「相手がいやがることはやめましょう」ということに、同意している人でも、相手がいやがることをする場合があるのである。
「相手がいやがることをしない」というのはひとつの行動基準だ。
しかし、いつも、「相手がいやがっている」ということがわからない場合がある。AさんとBさんがいるとする。Aさんは「相手がいやがることはやらないようにしよう」と思っている人だとする。
しかし、Bさんが「いやがっている」という認識がないと、Aさんのなかで、Bさんがいやがっていることをしているという認識もないということになる。
Aさんが、たとえ、BさんがいやがることをBさんにしたとしても、Bさんがいやがっているということを、Aさんが認識していない場合は、Aさんが「相手がいやがることはやらないようにしよう」と思っていたところで、BさんがいやがることをBさんにするいうことになってしまうのである。
それから、たとえば、Bさんがいやがっていることは知っているけど、Bさんのためになるから、こうしようと思っている場合などは、相手がいやがっているということを知っているけど、その行為をするということになるのである。
「相手がいやがることをしない」という行動基準よりも、「Bさんのためになるのだからやっていい」という行動の基準のほうが優先されているのである。
この場合は、Bさんがいやがっていても、Bさんがいやがる行為をするということになる。
もちろん、Aさんは、「相手がいやがることをするのはよくない」ということには賛成している人なのである。だから、お題目として相手がいやがることはやらないようにしましょう」と言ったって、現実の場面では、そのことを理解している人が、相手がいやがることをやる場合があるのである。
さらに言ってしまえば、「いやがっている相手が悪いのだ」と思う場合だってあるのだ。その場合は、「相手がいやがることはやめましょう」ということにはならない。
相手がいやがっていたって、相手が間違っているのだから、やるのである。これも、そのときはそのときで「相手がいやがっていることはやめましょう」という基準よりも、(その人のなかで)高い基準があるのだ。高いというのは、優先順位が高いという意味だ。
前に話した例だと、たとえば、宗教の勧誘がある。宗教の教えに、「人がいやがることはやめましょう」と書いてあったとしても、しつこい勧誘をする場合があるのである。
しつこい勧誘をするときは、するときで、「これは必要なことだ」という認識があるのである。そして、それは、「人がいやがることをしない」という基準よりも、優先順位が高いので、相手がいやがっていたとしても、しつこい勧誘をしてしまう。
だから、「人がいやがることはやめましょう」という教えが正しくても、「人がいやがることはやめよう」と意識的に思ってる人が増えても、実際には人がいやがる行為をする場合があるので、「人がいやがることをする人」がいなくなるわけではないということになる。
だいたい、熱心に勧誘をしている人が、「勧誘されるといやな思いをする人がいる」ということ自体を認めるかどうかも、あやしい。「自分は善行をしている」つもりなので、相手がいやがっていることをする場合がある。
「人がいやがることはやめましょう」という教えを、人が学んで、人が「その教えは正しい」と思っても、じつは、人がいやがることをする人は減らない場合がある。だって、他者が自分の行為をいやがっているかどうかについて、鈍感な人は、他者が自分の行為をいやがっているということがわからないので、どれだけ「人がいやがることはやめましょう」ということに同意していたって、他者がいやがることをしてしまうのである。
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手短に言って、精神世界の人は、ヘビメタ騒音の話をしたとき、きちがい兄貴が「迷惑行為をした」ということに注目しないのである。きちがい兄貴が「人がいやがる行為をした」ということは、無視してしまうのである。精神世界の人は無視する。
そういう基本的なことを無視する。
そして、「できると言えばできる」とか「楽しいと言えば楽しくなる」とか「どれだけ疲れていたって、元気だ元気だと言えば元気になる」とか「すべては、受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」とかということを言い出す。
きちがい兄貴が、長年、毎日、俺が嫌がる行為をしたということは、ガン無視だ。彼らは、普通に無視するのである。そして、ヘビメタ騒音の影響も無視するのである。「影響がある」ということを(こっちが)説明しても、精神世界の人は、影響を無視しやがるのである。
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「人がいやがることはやめましょう」と思ったって、それを運用している時点で、人がいやがっていることなのかどうかということを正確に認識できない点がある。しかも、相手がいやだとはっきり言っても、相手がいやがっているということよりも、重要な基準があれば、その基準に従って、いやがることをするのである。
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たとえば、「人がいやがることはしないようにする」のがいいということは、納得して受け入れた人がいたとする。Cさんだとする。Cさんは、精神世界の人なので、「言えば、言ったことが現実化する」ということも、受け入れていたとする。
けど、Cさんは、「単純なのが正しい」と思って、項目同士の関係を考えないのである。実際の運用でどういう問題がしょうじるかということについて考えないのである。
ばらばらの、正しそうな項目を全部、暗唱したところで、実際には、それを実行できないのである。
言ったことが現実化するなら、「すべての人は、人がいやがることをしなくなる」と言えば、それでおしまいなのだ。すべての人が、人がいやがることをしなくなる。
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兄貴が俺にやったことを無視して、「どんだけつかれていたって、元気だ元気だと言えば元気になるから、元気だ元気だと言えばいい」ということを言った言霊主義者(精神世界の人)がいたけど、兄貴が俺にやったことを考えると、他人から 「どんだけつかれていたって、元気だ元気だと言えば元気になるから、元気だ元気だと言えばいい」ということを言われること自体が、いやなことなんだよ。