だれも他の個体になれない。
だれも、ほかの人ではない。
そして、自分の体と他人の体は、わけられているので、他人の体が感じていることを、自分の体が感じることができない。
他人の体が感じていることを、自分の体に置き換えて、他人の体がどう感じているのかということについて、本人が「考える」だけなのである。
これは、他人のくるしみに対して、鈍感だということを意味する。他人がくるしくても、自分はくるしくない。これが、まず、成り立っている。
他人がくるしくても、自分はくるしくないという感覚は、「自己責任論」の基礎になっている。
しかし、自己責任論者が「これ」を自覚することはない。「すべては、自己責任だ」と考えておしまいなのである。
もちろん、他人の身に起こったことは、その他人の自己責任なのである。そして、自己責任論者は、この考え方が正しいと思っている。
しかし、悪い条件をもっている人は、その悪い条件によって、不可避的に、不利なことがしょうじるのである。これは、自己責任とは言えない。
また、他人のいたみがわからない他者と暮らしている場合、他人の行動によって、「自己」が傷つくことがあるのである。他人のいたみがわからないというのは、精神的なことではない。
実際に、他人の体と自分の体がちがうので、いたみがわからないのである。
普通、「他人のいたみがわからないということ」は、想像力のなさについて語られることなのである。そして、他人のいたみがわからない個体と、他人のいたみがわかる個体だと、たいていの場合、その文脈においては、他人のいたみがわかる個人のほうが優れているということになっている。
そういう文脈が頭のなかに、成り立ってしまう。
しかし、これまで述べてきたように、実際に、他人の体と、自分の体が、わけられているので、他人のいたみは、わからないことなのである。他人のいたみは、想像するようなことでしかないのである。
想像力に関しては、個体によって、これまた、差がある。
この差は、普通は、あんまりうまらない。わかるように、努力をしてもわからないままなのである。ようするに、他人のいたみ対する想像力がない人は、生涯そのままなのである。
他人のいたみに対する想像力がある人は、生涯、他人のいたみに敏感である場合が多い。しかし、敏感さも、本人の体調によってかわる。そして、ある他人のいたみに対しては敏感だけど、別のある他人のいたみに対しては、鈍感である場合もある。比較的敏感な人も、敏感さの中に、かたよりがあるがある。
しかし、全体的に(他人のいたみに)敏感な性格と、全体的に(他人のいたみに)鈍感な性格というのは、あるように思える。
話としては、あたかも、他人のいたみに敏感な人のほうが優れているように、語られる場合があるけど、実際には、他人のいたみに敏感な人は、そんな人であって、他人のいたみに鈍感な人のほうが、得をしている。
つまり、「他人たいして思いやりがある」という文脈で、他人のいたみに敏感な人のほうが優れているように語られる場合があるのだけど、実際には、ちがう。
他人のいたみに敏感な人は、うまく社会に適応できないことがある。他人のいたみに鈍感な人たちが社会をつくっていて、他人のいたみに鈍感な人たちが、社会人として標準的な人たちだからだ。
ようするに、鈍感な人たちが、「話の中で考える」……都合のいい……他人のいたみに敏感な人の「イメージ」があるのだけど、実際には、そういうことを言っている人たち自体が、他人のいたみに鈍感な人たちなのである。
エンパスは、社会に適応できなくなってしまう傾向が強い。
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個体として体がわかれているという厳然たる事実であって、体がわかれているからこそしょうじる(感覚的な)部分と、想像力で補う(思考的な)部分は、わけて考えなければならないのである。
そして、個体として、からだがわかれているのが事実なので、体がわかれている事実が持つ意味のほうが、想像力の有無や想像力の強度が持つ意味よりも、強い影響をあたえ。
この根本的な影響からは、逃れることはできない。
しかし、個体として、からだがわかれているのが事実は、自己責任論の中で見過ごされがちなのである。
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一括思考の問題がある。「すべては思考」と言ってもいいのだけど、ここでは、「一括思考」と言うことにしておこう。
たとえば、「努力をすれば成功する」ということが正しいとする。そうなると、成功しなかった人は、努力しなかった人だということになる。
成功しなかった人のなかには、たしかに、努力をぜんぜんしなかったので成功しなかった人もいるのだけど、努力をしたにもかかわらず、成功しなかった人もいるのだ。一括思考のなかでは、どっちも、区別ができないのである。
努力をしたにもかかわらず、成功しなかったというのは、「努力すれば成功する」という考え方に立てば、存在しない人なのである。
しかし、存在する。
「努力すれば成功する」という考え方が間違っているので、その問題が発生する。「努力をすれば成功する」ということを、信じている人のなかでは、努力したにもかかわらず、成功しなかった人というのは、いないことになってるのである。
しかし、それでは、なんとなく、矛盾を感じるのだろう。程度の問題を持ち出すのである。努力したのかもしれないけど、努力がじゅうぶんではなかったということになるのである。
それなら、努力をしたのだから、成功していなければならないのだよ。
けど、努力論者は、自分が言っていることに矛盾を感じない。
「努力がたりなかったから成功しなかったのだ」という鑑賞地域をつくることによって、矛盾を解決したつもりになっているのだ。
しかし、この矛盾は、どこまでも、矛盾して成り立つ。ぜんぜん解決していない。
けど、たいていの努力論者は、解決したつもりになってしまうのだ。
気分だけでものを言うような人たちだから、しかたがない。ちゃんと理論的に物事を考えらない人たちなので、しかたがない。
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一括思考は、自己責任論でも成り立っていて、「すべては自己責任だ」ということになっている。もちろん、最初は、自分自身を対象とした自己責任論なのだけど、すぐに、他人を対象とした自己責任論になってしまう。
他人の身に起きたことは、すべて、その他人の責任なのだ。しかし、実際には、生まれながらに、条件がちがう。他者の行動を(だれかその人が)完全に支配制御できるわけではないので、他者の行動によって影響を受ける場合があるのである。
しかし、自己責任論者は、それを認めない。すべては、自己責任なので、他者の行動によって発生したことも、(その人)の責任だということになってしまう。一括思考が成り立っているので、個別性は、どこまでも、無視されてしまうのである。
ほんとうは、個別性がある。個々の具体的な事件や個々の具体的な出来事には、個々の具体的な条件が成り立っているのである。そして、個々の具体的な出来事には、それに至るまでの個々の具体的なプロセスがあるのである。
これを、すべて無視して、「すべては自己責任だ」と(だれかがだれかに)言う場合は、問題がしょうじる。それは、個別性を無視してているから、発生する問題だ。
ケースバイケースなのである。
ところが、自己責任論者は一括思考をして、他人の身の上に生じたことは、すべてその他人の責任だと決めつけてしまう。個別具体的な事件についても、やられたほうの自己責任だということになってしまうのである。
努力論も、自己責任論も、個別性を無視してしまうのである。つまり、条件を無視してしまう。しかし、実際の世界では、条件がちがえば、おこることもちがうのである。