たとえば、「ヘビメタ騒音でうるさかった」……ということを……理解した人だって、「ヘビメタ騒音で通勤ができなくなる」……ということは……認めない。
自分は、ヘビメタ騒音が鳴ってたって、通勤できるつもりでいるのだ。
そして、「自分だって苦労した」というのは、ほんとうのことなのだ。
たぶん、苦労したのだろう。
だから、「自分だって苦労した」という認識は、別に、間違っているわけではない。
しかし、「自分だって苦労した」と言った場合の「苦労」と、ヘビメタ騒音の「苦労」がイコールではないのだ。
実際、その人は、きちがい家族によるきちがい騒音を経験していないから、通勤できる。
だから、苦労をしたのはほんとうのことだけど、通勤ができくなるような苦労をしたのかどうかは、わからないのだ。
そして、実際に通勤ができる立場で、エイリのことを批判しているのだから、あるいは、元気づけようとしているのだから、通勤ができなくなるような苦労は経験していないのである。
そして、ぼくの側が、きちがい家族による、きちがい騒音によって、「人間は、一般的に通勤ができなくなる」ということを、証明することはできないのだ。
なので、相手のなかでは、もし自分が、きちがいヘビメタ騒音並みの騒音をあびつづけて、7年以上生活したら、通勤ができなくなるということは、認めない。
認めないのだ。
認めるつもりも、ないだろう。
だから……「ヘビメタ騒音は、通勤ができるかどうかとは関係がない」と考えてしまう。ごくごく自然に、「ヘビメタ騒音は、通勤ができるかどうかとは関係がない」と考えてしまう。
疑いなんてもたない。
ところが、関係があるんだよ。
ぼくの側の意見でしかないけど、おなじレベルの騒音を、日常生活的に毎日あびつづけたら、おなじレベルの騒音で、通勤ができなくなると思う。
これが、くやしいところなんだよな。きちがい兄貴のような人間は、めったにいない。
ほかの人には、最初から、きちがい兄貴のような家族がいないのだ。
だから、きちがい兄貴のような人間のしくみが、ほかの人にはまったくわかっていない。そして、ほかの人には、きちがい兄貴のような家族が、実際にないのだから、きちがい兄貴のような家族が「毎日毎日」やることの影響を、受けない。
「受けないからわかっていないだけなのかもしれない」のに、そういうことに関する関心がないので、「受けないからわかっていないだけなのかもしれない」とは考えないのだ。
これは、ほんとうに、一般化できるレベルで、「関係がない」と思っている人は、考えていないのではないかと思う。
「ヘビメタ騒音と通勤は関係がない」と思っている人のすべてが、「自分は、ヘビメタ騒音の影響(きちがい家族によるきちがい的な騒音の影響を受けていないから、ヘビメタ騒音と通勤の関係がわからないだけなのではないか」と思わないのではないかと(わたしは)思う。