きちがい兄貴がやったことというのは、特殊ことなのである。
特殊な騒音、そして、特殊なやり方。
きちがいだから、気にしないで鳴らせるでかい音で鳴らし続けた。
普通の人なら、「気にして」鳴らせない音で、鳴らした。
もう、ここがちがうのである。
そして、きちがいだから、きちがい的な熱量で鳴らし続けたのである。普通の人ならやらないしつこさで、鳴らし続けた。ここもちがうのである。
もともと、でかい音で鳴らすというのが異常なことなのだけど、それにもまして、「言われても気にしない」性格だった。
「言われたら」怒り狂って、やり続けてしまう性格だった。
これも、普通の人とはちがうのである。
普通の人なら、でかい音で鳴らしたくて、でかい音で鳴らしても、「うるさい」と言われたら、いちおうは、相手が言ってることがわかるということになる。
ところが、きちがい兄貴は、きちがいだから、どこまでも、どこまでも、「相手が言っていることがわからない態度」で鳴らし続けた。だから、ちがうのである。
そして、家族が数千日にわたって、ずっと、毎日、文句を言っていれば、普通の人は、「気にする」のに、兄貴はまったく気にしなかった。ここもちがう。
ちょっと横道にそれるけど、アドラーは「気にしないこと」をすすめる。あたかも、それが正しい態度であるかのような推奨のしかただ。
けど、もともと、気にしない人が、どれだけ非道なことをするのかということについては、無視しているのである。
「そんなのは、常識だ」というひとことで無視しやがる。
アドラーは、気にさせないで(ひどい人たちに)やらせる側の人間なのである。
もちろん、気にしすぎの人にとっては、すこしはいい理論だと思うけど、そもそも、まったく気にしない人間がいるということがぬけている。
そして、兄貴のような人間が、非道徳的なことに邁進してしまう可能性があるということも、アドラーは無視しているのである。
アドラーの主張には、こういう性質がある。これは絶対におさえておかなければならないことなんだよ。
けど、普通のアドラー主義者は、おさえない。「正しい教えだ」「いい教えだ」と思っている。
だから、基本的には、きちがい的な家族に、きちがい的なことをされた人間のこころをゆさぶるのである。アドラーやアドラー信者が言うことは、きちがい的な人間に傷つけられたほうの人間を、さらに、傷つける可能性がある。
だいたい、もともと、気にしない人は、きちがい的な感覚やきちがい的な理論によって、気にしないのである。それが、悪い方向に発揮されると、まわりの人がこまるのである。
そして、「家族」だと、もっとこまるのである。
家族が、気にしない人で、それが悪いことに発揮された場合、家族として一緒に住んでいる人がこまるのである。
まあ、アドラーの話は、いいよ。
ともかく、きちがい兄貴が、普通の人がやらないことをやったのである。きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で、普通の人が絶対にやらないことをやったのである。
もともと、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んでいる人は、少ない。その少ない人は、すでに、普通の人ではない。きちがい家族にずっとやられ続けたということだけで、普通の人ではないのだ。
きちがい兄貴のような家族がいない普通の人は、きちがい家族が鳴らす騒音を経験したことがないのである。
だから、普通の人が「俺だって苦労した」「俺だって困難を経験した」「俺だって、つかれている」「俺だって、憂鬱だ」「俺だって騒音ぐらい経験した」と言ったとしても、普通の人が経験した……苦労、困難、つかれ、憂鬱、騒音は……ぼくが経験した……苦労、困難、つかれ、憂鬱、騒音とは……本質的にちがうものなのである。
けど、普通の人は普通の人で、「ちがいがある」ということを認めないのである。