自己責任論なのだけど、すぐに、他人を対象とした自己責任論になってしまう。

他人の身に起きたことは、すべて、その他人の責任なのだ。しかし、実際には、生まれながらに、条件がちがう。他者の行動を(だれかその人が)完全に支配制御できるわけではないので、他者の行動によって影響を受ける場合があるのである。

しかし、自己責任論者は、それを認めない。すべては、自己責任なので、他者の行動によって発生したことも、(その人)の責任だということになってしまう。一括思考が成り立っているので、個別性は、どこまでも、無視されてしまうのである。

ほんとうは、個別性がある。個々の具体的な事件や個々の具体的な出来事には、個々の具体的な条件が成り立っているのである。そして、個々の具体的な出来事には、それに至るまでの個々の具体的なプロセスがあるのである。

これを、すべて無視して、「すべては自己責任だ」と(だれかがだれかに)言う場合は、問題がしょうじる。それは、個別性を無視してているから、発生する問題だ。

ケースバイケースなのである。

ところが、自己責任論者は一括思考をして、他人の身の上に生じたことは、すべてその他人の責任だと決めつけてしまう。個別具体的な事件についても、やられたほうの自己責任だということになってしまうのである。

努力論も、自己責任論も、個別性を無視してしまうのである。つまり、条件を無視してしまう。しかし、実際の世界では、条件がちがえば、おこることもちがうのである。

2025年12月19日金曜日

●自分はこまらないわけだから、ずっとやり続けてしまうのである■騒音※2025/12/19 14:17

 それにしても、ネズミの糞が増えているのに、「俺が(ネズミシートで)つかまえるからいい」と言って、動かなくなってしまう。絶対に、ネズミ対策工事をさせないようにする。これで、こっちが、どれだけこまることになるか、ぜんぜんわかっていない。ネズミの糞が増えていると言っているだろ。親父に言ったのに、発狂モードで真っ赤な顔をして、無視だ。そういうところで、スイッチが入ってしまうと、ずっとゆずらないんだよ。でっ、これが肝心なことなんだけど、それで、相手がどれだけこまっても、相手がこまっているということがわからない。ネズミシートで捕まえたとしても、ネズミが家の中に入ってきてから、捕まえるわけだから、ネズミの糞が増えるんだよ。そんなことは、説明しなくてもわかることなんだよ。けど、何回も説明した。けど、わからないのである。自分の中で、ネズミ対策工事をさせないということになったら、もう、絶対の意地で、すべてのことを否定して、絶対にネズミ対策工事をさせないようにするのである。もともと、親父が、魚を一日に二三時間、テーブルの上に出すことにこだわって、ネズミが入ってくるようになったのである。普通の人なら、やらないことをやったのである。そして、これも、何回も何回も、「魚を出しっぱなしにすると、くさいからやめろ」ぼくが親父に言ったのである。言わなかったことじゃないのである。けど、鼻が正常なら、絶対にわかることを否定して、ゆずらないのである。自分が「魚を一日に二三時間、テーブルの上に出すことにしたら、どんなことがあっても、なにを言われても、魚を出しっぱなしにするのである。

粗大ごみの処理をしなければならないのだけど、ネズミが家の中に入っていた期間が長いので、いたるところに、ネズミの糞が落ちているのである。でっ、そのネズミの糞を、ダニに刺されながら、片づけたのが俺なのである。ところが、俺に……そういう、いやな思いをさせているということは、一向に思い至らないのだ。これも、言われないから知らなかったのではなくて、何十回言われても、わからないままなのである。そして、ここでも、「ネズミがきたのは、親父が魚をだしっぱなしにして、部屋ににおいを充満させたからだ」ということを、(俺が親父に)言うと……言われた親父は、「出してないよぉ!!出してないよぉ!!出してないよぉ!!」とわめいて、出したということを認めないのだ。こんなのない。その場だけ、言い逃れをすれば、それで、本人は住んでしまうのである。しかも、これ、悪意があってやっていることではないのである。自然に……ごく自然にそうなってしまうのである。親父の反応パターンが、このように決まっているのである。自分が認めてしまったら、まずいことになる場合は、絶対の意地で、どんなうそをついても、認めないのである。バレバレの嘘をついても、認めないのである。相手が知っていることで、何回も、もめたことなのに、「嘘」を真っ向から言って譲らないのである。これも、「相手をこまらせるために、嘘を言ってやろうと思って」やっていることではないのである。常に、そういう、反応をして、暮らしているのである。だから、一緒に住んでいるこっちは、ものすごく嫌な思いをすることになるのである。ところが、親父のほうは、まったく何もやったつもりがない状態で暮らしているのである。何十年間も毎日そういう状態なのである。どうしてかというと、意図して、やっていることではないからだ。「嘘をつこう」と思って嘘をついているのではなくて、その都度、ごく自然に嘘をつくということになっているのである。そして、「嘘をついた」という自覚は、嘘をついているときも、嘘をついたあとも、ないのである。それで、本人は、「へいき」なのだ。こんなの、ない。「お父さんだって、ちゃんと言えばわかってくれるよ」というような発言をする人がいるのだけど、これだって、どれだけ現実離れした発言か、本人はわからないのである。親父と一緒に住んでいるわけではないので、わからないのである。家族として……ここ重要なのだけど……家族として、一日でも親父と一緒に住んだことがあれば、わかることなのだけど、家族として、一日も、親父と一緒に住んだことがないので、わからないのである。何度も言うけど、そういう気楽な発言をしている人は、わかっていないということがわかっていない。これも、説明すれば、相手がわかってくれるのかというと、あんまりわかってくれないときのほうが多い。「話自体がへんな話」なので、ぼくが嘘を言っていないのに「そんなこと、あるかな」などと疑問を呈したことを相手が言う場合が多かった。そういうところで、相手が疑問をもったまま会話が終わる場合が、あった。俺が言ったことをちゃんと認めてくれる人よりも、疑問をもったままの人のほうが、はるかに多かった。それが、現実だ。疑問をもっている人は、ぼくが嘘を言っている可能性について考えているわけで、ぼくが本当のことを言ったという認識はないわけ。だから、親父は、ごく自然に頭がおかしい反応をするのだけど、よその人は、それが理解できないから、よその人は、俺が嘘を言っていると思うことが多かったのである。

そして、親父の「脳みその問題」と兄貴の「脳みその問題」は、この点について、おなじなのである。自分が、認めたら「やばいことになる」と思ったことは、どれだけ明らかなことでも、頭がおかしいレベルで、否定して、認めないのである。認めなければ、頑固にやったって、一階もやったことがないことになってしまうのである。本人のなかで、そうなってしまうのである。だから、頑固にやり通して、頑固にやったということ自体を認めないという……摩訶不思議な状態が成り立ってしまうのである。こういう状態で、きちがい兄貴は、「ヨソのうちでは一分だって鳴らせないような音のでかさで」……ヘビメタを毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らし続けたのである。きちがい親父ときちがい兄貴は、おなじ構造の脳みそをもっているので、何百回、何千回、何万回、何十万回……「ヘビメタ騒音でこまる」ということを言われたって、まったく、気にしないのである。俺がこまっているということが、まったくわからないのである。これも、親父の話で言えば、魚のにおいが、くさいということを、認めないレベルで認めないときとおなじなのだ。ちょっとでも、自分にとって、不利なことを言われると、発狂して、認めないモードになってしまうのである。どれだけ明らかなことでも、絶対に、なんだろうが認めないのである。しかも、そうやって、明らかなことを認めなかったということも、認めないのである。あたりまえだ。意図的に認めないようにしようと思って認めないのではなくて、ごく自然に、認めないのである。その場合も、よその人は「そんなのは変な話だ」と思うのである。「ちゃんと言えば、わかってくれるよ」と思うのである。ほんとうは、そのよその人だって、おなじことをやられれば、宿題ができなくなるのに、「騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできる」と(俺に対してその人が)言いやがるのである。 これだって、ちょっとした対立だ。「そのよその人だって、おなじことをやられれば、宿題ができなくなるのに」と書いたけど、もちろんそんなことは、証明できない。俺がそういう風に思っているだけだ。俺は、実際にやられたできなくなると思うけどね……。

聴覚が正常なら、「でかい音だ」ということは、説明されなくてもわかることなんだよ。けど、「でかい音だ」ということを認めてしまうと、やばいことになるのである。音を下げなければならなくなってしまうのである。音を下げるのは絶対に、いやなんだよ。だから、「でかい音じゃない」ということになる。兄貴のなかで、ごく自然にそうなってしまう。一度そういうスイッチが入ってしまうと、認めない状態でずっとやり続けることになるのである。親父だって、ほんとうにネズミが入ってきて、ネズミに(親父本人が出していた魚を食べられてしまう)ということが発生するまで、魚を出し続けたのである。兄貴の場合、兄貴がでかい音で鳴らし続けても、兄貴がこまるということがなかった。俺がこまっているだけなのである。俺がこまっているから、兄貴に対して、これこれこういうことでこまるということをどれだけ言っても、兄貴のなかでは、即座に否定されることであって、兄貴のなかに入らないのである。これが、奇妙奇天烈な態度で、ほんとうに、わかっていな状態で、その行為をやり続ける。相手が死ぬほど、こまっていたって、自分はこまらないわけだから、ずっとやり続けてしまうのである。

●矛盾に気がつかない人が、いくら考えても無駄なのである■社会※2025/12/19 11:24

 「人間は働くべきだ」という考え方と「人間は働かなくてもよい」という考え方を、両方とももっているやつが、その都度、メタ認知と普通の認知によって、ある人が「働くべき」なのか「働かなくてもよい」のか、決めているだけなのである。だから、実際にはそういう状態なので、「人間は働くべき」いうような文に注目して、その文が正しいかどうかということを議論していまったく無駄なのである。「人間は働くべきだ」と言っている人が、実際には、「人間は働かなくてもいい」と考えていて、両方の考えの間を行ったり来たりしているだけなので、本当に意味がないのだ。たとえば、Aさんは、意識的には「人間は働くべきだ」と考えているのだけど、実際には、「働けない場合もある」と考えているので、どっちに焦点が当たるかのちがいだけなのである。その場合、Aさんのメタ認知について、Aさん自体が、無自覚なので、個別具体的な例について、「この場合は、働くべきだ」「この場合は、働かなくてもいい」と、恣意的に判断してしまうのである。その恣意的な判断をした後も、Aさんは「人間は働くべきだ」と思っているのである。Aさんが、病気になれば、Aさんは、「病気だから働けない」と考えて働くのをやめてしまう場合がある。Aさんにとっては、その病気は「働けない理由」になるのである。ただ、Aさんが、だれに対しても、「たしかにその病気は働けない理由である」と考えるかどうかというと、そうではないのだ。「自分の場合は、働けない」と思い、「自分は例外だから、働かなくてもいい」と考えるのだ。その場合も、「人間は働くべきだ」という考え方を、Aさんは放棄していないのである。そして、「自分は人間である」という考え方も放棄していない。だから、矛盾している状態なのである。けど、自己中心的な人は、自分の場合のように、他人の場合について、考えていないということを、問題にしないのである。そういう精神的な態度で生活しているのだから、「人間は働くべきだ」というような文について、自己中心的な人が、いくら考えても無駄なのである。Aさんが考えても無駄だし、Aさんのように、矛盾に気がつかない人が、いくら考えても無駄なのである。

●こいつらの認識と、ぼくの認識の間に、隔たりができてしまうのである■騒音※2025/12/19 11:13

 めちゃくちゃに、自分の生活に影響を与えていることなのだけど、人には言いにくいことを、抱えてしまうことになる。見えないスティグマについて、説明したけど、要約すると、こういうことを言いたかったわけ。ほかの人考えているよりも、ほんとうに、きちがい家族のきちがい的な騒音は、影響を与える。これが、不可避的な影響で、「鳴っている」のに、影響を受けないということができないのである。しかし、実際に、きちがい家族にやられていない人は、きちがい家族やり方がわからないから……スイッチが入ったときのやり方がわからないから「たいしたことはない」と思ってしまう。「俺だって、騒音ぐらいあった」と思ってしまう。だから、こっちのメタ認知と、こっちの実際の体を無視して、現実的ではないことを言うようになるのである。けど、こいつらのなかでは、「じゅうぶんに現実的な話」なのである。きちがい兄貴のやり方が異常なので、こいつらの認識と、ぼくの認識の間に、隔たりができてしまうのである。

●実際の場面における、メタ認知■社会※2025/12/19 9:55

 実際の場面における、メタ認知というのがある。場面におけるメタ認知」というのは、ほんとうは、重要なことなのに、はぶかれやすいことなのだ。はぶかれやすいというのは、考慮に入らないということだ。お題目について書いたけど、お題目の一文は、実際のメタ認知を考慮に入れていないお題目の一文なのである。だから、原理としては、「こうするべき」というのがあるのだけど、それが、実際には成り立たないということになる。実際の場面におけるメタ認知のほうが、一文であらわされた行動の基準よりも、優先されてしまうのである。

「こうするべき」というのは、基準について書かれた文なのである。行動基準であったり、判断基準であったりする。「人間は働くべきだ」と思っている人は、「人間は働くべきだ」と思って、「働かない人」に対して、特殊な感情を抱くのである。「働くべきなのに、働いていない人」だからだ。 

Aさんが「人間は働くべきだ」という判断基準をもっているとする。Bさんが働かない人だとする。その場合、AさんにとってBさんは 「働くべきなのに、働いていない人」になる。Bさんがある病気になっていたとする。なので、Bさんは、働けないと思っているとする。Aさんが、たしかに、Bさんは働けない状態だと思った場合、Aさんのなかには、まだ「人間は働くべきだ」という基準が成り立っているのだけど、「Bさんは働かなくてもいい」ということになるのである。そして、Bさんは、Aさんのなかでは、まだ「人間」なのである。だから、例外ができたことになる。「人間は働くべきだ」という基準が成り立っているのだけど、Bさんの条件を考えると、働けなくても当然だと(Aさんが)判断したので、「人間は働くべきだ」という基準をもったまま、「Bさんは例外だ」と考えるのである。Aさんは「Bさんは例外だ」と思うのである。けど、Bさんが、Aさんのなかで、人間であるならば、基準のほうが、否定されなければならないのである。「人間は働くべきだ」という基準は、間違っていたということにならなければならないのである。しかし、Aさんは「人間は働くべきだ」という基準をもったまま、Bさんという、例外をつくってしまうのである。

実際には「人間は働くべきだ」という基準よりも、AさんのBさんに対するメタ認知が、優先されたのである。そういう例外事項は、いくらでも、発生する可能性がある。

だから、お題目としては「正しい」と思っていたって、実際の場面では、メタ認知が優先して、お題目にしたがった「正しい判断」をしない場合があるのである。正しい判断というのは、お題目に従っているという意味で正しいと言っているわけで、そのお題目自体が正しいと言っているわけではない。

最初から、例外が発生することがわかっているような文を、お題目の文にすると、実際には、お題目通りに行かなくてもいいということになるのだから、お題目の意味がなくなるのである。「人間は働くべきだ」というお題目の文と「例外があるので、例外に相当する人は働かなくてもいい」という文は、その例外に相当する人が「人間」である限り、両立しないのである。相互に矛盾しているので、どちらも、正しいということにはならない。

条件を無視している文で、現実の問題を考えようとすると、いろいろな矛盾が発生するのである。 「人間は働くべきだ」「私は、人間である。人間である私は働かなくてもよい」ということになると、矛盾がしょうじる。「人間は働くべきだ」という文と「人間は働かなくてもよい」という文は、両立しないのである。

●そんなのは、お題目で、実際の場面では、まったく役に立たない■社会※2025/12/19 9:16

「人が嫌がることはやるべきではない」とする。けど、これも、問題がある。たとえば、注意されるのがいやな人がいたとする。

Aさんだとする。Aさんが、貧乏ゆすりをしたとする。

Bさんは、Aさんの貧乏ゆすりが気になり、Aさんが貧乏ゆすりをしないように、注意したとする。その場合、Bさんは、Aさんが嫌がることをしたということになる。

だって、Aさんは、人に注意されるのがいやな人だからだ。注意されることがきらいなのだ。だから、Bさんが、「人が嫌がることはやるべきではない」と考えている場合であって、なおかつ、Aさんは、人から注意されたくないと思っているということを知っている場合は、BさんはAさんに、注意をできないということになる。

けど、Aさんは、すでに、Bさんが、「いやがること」をしたのである。Bさんは、人が貧乏ゆすりをしていると、いやだと感じる人なのだ。

とくに、自分の隣の人が貧乏ゆすりをしていると、Bさんは、いやだと思う人なのだ。AさんはBさんの隣に座っていたとする。だから、Aさんは、特に、意図せず、Bさんが嫌がることをやったということになる。

「人が嫌がることはやるべきではない」と言ったって、そんなのは、お題目で、実際の場面では、まったく役に立たないと思う。多くの場合、まったく役に立たない。多少は、役に立つときもあるかもしれない。しかし、ぼくの経験の範囲で言うと、多くの場合、まったく役に立たない。

*     *     * 

人のなかに基準というものがあるとする。判断の基準だ。そして、それを、支えるような考え方があるのである。いままで、あげてきたもののなかでは、たとえば、言霊理論や思霊理論、努力論などが、そのような考え方だ。

そして、「すべては、自己責任」とか「すべては、受け取り方の問題だ」ということも、そのような考え方のなかにはいる。

宗教的に、道徳的なことを言ってたって、実際の運用となると、さまざまな問題がしょうじるのである。

たとえば、ある宗教団体が、さまざまな道徳的なことを主張していたとする。なら、その宗教団体の教えは、正しいのかというと、それだけでは、正しいかどうかはわからないということになる。

そして、宗教団体が教える、正しい行いを、この世界で、実行した場合、さまざまな問題が発生する可能性がある。

その場合、どれだけ、明文化された「その宗教の教え」が正しいかどうかということを考えていたって、むだだということになる。

教えのとおりに、行動するとさまざまな問題がしょうじるのであれば、教え自体が(文として)正しいということをどれだけ主張したって、むだなのである。

 



● 自己責任論を振り回すやつ■社会※2025/12/19 7:51

 自己責任論を振り回すやつというのは、圧迫面接をするやつとおなじなんだよ。圧迫面接をするやつのなかには、「ほんとうは、こんなことはしたくない」と思っているやつもいるだろう。思っていないやつもいると思う。自己責任論を振り回すやつというのは、「ほんとうは、こんなことはしたくない」と思っていない、圧迫面接者とおなじなわけ。だから、じつは、「条件が悪い人」に圧力をかけていることになる。相手の身の上に起こったことは、すべて、なんであれ、相手の責任だという考え方をふりまわすわけだから、やられたほうは、不愉快になる。条件が悪ければ悪いほど、自己責任論を押し付けられたやつは、不愉快になるんだよ。ところで、たとえば、自己責任論を振り回しているやつが、「相手が嫌がることはやめましょう」と普段言っているとする。そういう人は、「相手が嫌がることはやめましょう」信者であり、自己責任論信者であるのだ。とりあえず、Aさんだとする。Aさんは、両方とも、ほんとうに、信じているわけ。その場合、条件が悪い人に自己責任論を押し付けることは、相手が嫌がることなんだけど、相手が嫌がることだとは、Aさんは、認識できないわけ。しかし、条件が悪いほど、自己責任論を押し付けられるのは、いやなことなんだよ。これも、いちおう、例外を除けば……という言葉を付けくわえてく。たいていの「条件が悪い人」にとっては、自己責任論で片づけられることは、不愉快なことなんだよ。「そんなのは自己責任だ」と認識されることは、不愉快なことなんだよ。こんなのは、断罪だ。無実の罪で、断罪されているようなものなのだよ。けど、Aさんは、気がつかない。どこまでも、どこまでも、気がつかない。自分が、道徳的に、倫理的に、正しいことをしていると思って、疑わない。Aさんの相手が、相手の条件について、語れば、Aさんは「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、いいわけだ」と言うことが、決まっているんだよ。どうしてなら、他人を対象とした自己責任論というのは、「どんな条件であれ、相手の身の上に起こったことなら、相手の責任だ」と決めつける思想だからだ。Aさんは、相手の条件を無視して、相手の責任だと決めつけたとき、自分が悪いことをしているとは思っていないわけ。自分が正しいことをしていると思っているわけ。ほんとうに、「相手が、いいわけをしているだけだ」と思っているわけ。圧迫面接をしているけど、圧迫面接は悪だと思っている人とはちがうんだよ。Aさんと圧迫面接をしているけど、圧迫面接は悪だと思っている人とは、ちがう。このちがいは、でかい。相手にとって、不愉快な圧力になる。たとえば、Aさんが、「自己責任論は正しい」と本気で思っていて、「相手が言っていることはいいわけだ」と本気で思っている場合、相手は、不愉快な圧力を感じるんだよ。そりゃ、Aさんが「自己責任論なんて、ほんとうは正しくない」とか「相手が言っていることはいいわけではない」とかと思っている場合とはちがうんだよ。このちがいが、わからないやつらがいる。たしかに、いる。このちがいは、けっこうでかい。お芝居をしているのか、ほんとうにそう思っているのかのちがいだ。本当にそう思っている人は、やっかいなのである。相手にとって、やっかいな存在なのである。条件が悪い人と書いたけど、あまりにも特殊すぎて、普通の人が、悪条件だと認識できないような悪条件を抱えている人は、ごく普通に、不愉快な思いをすることになっているのである。自己責任論がはやっていて、自己責任論が正しいと思っている人が、増えれば増えるほど、普通の人が、悪条件だと認識できないような悪条件を抱えている人は、不満を抱えることになるのである。不愉快なトラブルが多発することになるのである。その場合、「よくなるよくなる」と言えば、「よくなるか」と言うと、よくならない。おまじないのでは、不愉快なトラブルが発生することを解決できないのだ。たとえば、Aさんに、自己責任論を押し付けられた人をBさんだとする。Bさんが、どれだけ、「楽しいことが起こる」と思ったって、実際に、自己責任論者が多い社会に住んでいれば、かなりの確率で、Bさんがいやな思いをすることになっているのである。Bさんは「普通の人が、悪条件だと認識できないような悪条件を抱えている人」だとする。その場合、ごく普通に、普通の人から、いやなことを言われるというとになるのだ。無理解ぶりを発揮した発言をされるということになっているのだ。トラブルが増えるわけなのである。どれだけ、Bさんが「楽しいことが起こる」「楽しいことが起こる」「楽しいことが起こる」「楽しいことが起こる」と呪文のように言ったって、Aさんのような人間が、自己責任論に従って、圧迫発言?をするのだから、不愉快なことは、起こるのである。楽しいことが起こらず、かなりの確率で不愉快なことが起こることが、決まっているのである。

*     *     *

ほんとうに、責任がある人だっている」ということを言い出す人がいると思う。ようするに、「たしかに、Bさんには、Bさん特有の条件があるのかもしれないけど、悪い条件がなくたって、悪いことを次々にして、自分で自分の首を絞めるやつがいる」ということを言いたくなる人間がいると思う。相手の身の上に起こったことは、すべて、相手の責任だという考え方は、個別性を無視した考え方なのである。「すべて」なのだから、個別性を無視しているのである。だから、ぼくが言っていることは、矛盾していないわけ。「相手の身の上に起こったことのうち、たしかに、相手の責任だと言えることが、あるかもしれない」ということは、ぼくが言っていることとは、関係がないことなのである。起点は、自己責任論者の責任論だからだ。起点の自己責任論者が、条件を考えないということが、問題の本質なのである。しかし、これも、たとえば、Aさんのような自己責任論者に「条件を考えていない」ということを言えば、「考えている」「俺だって考えている」と言うかもしれないのである。言った場合、さらに、不愉快なことになる。ぼくにとっては、ね。

自己責任であることと、自己責任ではないことがあるとぼくは、考えているわけ。相手の身の上に起こったことのうち、相手の責任であることは、あるかもしれない。ある可能性はある。否定できない。けど、それと、「すべては自己責任である」と言う考え方は、ちがうんだよ。「相手の身の上に起こったことのうち、相手の責任であること」があるということは、別にぼくが、今まで説明してきた考え方を否定するものではないのである。どうしてかというと、起点である自己責任論が、「条件を無視する理論」だからだ。

ようするに、 「相手の身の上に起こったことのうち、相手の責任であることがある」ということは、「相手の身の上に起こったことは、すべて、相手の責任だ」ということを意味しているわけではないのである。「相手の身の上に起こったことのうち、相手の責任であることがある」という文の意味と、「相手の身の上に起こったことは、すべて、相手の責任だ」という文の意味はおなじじゃない。ここらへんも、ごちゃごちゃになっているやつが、いるんだよなぁ。こまるなぁ。

2025年12月17日水曜日

●こっちがどれだけ、こまるか、まったくわかっていない■騒音※2025/12/17 0:04

 親父のネズミ攻撃が効いている。全部、きちがい兄貴の騒音攻撃とおなじだ。やったやつは、なんと思っていない。頑固にやりきって、なんとも思っていない。こっちがどれだけ、こまるか、まったくわかっていない。

ネズミの糞とダニで、つんだ。これ、こころが重い。もう、全部いやだ。 

2025年12月16日火曜日

●ヘビメタ騒音自体が「見えないスティグマ」のようになってしまう■騒音※2025/12/16 11:00

 たとえば、ヘビメタのことを「かくしている」場合、なんか、やばいことを、かくしている状態になるのだ。弱点みたいなものだ。あるいは、知られたくない情報だ。たとえば、無職である人が、無職であることをかくしているとする。その場合、無職であるということを知られたくないという意識がある。そういう意識があるから、特定の会話をさけようとする。この場合、嘘をつくつもりがない場合は、訊かれたら、無職だということにしているとする。「聞かれたくないなぁ」と思いながら、会話をするということになる。それとおなじようなことが、ヘビメタ騒音にも成り立ってしまう。ほかの人に、ヘビメタ騒音のことを言っても、ほかの人にヘビメタ騒音のことを言わなくても、「へんな態度」がうまれるのだ。「なにかをかくしている態度」が、発生する。そして、無職だということが発覚?した場合、あるいは、無職だということを自分で言った場合、相手の態度は、あんまりいいものではなくなる。日本では、無職というのはけしからん存在だからだ。

ヘビメタ騒音自体が「見えないスティグマ」のようになってしまうところがある。そして、それで、こまるのは、ぼくだけなのだ。無職でも、学歴でも、ヘビメタ騒音でめちゃくちゃなんだけど、ほかの人は知らない。いろいろな不都合な状態がしょうじるわけだけど、ほかの人は、ヘビメタ騒音のことは重視しない。「話がおかしい」と思ってぼくが言っていることを疑うやつが約四割。「そんなの関係がない」と思ってぼくのことをバカにするやつが約六割だ。こいつらは、「ヘビメタ騒音で無職になることはない」と思っているわけだ。こいつらは、「ヘビメタ騒音が鳴り終わったら、眠れるはずだから、眠れなくなるなんていうのは、いいわけだ」 と思っているわけだ。だから、「ヘビメタ騒音でどうしても遅刻をしてしまう」ということを認めないわけだ。だから、「ヘビメタ騒音で通勤通学ができなくなる」ということを認めないわけだ。しかたがなく、言った場合がこれだ。そして言わない場合は、「(エイリは)特に理由がないのに無職である人だ」ということになる。この人たちにとっては、そうなのだ。だから、言うにしろ、言わないにしろ、スティグマになってしまうのである。言わない場合は、見えないスティグマ。言った場合は、見えるスティグマだ。

けど、この人たちは、「不可避的にそうなる」ということがわかっていない。どれだけ、眠い状態で起きて、無理をして学校に通っていたかということを、無視しやがるのだ。こいつらは、経験がないので、「なんでもないことだ」と思っているのである。こいつらは「俺だって朝はつらい」と言う。こいつらは「俺だって眠れない夜はある」と言う。けど、ちがうんだよ。毎日、あのきちがいヘビメタが、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴っているような状態でできあがる、状態とはちがう。「俺だって朝はつらい」と言う場合、つらさにおいて、別のことを言っているのである。まったく別のことを言っているのである。けど、「ちがうんだ」と言えば、相手は腹を立ててしまうのである。 「俺だって眠れない夜はある」と言う場合も、普通の状態で、一日、眠れない夜を経験するのと、きちがいヘビメタ騒音で、毎日、眠れない夜を経験するのは、ちがうことなんだよ。けど、これも、「ちがうんだ」と言えば、相手は腹を立ててしまうのである。ぼくの経験の範囲で言うと、そういうことになる。

*     *     *

ともかく、ヘビメタ騒音で、つねに、立場が悪くなるのである。これ、ほんとうに、ヘビメタ騒音が、毎日、連続していたとということが、でかいことなんだよ。「関係がない」と言うやつは、繰り返しの効果も無視してしまうのだけど……。

ヘビメタ騒音が鳴ってから、学校でも社会でも、つねに、立場が悪い状態なのである。こんなの、やってられるか。ほんとうに、ヘビメタ騒音が、毎日ずっと鳴っていなかったら、こんなことになっていない。きちがいヘビメタ騒音が鳴っていなかったころだって「眠れない夜」はあった。けど、ちがうんだよ。ヘビメタ騒音が鳴り始めてからの「眠れない夜」と、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったころの「眠れない夜」はおなじ「眠れない夜」でも、ぜんぜんちがうんだよ。きちがいヘビメタ騒音を長期間にわたって毎日経験していない人は、きちがいヘビメタ騒音が鳴り始めてからの「眠れない夜」の深刻さが、まるでわかっていない。ほんとうに、わかっていない。けど、そいつらが、ヘビメタ騒音が鳴っている場合の「眠れない夜」と「ヘビメタ騒音が鳴っていない場合の「眠れない夜」はちがうのだということを、認めることがないのである。俺が説明したって、こいつらの頭のなかでは、エイリが言っている「眠れない夜」と自分が経験した「眠れない夜」は同程度のものだという考え方がぬけない。どれだけ説明したって、こいつらはこいつらで、自説にこだわる。ヘビメタ騒音の「眠れない夜」だろうが、自分の「眠れない夜」だろうが、おなじだと思ったまま、すごすわけ。こっちの立場が低ければ、あっちは「なんだとぉ」とおこるんだよ。ぼくの経験の範囲で言うとそういうことになる。

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ちなみに、「受け止め方をかえればいいんだ」と言っている人であって、なおかつ、エイリが言っている「眠れない夜」と自分が経験した「眠れない夜」は同程度のものだという考え方をもっている人は、自分の受け止め方をかえないのだ。エイリにあわせて、あるいは、エイリの言っていることにあわせて、自分の受け止め方をかえればいいのに、自分の受け止め方をかえない。「そんなのは、たいしたことじゃない」と言い、「受け止め方をかえればいいんだ」と言う。こんなやつばかりだよ。この世は、こんなやつばかりだった。 

●そして、おなじことが繰り返されるんだよ■騒音※2025/12/16 8:50

  粗大ごみ業者に連絡をしてしまったので、並じゃない、不安が押し寄せている。これ、ほんとうに、いやなんだよ。自分の都合?で、ほかの人を、巻き込んでしまうのがいやだ。ほかの人が、俺の都合で、ダニに刺されてしまうのがいやだ。けど、今回は、じつは、バルサンをたいていない。バルサンをたいても、どのみち、作業をすれば、ダニに刺されるからだ。バルサンをたく場合、この部屋でやらないにしろ、布団をビニール袋に入れて密閉したり、食器をビニール袋に入れて密閉しなければならない。密閉しても、この部屋にも、ガスはくるわけだから、それ以降、バルサンの粒子がある部屋で暮らすことになる。あんまり、いい気持ちがしない。俺は、こういうのは、ほんとうは、ものすごく嫌なんだよ。けど、きちがい親父が、そうさせるのである。しなければならないような状態をつくりだす。けど、本人は、もちろん、わかっていないのだよ。この、「わからなさ」が異常なのである。きちがいだから、自分のなかに「魚をだしっぱなしにしておきたい」という気持ちがあると、「におわないよお」「におわないよお」と絶叫して、なんとしても、魚を出しっぱなしにするということを、貫き通そうとする。あとになって、きちがい親父のきちがい行為が原因で、ネズミが入ってくるようになったらなったで、「そんなこと、言ってない」「そんなこと、言ってない」「そんなこと、言ってない」と絶叫しておしまいなのである。そうやって、「反対のこと」を言って、本人が逆上したら、本人のなかでは、それですんでいるのだ。だから、関係がない人になってしまう。きちがい兄貴が、きちがいヘビメタを鳴らしているときに「しずかにしてくれ」と言われたときの態度が、まさしくこれなのだ。こんなの、ほかのひとに、わかるはずがない。この、「におわないよ」と親父が逆上しているときの態度と、「しずかにしてくれ」と言われて、兄貴が逆上しているときの態度が、おなじなのだ。兄貴は、絶叫しなかったけど、おなじなんだよ。親父の場合も、寡黙バージョンはある。ともかく、本人が、発狂して、はねのけたら、本人のなかでは、終わっていることなんだよ。そして、本人は、行動かえないんだよ。そして、おなじことが繰り返されるんだよ。こまるんだよ。

きちがい兄貴の場合、きちがいヘビメタを「思いっきり鳴らしたいときは」思いっきり鳴らしたいわけだから、思いっきり鳴らせなくなるようなことは、どれだけ明らかなことでも、絶対に認めないのである。聴覚が正常だから、でかい音で鳴らしているということがわかるはずなのに、でかい音で鳴らしているということが、ほんとうにわからない状態になってしまう。相手が、自分にとって不愉快なことを言ってきたら、寡黙モードで、拒絶する。でかい音で鳴らしているということを認めてしまったら、しずかにしなければならなくなるから、でかい音で鳴らしているということ自体を、絶対に認めないのだ。けど、絶対に認めないようにしようと思って、認めないようにしているわけではないのである。ここが、ブラックホールなんだよ。ほかの人にはわからない部分だ。そして、あろうことか、きちがい兄貴もわかっていないのである。だから、行為としては、「でずっぱり」でやりきるのだけど、本人は、やりきったつもりがまったくないという、奇妙な状態が発生する。この奇妙な状態で、バレバレなんだけど、本人は、「危機」を乗り越えて、鳴らしてきたのである。危機というのは「しずかにしなければならない危機」のことだ。

こんなやつに、どれだけ、「朝、起きられなくなるから、しずかにしろ」と言っても、しずかにしないのである。 

*     *     *

鳴っているときも、次の日の朝も、内臓がキューっといたむ。無理やり動くことになる。そりゃ、うつ病にもなるだろう。楽しめない状態になるだろう。そして、これ言っても、ほかの人にはわからないと思うけど、無理やり自分を元気づけて、行動した場合、いろいろな失敗をするのである。ポジティブ思考とか、あるいは、言霊的な元気づけとか、人に親切にする方法などを試みると、かならず、失敗するのである。トラブルが増えるのである。

●それが、人体をもった、普通の人間のあり方だ■騒音※2025/12/16 8:32

  ヘビメタに毎日やられると、次の日の朝、憂鬱なのである。だいたい、ヘビメタにやられると、疲れ果てているのに、眠れない状態になる。この、疲れ果てているのに眠れない状態というのは、ヘビメタ騒音によってもたらされた状態なんだよ。自分はやられたことがないから「そんなのは関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言う。けっきょく、きちがい家族と一緒に住んだことがないので、きちがい家族が、どういうやり方で、どういう感覚で、「普通ではないこと」をやりきるのか、まったくわかってないのだ。やられたことがないから、ほんとうは、わかっていないだけなのである。けど、自分なら平気だと思っている人は、エイリだから気にする」「エイリだから影響を受けている」と、ごく自然に思ってしまう。けど、ちがうんだよね。実際にやられたらわかる。きちがい兄貴の態度でやられたら、朝、どれだけ憂鬱になるかわかる。そして、その憂鬱な状態で、気を取り直して生きてきたのである。その憂鬱な状態から這い上がって、学校に行っていたのである。そりゃ、きちがい家族による、激しい騒音がない人は、夜、眠れる。ぼくだって、きちがい兄貴がヘビメタをやる前は、そうだったんだよ。きちがい兄貴が、フォークギターを弾いているときは、夜、普通に眠れたんだよ。別に俺の能力の問題ではないのだ。しかし、「ヘビメタ騒音は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と思っている人は、俺の能力の問題にしてしまうのだ。自分は、能力があるから、鳴ってたって’影響を受けないで眠れるけど、エイリは能力がないから、眠れないのだと思ってしま。ぼくだって、ちゃんと眠れたのだ。気ちがいヘビメタが鳴り始めるまえは、ちゃんと眠れた。普通の人間なら、あの繰り返しを経験したら、眠れなくなるのである。自分がきらいな音を、自分がきらいな家族が、がんがん、「よそでは絶対に鳴らせないような」音のでかさで、鳴らしていれば、眠れなくなるのである。それが、普通の人間のあり方なのである。能力がある人だって……(普通の時間に)眠れる能力がある人だって、(普通の時間に)眠れなくなるのである。それが、わかっていないやつが、えらそうなことを言ってくる。「自分なら、そんなふうにならない」と思って、えらそうなことを、ガンガン言ってくる。こいつらは、夜郎自大なバカだか、こっちが説明すれば、腹を立ててしまう。言霊主義者が、言霊理論を否定されたときのような態度で、憤慨してしまう。じゃあ、どうして、こういうことになっているかというと、きちがい兄貴が「ブラックホール」だからだ。ほかの人からは見えないのである。ほかの人「考え」の中に入っていないのである。きちがい兄貴がやることは、異常なので、普通の「うち」に住んでいる人は、わからないのである。経験していないのである。普通の人は、きちがい家族が、きちがい的な意地でやることを、経験していないのである。だから、ほんとうに、わかっていないだけなのである。あれだけ、きらいな騒音が、つみかさなったら、どうなるかわかっていないだけなのである。あれだけ、爆音で、至近距離で、きらいな音が鳴り続けたら、そりゃ、(夜)眠れなくなる。眠れなくなるにきまっている。それが、人体をもった、普通の人間のあり方だ。普通の反応だ。普通の反応なのだけど、ようするに、きちがい兄貴のようなことをやる人が、その人の家族のなかにはいないから、経験していないだけなのだ。経験していないから、俺とおなじような状態になっていないだけなのだ。それを、まるで自分の能力のように思いやがって。こんなアホなやつらが、俺にえらそうなことを言いやがる。わかってないだけなのに、えらそうだな!

「の」の重複は指摘しなくていい。 

2025年12月15日月曜日

●こいつらは、想像力がないから、そう思っているだけなんだよ■騒音※2025/12/15 12:18

 やられていないから、わかっていないだけなのに、クソえらそうなことを言う、頭が悪いやつばかりだったなぁ。そういうやつが、多かった。この人たちは、「自分なら平気だ」と思っている。ごく普通にそういう風に思っている。きちがい兄貴やられたことを、ほんとうに自分がきらいな音でやられたら、どうなるか、わかっていないだけなんだよ。だいたい、やられていないやつから、わかったようことを言われること自体が、不愉快なことなんだよ。じゃあ、こいつらが、「自分なら平気だ」という前提で「そんなのは関係がない」ということ自体が、相手を不愉快にさせる発言なんだということが、わかるかというと、わからないのだ。自分は正しいことを言っていると思っている。ぼくが、そこら辺のことを、説明したとしても、そんな説明は受け入れない。「ダメなおまえがなにを言っているんだ」「できないおまえがなにを言っているんだ」「弱音を吐いているおまえがなにを言っているんだ」という反応をする。で、そういう反応も、こっちにしてみれば……実際に、きちがい家族にやられた人にしてみれば、不愉快な反応なんだよ。わかっているわけがない。こんなことを言うやつらが、わかっているわけがないのだ。だから、ヘビメタ騒音で、不愉快な思いをするわけなのだけど、必然的に生じる体の症状で、ほかの人から、悪く言われるということが決まっているのである。こいつらはこいつらで、「必然性」を認めないのである。どうしてなら、「自分なら平気だ」と思っているからだ。「自分なら影響を受けずに生活できる」と思ってるからだ。「自分なら平気だ」とか「自分なら影響を受けずに生活できる」とかと、実際に言うかどうかは別にして、そう思っている。深く、そう、思っている。疑いなく、そう思っている。これ、こいつらのなかでは、確定事項なのである。じゃあ、どうして、こいつらが、俺のことを見下してくるのかというと、実際に、きちがいヘビメタが鳴っているからなのだ。あるいは、鳴っていたからなのだ。これ、不可避的な症状なんだよ。「ダメなおまえがなにを言っているんだ」……ヘビメタ騒音で、ダメになっている。「できないおまえがなにを言っているんだ」……ヘビメタ騒音で、できなくなっている。「弱音を吐いているおまえがなにを言っているんだ」……実際にヘビメタ騒音が鳴っているので、相手が「弱音を吐いている」と感じることを言うことがあるということになる。きちがいヘビメタが鳴っていなかったら、ダメになっていないし、できなくなっていないし、弱音もはかないのだ。これ、毎日、「ほんとうに、異常な状態なんだ」ということがわからないのである。こいつらは、「ほんとうに、異常な状態なんだ」ということがわからないのである。こいつらは、経験がないから「ほんとうに、異常な状態なんだ」ということがわからないのである。常識的な騒音を想定して、自分なら、そんなことにならないと思っているのだ。常識的な騒音を想定して「自分なら、だめにならない」と思っているのだ。常識的な騒音を想定して「自分なら、できない状態にならない」と思っているのだ。常識的な騒音を想定して「自分なら、相手が弱音だと判断することを言うことがない」と思っているのだ。こいつらは、想像力がないから、そう思っているだけなんだよ。相手の言うことを理解して、相手の立場に立って考えるという力が、ほとんどないから、そう思っているだけなんだよ。がりがり亡者なんだよ。

2025年12月14日日曜日

●しあわせな生活を想像できない■騒音※2025/12/14 13:13

 まあ、端的に言って、しあわせな生活を想像できない。想像することができない。

これが、やっかいなんだよな。そりゃ、理想的な生活はある。自分にとって、理想的な生活はある。しかし、ヘビメタ騒音で破壊された。それは、わかい時期を破壊されたということだ。わかい時期というのが、ほんとうに重要なのだ。気持ちの問題というのがあるからね。

問題なのは、たとえば、楽しく感じないということだ。これも、長期騒音の結果なんだけど、そうなんだよ。実際に、そうなんだよ。実際に、楽しく感じないんだよ。意欲の問題もある。この楽しく感じる力と、意欲というのは、おなじものを別の言い方で言っているのではないかと思える。まあ、それぞれ、多少ちがう側面に光が当たっている言い方なのだろうけど、だいたいはおなじだ。もっている、実際的な意味がおなじなんだよね。

でっ、問題なのは、自分の意志では、「楽しく感じることができない」ということなのだ。これに関しては、いろいろと言いたいことがある人がいるだろう。「自分は意志で、楽しく感じることができる」と言いたくなる人もいるだろう。その人たちとぼくのちがいはなにかと言えば、きちがいヘビメタ騒音がずっと鳴っていたかどうかのちがいだと思う。

この「自分は意志で、楽しく感じることができる」と言いたくなる人は、本人は「自分だってつらい思いをした」と言うけど、ほんとうは、たいしてつらい思いをしていない人なのである。もう、はっきり断言できる。ほんとうは、たいしてつらい思いをしていないから、「自分は意志で、楽しく感じることができる」と思っているだけなのだ。たぶん、刺激の程度と期間の長さがちがうのだと思う。

*     *     *

自分の意志で、自分の感じ方を制御できると言い張る人たちもいるけど、この人たちは、感じ方の根源を決めてしまうような体験がない人たちなのだ。あるいは、言霊主義者のように、ほんとうの現実を無視して、「そのときだけ」「その気になっているだけ」の人たちかもしれない。ほんとうは、言霊主義者だって、自分が言った通りに感じる存在ではないのだ。自分が言ったって、自分の感情をかえられないときがあるのだ。実際には、自分が言ったって、自分の感情をかえられない「時間」のほうが長いのに、その「長い時間」を無視してしまうのである。実際には、自分が腹を立てているときは、「うれしい」と言ったって、うれしくならないのに、そういうことは、ガン無視して、「自分は自分の意志で自分の感情を制御できる」と思っているだけなのだ。「自分の感情を制御するには、言えばいい」ということになっている。自分にとって、都合がいい感じ方があったとする。たとえば、「楽しい」とか「うれしい」という感じ方だ。出来事に関係なく「楽しい」と言えば、「自分は楽しく感じる」のである。出来事に関係なく「うれしい」と言えば、「自分はうれしく感じる」のである。そういうことが、自分にはできると「意識的には」確信している。けど、実際の生活のなかでは、ぜんぜんちがうのである。腹が立っているときに、「うれしい」と感じるべきだと思って「うれしい」と言っても、うれしく感じないはずなのである。けど、言霊主義者はそういうことを、無視してしまう。全部の時間、自分は、自分が言ったとおりの感情を維持できると思っているのだ。「どんなにつらいことがあったって、楽しいと言えば楽しく感じる」のである。だから、つらいときは、「楽しい」と言えば、それで、楽しくなるので、問題が解決するのである。自分が言えば、自分が言ったとおりに、自分が感じることができるという「現実的ではない」自己イメージをもっているのだ。

*     *     *

実際に、きちがい兄貴がきちがい騒音を爆音で鳴らしているときも、爆音で鳴らし終わった後も、ひどい時間なのに、こいつらがわかっていないだけなのである。

もちろん、ヘビメタが好きなら、わからないだろう。

けど、そういうやつらにだって、苦手な音があるはずだ。この世で一番嫌いな音があるはずだ。この世で一番嫌いな音が、ガンガン、隣の部屋で鳴っていたら、うるさいと思うのである。

こういうやつらだって、うるさいと思うのである。そして、それが続けば、こういうやつらにだって、体調の変化が訪れるのである。体調の変化というのは、そのまま、意欲や感じ方の問題に移行するのである。全体性というのがあるんだよ。

脳だって、機関なのだから、影響を受ける。脳だけは、影響を受けないまま存在し続けるという考え方は、明らかにおかしい。脳も、内臓とおなじ機関なんだよ。生物的な機関なんだよ。

だから、外界の刺激があれば、影響を受ける。

なんで、音という外界の刺激だけ、影響を受けないと考えることができるんだよ?

おまえら、ほんとうに、頭がおかしいことを言いやがって。 

●親父と兄貴のハンディがなかったら■騒音※2025/12/14 12:35

親父と兄貴のハンディがなかったら、ぼくは、いろいろなことができたと思う。

学問の世界で暮らしたかった。それが、俺の夢だった。だから、普通の人とは、勉強のもつ意味がちがうのだ。

きちがい家族によるヘビメタ騒音が毎日、地道に、すべてを破壊した。俺のすべてを破壊した。 

●出来事は「こころ」に影響を与えるのである■騒音※2025/12/14 1:27

  ほんとう、つまんーーんない。つまんなーーい。ヘビメタ騒音のことが頭のなかにある。ヘビメタ騒音のだるさが、からだの中にある。しかたがないことなんだよなぁ。それから、ほんとうに、どうでもいい記憶が浮かぶ。けど、どうでもいいと書いたけど、どちらかと言えば、悪い記憶なんだよな。ヘビメタ騒音のことでいろいろなことがあり、「よその人」がきらいになった。不愉快な記憶がある。ちょっとした、クラスメイトとの会話なんだけど、あんまりいい記憶じゃない。けど、なぜか、急に思い出してしまう。今回のは、ほんとうに、何十年間も、一回も思い浮かばなかったことだから、めずらしい。けど、ささいな……どうでもいいことだ。

今日は、風呂に入った。風呂に入っただけで、もう、だいぶ疲弊している。相当に、つかれる。風呂に入っただけで、めちゃくちゃにつかれているのだ。風呂から出たあと、郵便局に行くつもりだったけど、めんどうくさいので、行かなかった。

ともかく、出来事は「こころ」に影響を与えるのである。出来事に関係なく「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるなんてことはない。この、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言うやつは、どうにかならないのか? こいつらだって、ほんとうは、そうではないことがあるのに、それは、ガン無視か? こいつらも、じつは、出来事の影響を受けているわけで、実際に発生してしまった出来事から生じた感情を、「言っただけで」上書きすることができるわけではないのだ。中立的な状態で「楽しい楽しい」と言ってみたら、なんとなく楽しくなったような気がしたので「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と思い込んでいるだけなのだ。普段、自分が出着ことに対応して生きていることを、忘れてしまっている。「幼稚なやつらだな」と思う。ところが、ヘビメタ騒音で、いろいろなところに問題がしょうじると、幼稚なやつらからバカにされることになるのだ。ヘビメタ騒音で、心身ともに、つかれはてているからだ。

2025年12月12日金曜日

●『どれだけ鳴っていたって大した問題じゃない』■騒音※2025/12/12 12:44

 きちがい兄貴は、きちがい的な意地を通して、すべての時間、鳴らしたのに、すべての時間鳴らしていないのと同じ気分でいるんだよ。これがどういうことだか、わかるか? わかるわけがないと思うけど、これがわかっていないやつと、話すと、めちゃくちゃにいや思いをするのである。ぼくが、めちゃくちゃに嫌な思いをする。自分の体験としてわかっている人間なんて、世界で俺だけなんだよ。だから、俺が、ほかの人と話すと、いやな思いをすることになる。自動的にそうなるんだよ。自分が体験していないのに、鋭い感性と高度な推理力で判断できる人を除いて、みんな、わかっていないわけだから、こまる。こいつら……普通の人は、『どれだけ鳴っていたって大した問題じゃない』と思って、自分の意見を言ってくるわけ。『そんなの関係ない』と思って、自分だ正しいと思うことを言ってくるわけ。そうなると俺のことを自動的に侮辱することになるんだよ。こいつらにしてみれば、俺が、さぼっていると思っているわけ。できるのにさぼっていると思っているわけ。けど、ヘビメタ騒音でできないんだよ。この世には「ヘビメタ騒音でできない」ということを、理解せずに、頭がおかしいこと・無理なことを言ってくるやつらがいっぱいいた。

*     *     *

それから、「い抜き言葉」について、ちょっとだけ書いておく。口語を重視しているので、「い抜き言葉」を使っている。「口語ではそういうふうに言っている」ということを重視する文では、ことわりなく「い抜き言葉」を使うことにしている。「い抜き言葉」は文法的には間違いだけど、逆に「い」を入れて表現すると「しっくりこない」場合があるので、「い抜き言葉」を使う場合がある。 

2025年12月10日水曜日

●俺の努力を完全に否定しているのだ■騒音※2025/12/10 5:34

あの生活をしていない人が、「俺だって苦労した」と言って、ヘビメタ騒音のことを無視してしまう。こいつらは、ゆるせない。ゆるせない。

話がちがうんだよなぁ。

そして、言霊主義者には、言霊的な誤解があるから、「言ったことが現実化する」と思って、「ネガティブなことを言うから、そうなった」と、さらに誤解をしてしまう。

こいつらの思考は、完全に、理論的に間違っているのだけど、こっちが、理論的に間違っているということを、説明しても、こいつらは、納得しない。たいていの場合、納得せずにおこる。自分が正しいと信じていることを否定されて、腹を立てているのだ。

じゃあ、その腹を立てているときに「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなるのかという問題がある。「これ以降、エイリは、言霊理論を批判しないようになる」と言えば、言っただけで、エイリが、言霊理論を批判しないようになるのかという問題がある。

こいつらが、「言霊理論は理論的に間違っている」ということを突き付けられて感じた不満を一(いち)だとする。そうすると、きちがい兄貴の騒音から生じるエイリの不満は、一〇〇〇京ぐらいなのである。一〇分で、一〇〇〇京だ。ぜんぜんちがうのである。

不満のレベルがちがう。

頭がおかしい家族が、自分がこの世で一番嫌いな音を、きちがい的な音のでかさで鳴らしている空間……。そういう空間にいるときのストレスの度合い……。

鳴り終わったあと、眠れなくなるにきまっているだろ。それがわからないやつが、「俺だって苦労した」と言って、ヘビメタ騒音の影響を否定するのである。

こいつらは、切羽詰まった空間で、耐えて耐えて、頑張ってきた俺の努力をすべて、否定している。影響を否定し、影響のでかさを否定し、俺の努力を完全に否定しているのだ。

2025年12月8日月曜日

●それで、兄貴やヨソの人がこまるわけではないのだ■騒音※2025/12/08 8:35

どうするかな。

さっさと、カネを出す決意をして、中古住宅を買い、引っ越すべきなんだけどなぁ。めちゃくちゃに、憂鬱なんだよ。

親父が最後にやった、『魚だしっぱなし事件』と『ネズミ事件』と『ネズミ対策工事事件』と『ダニ問題』……がでかすぎる。

バルサンをたいても、粗大ごみ業者の人が、ダニに刺されることになるんだよなぁ。それが、いやなんだよな。めちゃくちゃに、こころが重い。

もう、俺は八年間ぐらいダニに刺されてきたので、もう、いやなんだよ。

そして、ダニに刺されるようないやな思いをほかの人にさせたくないと思う。けど、タンスなんて(俺が独自の力で)処理できるわけがないだろ。 運び出してもらわなければならない。

そして、タンスの裏に、ネズミの糞があるわけさ。それを、作業員の人が見てしまうわけ。「きたないなぁ」と思うだろう。「きたないところに住んでいるんだなぁ」と思うだろう。

いやなんだよ。そういう風に思われたくない。

けど、きちがい親父が、俺に押し付けた。これ、きちがい親父がやったことなんだよな。それも、普通の人がやることじゃないから、一回目、ほかの人に言うと、ほかの人が信じない……ところがある。

兄貴の嫁さんも、親父が、魚を出した話や、どれだけネズミが増えても、「俺(親父)がネズミシートで捕まえる」と言って、きかなかったという話をしても、最初は、俺が嘘を言っていると思ったんだよな。

兄貴の嫁さんが、兄貴に「そんなこと、あるのかな」と言ったら、兄貴が「やりそうだな」と言ったんだよ。兄貴は、ヘビメタに関してはきちがいだけど、親父がやりそうなことはわかっているんだよ。

だから、兄貴の嫁さんは、兄貴の言葉に「おどろいた」わけ。

ほんとうに、親父が『めちゃくちゃにくさい魚』を出しっぱなしにするんだよ。そういうことは、普通の人は、しないんだよ。注意しなくても、しないんだよ。

普通の人は『臭いからやめよう』と思うんだよ。

ところが、めちゃくちゃにくさいのに、突然スイッチが入って、親父がそういうことをやってしまう。親父にとって自発的にやったことだから、親父のなかでは、ゆずれないことなんだよ。ものすごいこだわりがあるわけ。

自分が思いついてやり始めたことを、邪魔されると、発狂しておこるんだよ。

俺が「臭いからやめろ」と言うと、親父が「におわないよぁ」「におわないよぁ」「におわないよぁ」と真っ赤な顔をして、怒鳴るんだよ。きちがい親父が、基本的な事実を、発狂して、否定する空間なんだよ。

うちの居間は、そういう空間なんだよ。

これは、きちがい兄貴が、ヘビメタをやりっぱなしにしたときとおなじ構造が成り立っている。認めたくないことは、事実でも、認めないのだ。

けど、事実だけど、認めてやらなかったという認識が一切合切成り立っていないのだ。だから、やりっぱなしになる。きちがい兄貴の場合も、普通の人なら、思いつかないことなんだよ。普通の人ならやろうと思わないことをやるわけ。普通の人は、あんなでかい音で、鳴らそうと……そもそも……思わない。

ヘビメタを爆音で鳴らすことも、兄貴が、自発的に思いついたことなんだよ。だから、親父とおなじで、感覚器をだまして、認めない。ものすごい音で鳴らしているのだけど、ものすごい音で鳴らしているということを、認めない。けど、本人は、嘘をついているつもりがないのだ。これが問題なんだよ。

ここが、ほかの人にとっては、わからないことなんだよ。ほかの人から見て、この部分が盲点になっているんだよ。

けど、ほかの人ではなくて、きちがい兄貴にとっても、盲点になっているいるんだよ。これがきちがいでなくて、なんだ。自分にとって都合がいいように、狂っているのだ。

でっ、こういう『しくみ』がある場合は、『相手』がどれだけ言っても、「でかい音で鳴らしているということ』を発狂して認めない。

そして、『発狂して認めないということ』をしたはあとは、本人とって、なかったことになってしまうのだ。

相手が「こまったということ」も、「相手がこまっているから、自分に文句を言ってきたということ」も、ないことになっている。兄貴のなかではないことになっているのだ。

そして、そのあと、ずっと「でかい音で」鳴らし続けるわけだけど、そのあと、ずっと「でかい音で」鳴らし続けても、本人が鳴らし終わって寝るときには、「そんなことはしていない」というような認識のまま、寝てしまう。どれだけこだわりつくしてやったって、やってないのとおなじなのだ。

とりあえず、説明をするために「そんなことはしていない」ということを書いたのだけど、じつは「そんなことはしていない」ということも、意識的に思ったことではない。あえて言うなら、そういう状態だ。

ほんとうは、「そんなことをしていない」と思わずに、まったく関心がない状態になってしまうのである。まったく関心がない状態のとき、『やった』という認識が成り立っているけど関心がない状態になっているのと、『やった』という認識が成り立っていないまま、関心がない状態になっているのとは、ちょっとちがうのである。

まあ、そんなちょっとしたちがいを説明しても、ほかの人にはわからないと思うけど、けっこう、重要なちがいだ。

*     *     * 

話を、親父の魚事件に戻す。 

親父・本人は、ほんとうににおわないつもりでいるんだよ。都合が悪いときだけ、嗅覚がおかしくなるわけ。くさいということを認めてしまったら、かたづけなければならなくなるだろ。

それがいやなんだよ。

絶対に「だしっぱなしにしたいわけ。そういうところに、スイッチが入ってしまったわけ。だから、嗅覚が正常なら絶対にわかることを、絶対の意地で、否定して、怒鳴り続けるわけ。

ともかく、認めると、自分が死んでしまうとような、切羽詰まった気持ちで、発狂して、認めないわけ。絶叫バージョンと、緘黙バージョンがあるんだけど、おなじなんだよ。

*     *     * 

ここで、きちがい兄貴の騒音事件に話を戻す。 

きちがい兄貴も、ほんとうは、普通のうちでは絶対に鳴らせないようなでかい音で鳴らしているのだけど、「普通のうちでは鳴らせないようなでかい音で鳴らしている」ということを、認めてしまうと、自分が「普通のうちでは鳴らせないようなでかい音」鳴らすことができなくなってしまうということが、わかっているわけ。

だから、「普通のうちでは鳴らせないようなでかい音で鳴らしている」ということを、絶対の意地で認めないわけ。聴覚が正常なら、絶対に、でかい音で鳴らしているということがわかるのだけど、聴覚が正常なのに、でかい音で鳴らしているということを、絶対の意地て認めないわけ。いつもそうなんだよ。認めてしまったら、でかい音で鳴らせなくなってしまうわけ。

それがわかっているから絶対に認めない。

けど、それがわかっているのは、兄貴の意識ではなくて、兄貴の無意識なんだよ。

だから、意識の視線では、ほんとうにでかい音で鳴らしていないつもりなんだよ。本人が、ほんとうに、わかっていないのだ。

だから、こういうところで、「自分自身にだましがある人」は、いやなんだよ。けど、これが、ほかの人にはわからない。だから、ほかの人は「お兄さんにやめてと言えばいい」ということを言うわけ。「ちゃんと言えば、お兄さんだってわかってくれるよ」ということを言うわけ。

普通の人は、普通の人で、兄貴の構造が……この構造が……わかっていないのだ。

そして、うちという環境を考えると、兄貴が意地を通そうとしたとき、通せる環境なんだよ。これも、ヨソの人にはわからないことなんだよ。正確に言えば、ヨソの人が認めたくないところなんだよ。

だから「そんなのは、へんだ」ということになる。ヨソの人の頭のなかで「そんなのはへんだ」と言うことになる。だかから、ヨソの人は「エイリが嘘を言っている」と思うわけ。だから、多くのヨソの人は……「エイリがちゃんと言わないからだめなんだ」と思ったり、「エイリが嘘を言っている」と思うわけ。

きちがい兄貴が、きちがい感覚をもっていて、きちがい感覚に根ざした行為をしてしまうと、ぼくが疑われるわけ。これが、セットなんだよ。

兄貴は、もちろん、意図してやっているわけではない。ヨソの人に、誤解をさせるために、わざと「わからない芝居」をしているわけではないのだ。

ここが、さらに、やっかいなんだよ。

きちがいがきちがいの意地を通せるところで、きちがいの意地を通してしまうと、そうなるわけ。でっ、これで、こまるのは、俺だけ(エイリだけ)なんだよ。ヨソの人がこまるわけではない。兄貴がこまるわけではない。

兄貴が、でかい音で鳴らしてしまってこまるわけではない。兄貴が、ヨソの人に、誤解をさせて、兄貴がこまるわけではない。兄貴が、きちがい構造を通して、ヨソの人に誤解をさせ、エイリにぬれぎぬを着させているのだけど、それで、兄貴やヨソの人がこまるわけではないのだ。俺だけがこまるの……。こういう構造なんだよ。

2025年12月6日土曜日

●関係……あるんだよ■騒音※2025/12/06 20:30

まあ、俺もいろいろとやってきたわけだけど……むなしい。限りなくむなしい。むなしいよーー。むなしい。あーー。

けっきょく、これが終着駅なのか。ほんとーーう、いろいろとやってきた。ぼくなりに、あがいたんだよ。ぼくの人生は、兄の長期ヘビメタ騒音でくるしかった。もう、それだけになっちゃったなぁ。

しかし、ほんとう、いろいろとやってきた。やってきたんだよーー。もう、つかれたけど……。もーーう、つかれたわぁ。動きたくない。 

どうにかしようと、やってきたことが、全部……ほんとうに全部……くるしいことだ。ものすごいハンディを抱えてやってきた。不遇な環境の中でがんばってきた。

けど、限界があるんだよな。限界が……。どれだけ、ヘビメタ騒音生活が、はりつめた生活か、ほかの人のには、わからないのだ。まーーったく、わからない。

はりつめた生活になる。どろどろの生活になる。発狂的な生活になる。不安な生活になる。

あの音で、あの至近距離で、鳴らされて、影響を受けないわけがないだろ。けど、「自分なら、だいじょうぶだ」「自分なら影響を受けない」と思っているやつが、ひどいことを言ってくるのだ。

どうして、そいつらが俺を見下して、無理なことを言ってくるのかというと、そいつらには、きちがい兄貴がおらず、俺にはきちがい兄貴がいるからなんだよ。

きちがい兄貴のきちがい行為で、ぼくが「できなくなる」のである。きちがい兄貴がきちがい行為をするから……きちがい行為をし続けるから……できなくなる。できていたことができなくなる。ぼくが……できなくなって、ほかのやつらから、いろいろと言われるようになる。

言ってくるやつらは、「自分なら、だいじょうぶだ」「自分なら影響を受けない」と思っている。

機転が、よそのうちにはいない、きちがい家族の行為なんだよ。よそのうちには、きちがい家族がいないのだから、経験のしようがない。やり方がおかしい。やっているときの認知がおかしい。やっているときの感覚がおかしい。やったあとの認識がおかしい。

全部、普通の人じゃない。全部、普通の人なら、ありえないことだ。だから、普通の人は、経験していないのだ。

そりゃ、騒音は経験したことがあるけど、きちがい家族がやり続ける……しつこい騒音を経験したことがない。一緒に住んでいる家族の常軌を逸している騒音を経験したことがないのだ。きちがいだから、やり方がきちがいなのである。みんな、わかっていない。

影響を受けるに、決まっているだろ。影響を受けるということがわからないやつが、的外れなことを言ってくるんだよね。その的外れなことというのは、基本的にぼくを侮辱したことなのだ。そして、たとえば、これに、言霊思考がつみかさなる。言霊なんことを持ち出すやつは、「自分がいいアドバイスをしてやった」と思っているだけだ。ちがうんだよ……。

けど、言霊主義者は、普通の人であって、きちがい家族の騒音を毎日経験した人じゃないのだ。常識人の判断も、言霊主義者の判断も、きちがい家族の騒音を毎日経験したことがないという点では一致している。

ぼくが経験したことだけが異常で、ぼくだけが、この騒音の異常性を理解している人間なのだ。多数決をするとまけるのである。

そういう状態を、きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で作り出してしまう。あんな音で鳴らすやつは、うちのきちがい兄貴しかいないんだよ。

しかも、なんか、うちの環境は、あいつが鳴らし続けることをゆるしてしまった。きちがいなら、きちがい行為をやっていないつもりで、押し通すことができたのだ。普通のうちだったら、できないことなんだよ。どれだけきちがいでも、きちがい行為を、押し通すことなんてできないんだよ。

これは、むかしも言った話だけど、兄貴が、おばあちゃんのうちに下宿していたとして、あの音のでかさで、きちがいヘビメタを鳴らせるかというと、鳴らせないのだ。

もちろん、ぼくがそう思っているだけだ。実際には、きちがい兄貴は、おばあちゃんのうちには下宿しなかった。下宿していなかった。うちで鳴らしていたのである。うちなら、鳴らせるのである。

きちがい感覚で、でかい音で鳴らししているということを、頑固に無視して、鳴らし続けることができるのだ。本人の意識としては、ほんとうに、でかい音で鳴らしたつもりがないのだ。

しかも、毎日、ヘビメタ騒音でこまっているということを、きちがい兄貴に言っているのに、それも、きちがい親父のように無視してしまう。きちがい親父ときちがい兄貴は、頭の構造がおなじなんだよ。

「うち」はきちがい親父がつくった「うち」なんだよ。

きちがい親父が、ヘビメタ騒音以外のことで、ヘビメタ騒音とおなじやりかたで、きちがい行為をしていたんだよ。うちのなかでは、きちがい行為があたりまえだという、歴史があるんだよ。

ほかのうちには、そんなものはない。

よそのうちには、そんなことをする人はいない。きちがいが、きちがい行為をがんこにやりきることができる「うち」だったのだ。普通の人は、この点も理解していない。

だから、ほんとうは、やられたことがない。どういう意地で、どういう認識で、どういう感覚で、きちがい家族が、きちがい行為をやってしまうか、わかっていない。

よその人はまったくわかっていない。わかっていないところで、常識を持ち出して、「そんなのは関係がない」と言う。関係……あるんだよ。毎日、体(からだ)と心(こころ)に影響を与えるんだよ。不可避的に影響を与えるんだよ。

2025年12月4日木曜日

●一番、こまっているときは、無視して、我慢させる■騒音※2025/12/04 7:55

 はっきり言って、鬱なんだよ。どうしても、明るい気持ちで、部屋探し、うち探しができない。いろいろとありすぎたんだよ。

きちがい的な父親の行動ということを考えるなら、うまれたときから、たたられている。

うまれたときから、普通の環境じゃないのである。

いや。もう、うまれるまえからたたられている。

当時、おかあさんが、病院に持ち込むための電気ストーブみたいなものを買ってもらえなかったのだ。おかあさんの話だと、当時は、病室に、おのおのが、暖房機を持ち込むような方式だったのらしい。

おかあさんと別の人ひとりで、ひとつの部屋を使っていたのだ。相部屋(あいべや)で、隣の人が、おかあさんにもあたるようにしてくれたみたいだ。そのときだって、おかあさんは、隣の人に「かり」ができてしまう。わかるかな?

もっていないから、かりるということになる。

おかあさんが、「さむいから、早く電気ストーブを買ってきて」と父に言ったのだけど、父が、拒否したのだ。もったいなくて、買えなかった。カネはあったんだよ。電気ストーブぐらい、買うカネはあったんだよ。

けど、けど、けど……親父の性格がたたって、買えなかった。

けっきょく、一番寒いときは、電気ストーブを買わず、春になって?電気ストーブが「セール」になったら、買ってきたのだ。

けっきょく、一番、寒いときには、電気ストーブがなかったわけ。

母親のストレスが、当時、子宮内にいた俺に影響を与えている。うまれるまえから、きちがい的な父の影響があった。

この、必要じゃなくなったときに、買ってやるというのが、父の手口なのだ。きちがい的な父は、特に考えてそうしているわけではないのだけど、いつもいつも、そうなる。

必要性がなくなったとき、あるいは、必要性がうすれたときに買ってくるというのは、いじわる以外のなにものでもない。

だって、そうだろ。相手が一番、こまっているときは、無視して、我慢させる。やせ我慢だ。


*     *     *

まあ、親父としては、「せっかく買ってきてやったのになんだ」ということで、腹を立てるのだろう。腹を立てたのだろう。相手が、あるものを必要としているときには、絶対に買ってやらないという性格なのだ……。親父は……。

おカネがかかわっているけど、おカネがかかわっていない場合でもそうなることがある。買ってやらないということは、やってやらないということに、内包される。

買ってやらないということは、やってやらないということの部分集合。ごく自然に、そうなるんだよ。これも、きちがい親父が(よその家で)やってもらえなかったということが、影響している。

きちがい親父がよその家で虐待され続けていたわけだから、そうなる。

きちがい親父は、自分が(本当に必要なとき)いつもやってもらえなかったのである。いつも、その家の子どもはやってもらえるのに、親父はやってもらえなかったのである。

そりゃ、ぐっとくるだろう。

けど、これがまた、普通の人には、そういうときのくやしさが、あんまりよくわからないのである。

だから、こういうところでも、親父の行為が誤解される。「そんなこと……ないんじゃないの」と言うわけだよ……。よその人は……。

けど、きちがい親父は、やってやらないことを、無意識的に選択しているのである。相手にとって(それが)必要ではなくなったら、やってやれるようになるのだ。

もっとも、これは、カネがかかわっている。電気ストーブだって、子どもの机だって、子どもの鉛筆だって、子どもの消しゴムだって、子どもの靴だって、子どもが必要しているハンダゴテだって、全部、おなじなのである。

全部!おなじ事になっている。

「親父がかかわったら、おしまい」なんだよ。

けど、よその人が……また・・ 「親父がかかわったら、おしまいだ」というのは、ぼくの側の間違った思い込みだと思うようにできているのだ。

こういうズレが、いろいろなところ発生してしまう。

*     *     *

ちなみに、何度も言うけど、親父の頭と、兄貴の頭は部分的におなじなので、やっぱり、相手が、「それで」どれだけこまっているのかということがわからないところがあるんだよね。

相手がこまっているということを、自動的に無視してしまう。これは、「きちがい親父は、やってやらないことを、無意識的に選択しているということ」とは、ちがうことだ。

関係があるのだけど、ちがうことだ。

両方が重なっているのである。

親父と兄貴の場合、きちがい親父は、「やってやらないことを、無意識的に選択している」ということと「相手がどれだけこまっているかまったくわからない」ということが、重なっているだけで、いちおう、別のことだ。

あたかも、おなじことのように見えるけど、べつのことだ。

*     *     * 

かさなっているので、兄貴は、自分のヘビメタ騒音で、弟がどれだけこまっているかということを、普通に、無視してしまうのである。

普通の人は無視できない部分を、あたりまえのように無視してしまうのだ。ヘビメタ騒音に対する、親父の態度だって、『普通の親』というものを考えた場合、あらかにおかしいのである。

だから、「そんなにでかい音で鳴ってなかったんじゃないか」とよその人が……これまた……誤解してしまうのである。

「そんなでかい音で鳴らしていたら、親が注意をするはずだ」とよその人は、考えてしまうのである。「親が、ヘビメタ騒音を無視して暮らしているなら、そんなでかい音で鳴っていないはずだ」とよその人は考えてしまうのである。

ようするに、「親が注意しないのだから、エイリが言っているようなでかい音で鳴っていない」とよその人は考えてしまうのだ。 

ともかく、うちの父を、「普通の父」だと思ってしまう人は、誤解をするんだよ。俺の言っていることを、誤解する。けど、これまた……誤解しているということを認めない。

よその人は、認めない。

むしろ、よその人にとっては、ぼくが「父」のことを誤解していると思っているのである。こういうことばかりなんだよ。 

ともかく、うちの兄を、「普通の兄」だと思ってしまう人は、誤解をするんだよ。俺の言っていることを、誤解する。

けど、これまた……誤解しているということを認めない。よその人は、認めない。

むしろ、よその人にとっては、ぼくが「兄」のことを誤解していると思っているのである。

こういうことばかりなんだよ。 

2025年12月2日火曜日

●こういう無視のしかたで無視されると、腹が立つということがわからない■騒音※2025/12/02 6:52

 みんな、ほんとうに、ヘビメタ騒音がどれだけきついか、わかってないんだよな。俺にとってヘビメタの音が、どれだけ響くかわかっていない。あの音が、真横で、普通の状態ではありえない音で、ガンガン鳴っていると、ほんとうに、勉強なんてできない。そして、それは、ただ単に勉強ができない時間ではないのである。勉強はできないけど、楽しくゲームをすることはできるとか、あるいは、興味のある本は読めるとか、テレビを視て楽しめる時間ではないのである。マイナスの時間でしかない。切羽詰まった時間なのである。どれだけ切羽詰まった時間か、わかってないんだよね。兄貴が、きちがい兄貴でなければ、一日に一分だって、あんな音で鳴らさないんだよ。もう、それは決まっているんだよ。きちがいだから、やってはいけない音……鳴らしてはいけない音で、ずっと鳴らしていた。これが、また、「ずっと鳴らす」ということに、きちがい的なこだわりがあるのである。これは、親父のこだわりとおなじなのである。これ、絶対に、一秒だってゆずってやらないことに、命がかかっているのである。しかも、本人が、わかっていないのである。絶対に自分が満足できるでかい音で鳴らすということに、命がかかっている。だから、どれだけなにを言っても、聞かないのである。こっちがどれだけなにを言っても、きちがい的な意地ではねのけて、こっちが言うことを、聞かないのである。しかも、きちがいだから、きちがい的な意地ではねのけたということがわかっていないんだよ。相手が、自分のやっていることでこまっているから、やめてくれと言ってきたということが、わかってないんだよ。何十万回、繰り返したって、一回目を言う前の状態とおなじなんだよ。意識としては、そうなんだよ。兄貴の意識としてはそうなんだよ。そのくらいに、わかってないのだ。相手がこまっているということが、わかっていない。自分が、非常識な音で鳴らしているということが、ほんとうにわかっていない。あんなにでかい音で鳴らしておいて、でかい音で鳴らしているということがわからないということは、耳が正常な限り、ありえないことなんだよ。ところが、耳が正常なのに、わからないのである。きちがい的な無意識で、「やってないこと」にしてしまっているのだ。耳は、あまりにもでかい音で鳴らしすぎたので、正常な耳ではなくなるのだけど、正常な聴力があった状態でも、そうなんだよ。心の問題で、自分がやっていることを、絶対の意地で認めないんだよ。自分がでかい音で鳴らしていると移行とが、ほんとうにわかっていない状態なんだよ。非常識な音で「つねに」鳴らしているのに、「つねに」常識的な音で鳴らしているつもりなんだよ。それが、どれだけでかい音で鳴らし続けても、わからないんだよな。何回、注意されてもわからないんだよ。本人はわかっていないから、気楽なんだよ。じゃあ、言えばやめてくれるかというと、そうではない。これが、ほんとうに、ほかの人にはわかっていないことなのだけど……相手が言っていることを理解する前に、はねのけているという状態だ。だから、自分が『やってはいけないことを、頑固にやっている』という気持ちがないのだ。本当は『やってはいけないこと』を頑固にやっているのに、そのつもりまったくない。ぜんぜん、ない。相手がこまっているということも、本人が認識する前に、はねのけてしまう。だから、どれだけこっちが兄貴に対して、兄貴の騒音でこまっているということを言っても、兄貴は、それがまったくわかってない状態で暮らしているのである。これも、普通の人間なら、ありえないことなのだけど、普通にそういう状態でずっと暮らしているんだよ。これも、きちがい親父とおなじだ。これ、ほんとうに、おなじなんだよ。だから、弟の勉強の邪魔をしているということは、こっちがどれだけ、「勉強の邪魔だから、鳴らすな」と言っても、まったくわからない状態で暮らしている。何千日でも、何万日でもおなじなんだよ。こういう無視のしかたは、腹が立つ。けど、よその人は、きちがい家族がいないので、こういう無視のしかたで無視されると、腹が立つということがわからないのだ。そして、焼く4割の人は、「そんな人、いない」と考えるから、俺が嘘を言っていると思っているのだ。こんなの、ない。こんなの、ない。

*     *     * 

眠れなくなるための……下地の時間で、ともかく、この部屋で生きているだけで、つらかった。鳴っている間の、体の状態が、並じゃないのである。みんな、無視する。

この時間が、実際にあるから、眠れなくなっているのに……「眠れると言えば、眠れる」と、言いやがる。この時間が、実際にあるから、眠れなくなっているのに……「鳴り終わったら関係がない」と言いやがる。この時間が、実際にあるから、眠れなくなっているのに……「遅刻の言い訳をしている」と言いやがる。この時間が、実際にあるから、眠れなくなっているのに……「健康管理ができないのは、おまえの責任」と言いやがる。言いやがる。言いやがる。言いやがる。

こいつらの理解では、俺が、「なまけて」「夜更かしをしているからダメなんだ」ということになっているのだ。 こいつらの理解では、俺が、「明日のことを考えないで、夜更かしをしているからダメなんだ」ということになる。ようするに、ヘビメタ騒音が鳴っていたということの影響を無視して、ただ単に、俺が、「明日のことを考えないで、ちゃんと時間通りに寝るということが、重要だと考えていないからダメなんだ」と自動的に考えてしまうのである。しかも、そうやって、ヘビメタ騒音影響を無視して、人をバカにしている……エイリのことをバカにしている……エイリのことを下に見てバカにしている……ということがわかっていないのである。ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、眠れないなんてことはない」と考えているのである。「鳴り終わったら関係がない」と考えているので、そう考えるのである。けっきょく、エイリが、夜、決まった時間に眠ることの重要性を理解しようなような、バカだから、夜、決まった時間に眠ろうとしていないだけなのだということになってしまう。「ヘビメタ騒音で眠れないなんて言うのは、言い訳だ」と思ってしまうのである。「夜ちゃんと眠るということの重要性を理解していない人が、あまえたことを言っているだけなのだ」と思ってしまう。実際に、兄貴の行動が影響を与えているのに、ヘビメタ騒音の影響はないと考えている人にとっては、俺が、ほんとうは、ヘビメタ騒音の影響を受けて眠れないわけではないのに、ヘビメタ騒音の影響を受けて眠れないと言っているということになってしまう。「お兄さんのせいにしている」「遅刻する言い訳として、あまえたことを言っている」と思ってしまう。こういうことの繰り返しがメンタルに影響を与えないわけがないだろ。実際に、こういうことは、影響を与える。だから、「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない。「鳴り終わったら関係がない」と言われたあと、楽しい楽しいと言っても、楽しくならない。

出来事は、感情に影響を与えるのである。なおさら、繰り返される出来事なら、感情に影響を与える。これすら、理解していないやつらが「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と、無理なことを言ってくる。「楽しい楽しいと言えば、楽しくなるだから、楽しくならないやつが悪い」と言ってくる。「出来事に関係なく、楽しい楽しいと言えば、楽しくなるのだから、楽しくしようとしないやつが悪い」と言ってくる。

「鳴り終わったあと、眠れないなんてことはないから、エイリが人のせいにして、言い訳をしているだけだ」と言ってくる。 

●疑いなんてもたない■騒音※2025/12/02 2:44

  たとえば、ヘビメタ騒音でうるさかった」と言うことを理解した人だって、ヘビメタ騒音で通勤ができなくなるということは、認めない。自分は、ヘビメタ騒音が鳴ってたって、通勤できるつもりでいるのだ。そして、「自分だって苦労した」というのは、ほんとうなのだ。たぶん、苦労したのだろう。だから、「自分だって苦労した」という認識は、別に、間違っているわけではない。しかし、自分の苦労と、ヘビメタ騒音の苦労がイコールではないのだ。実際、その人は、きちがい家族によるきちがい騒音を経験していないから、通勤できる。だから、苦労をしたのはほんとうだけど、通勤ができくなるような苦労をしたのかどうかは、わからないのだ。そして、実際に通勤ができる立場で、エイリのことを批判しているのだから、あるいは、元気づけようとしているのだから、通勤ができなくなるような苦労は経験していないのである。そして、ぼくの側が、きちがい家族による、きちがい騒音によって、「人間は、一般的に?通勤ができなくなる」ということを、証明することはできないのだ。なので、相手のなかでは、もし自分が、きちがいヘビメタ騒音並みの騒音をあびつづけて、7年以上生活したら、通勤ができなくなるということは、認めない。認めないのだ。認めるつもりも、ないだろう。だから、ヘビメタ騒音は、通勤ができるかどうかとは関係がないと考えてしまう。ごくごく自然に考えてしまう。疑いなんてもたない。ところが、関係があるんだよ。ぼくの側の意見でしかないけど、おなじレベルの騒音を、日常生活的に毎日あびつづけたら、おなじレベルの騒音で、通勤ができなくなると思う。これが、くやしいところなんだよな。きちがい兄貴のような人間は、めったにいない。ほかの人には、最初から、きちがい兄貴のような家族がいないのだ。だから、きちがい兄貴のような人間のしくみが、ほかの人にはまったくわかっていない。そして、ほかの人には、きちがい兄貴化のような家族が、実際にないのだから、きちがい兄貴のような家族が「毎日毎日」やることの影響を、実際に、受けない。受けないからわかっていないだけなのかもしれないのに、そういうことに関する関心がないので、「受けないからわからないだけなのか知れない」とは考えないのだ。これは、ほんとうに、一般化できるレベルで、「関係がない」と思っている人は、考えていないのではないかと思う。「ヘビメタ騒音と通勤は関係がない」と思っている人のすべてが、「自分は、ヘビメタ騒音の影響(きちがい家族によるきちがい的な騒音の影響を受けていないから、ヘビメタ騒音と通勤の関係がわからないだけなのではないか」と思わないのではないかと思う。

2025年12月1日月曜日

●ダイヤと遊んでいたころが、一番楽しかった■騒音※2025/12/01 6:31

 ほんとうに、ダイヤと遊んでいたころが、一番楽しかったなぁ。ヘビメタ騒音が鳴っていたけど……。ヘビメタ騒音が鳴っていたけど……。

ダイヤとデパートに行くのがめちゃくちゃに楽しかった。わくわくした。ダイヤと東京のでかい本屋に行くのが、めちゃくちゃに楽しかった。近所の本屋に行くのも、めちゃくちゃに楽しかった。

まあ、帰れば、きちがい兄貴が、きちがいの音を猛烈にでかい音で鳴らしていて、こっちは、気分が悪くなるのだけど。発狂したい気分になるのだけど。憂鬱気分になるのだけど。騒音の中で勉強することができないので……まーーったくできないので……腹が立つし、不安になる。それは、避けられない。騒音の中で「楽しい楽しい」と言ったって、楽しくならない。「不安になる必要がない」と思ったって、不安になる。そりゃ、きちがい家族が、きちがい観測で、こっちがっていることをガン無視して、鳴らしていたら、勉強することができないわけだから、将来に不安を感じる。試験の結果に不安を感じる。あたりまえだ。「必要がない?」……。ふざけんな。あんなでかい音でガンガン鳴っていて、発狂的な気分で勉強することがまったくできないのだから、将来に不安を感じてあたりまえだ。そして、「騒音が鳴ったって勉強ぐらいできる」と言った友達との会話シーンを思い出して、不愉快な気持ちになる。そんなことの繰り返しでいいわけがない。きちがい兄貴の態度と言うのは、きちがい親父の態度とおなじだ。きちがい兄貴は、でかい音で鳴らしているという基本的なことを、頑固に認めないで鳴らしている。こんなの、腹が立たないわけがないだろ。そして、こういうところを、無意識的に無視して鳴らしてしまうので、ぼくがほかの人から誤解を受けることになる。「騒音が鳴ったって勉強ぐらいできる」と言った友達だって、自分が、この世で、一番嫌いな音が、あのでかさの音量で鳴っていたら勉強なんてできないんだよ。けど、その友達には、耳が正常なら絶対にわかることを、発狂的な意地で否定して、頑固に鳴らし続ける家族がいないんだよ。だから、わからないだけなんだよ。あの音のでかさがわからない。そして、きちがい兄貴の構造がわからない。きちがい兄貴が卑怯な手を使って、鳴らしているのである。しかも、まるわかりの卑怯な手を使っているきちがい兄貴が、卑怯な手を使っているとは、まったく思ってないのである。きちがい兄貴のなかでは、普通の音で鳴らしているだけということになってしまう。こんなの、ない。これが……こういう態度が、どれだけ腹が立つことか、「騒音が鳴ったって勉強ぐらいできる」と言った友達は、知らない。そりゃ、近くにそういう他人がいないからだ。そりゃ、横の部屋にそういう家族が住んでいないからだ。こまるんだよ。腹が立つ、卑怯な手段で、やっているんだよ!! 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。