2026年4月29日水曜日

●「貧しくても、努力をすれば成功する」■社会※2026/04/27 20:48

就職氷河期について考えたわけだけど、このことは、努力論にもあてはまる。

努力をすれば成功するという考え方のことをとりあえず、努力論といっておく。これも、すでに指摘したことなのだけど、「努力」をしたかどうかの二値なのだよ。

最初は、「努力をした」と「努力をしなかった」の二値だ。

値としては、「努力をした」と「努力をしなかった」の二値しかない。

ところが、あとで、「努力の量」や「努力の方法」が問題になるのである。努力をしたというのが、だれによって決められるのかも、あいまいなままだ。本人が決めるのか、ほかの人が決めるのかわからないところがある。

だから、どうにでも言うことができるという状態なのだ。ところが、努力をすれば成功するという文は、一〇〇%構文の文なのだ。

だから、努力をすれば、一〇〇%の確率で、成功するということになる。どんな努力でも、努力をしさえすれば、成功するのである。言霊理論における「言い方の問題」とおなじ問題が努力論にも成り立っている。

しかし、今回言いたいことは、それではない。

努力をした人は、努力をした人という範疇に入る。努力をしなかった人は、努力をしなかった人という範疇に入る。これは、属性とおなじ問題なんだよ。努力をしたという属性の人と、努力をしなかったという属性の人がいるのである。

努力をしなかった人は、成功していない人なのだ。成功した人は、みんな、努力をした人なのである。成功した人が成功した理由は、努力をしたからなのだ。

ところが、就職氷河期という属性を持つ人のなかで、条件がちがうということがある。

それとおなじように、努力をしなかったという属性を持つ人のなかで、条件がちがうのである。努力をしなかったという属性を持つ人は、ただ単に「努力をしなかった」という属性だけで、判断されるのである。

一括思考の決めつけだ。

しかし、努力をした人のなかにも、いろいろな人がいる。

努力をした人は、努力以外の条件がみんな、おなじかというと、ちがうのだ。努力をしない人は、努力以外の条件がみんなおなじかというとちがうのだ。

たとえば、貧しいかどうかという条件を付けくわえてみよう。

そうすると、たとえば、「貧しい人は、努力をしても成功しない」という言い方や「貧しい人でも、努力をすれば成功する」という言い方ができあがる。努力という条件のほかに、貧しいかどうかという条件が付け加わったのだ。

たとえば、「だれだれという貧しい人は、貧しいのに、努力をしたから成功した」ということを言ったとする。だれだれという貧しい人の条件は、すべての貧しい人に成り立っているかというと、成り立っていないのだ。

ところが、努力においても、やった間違いを、貧しさ(貧しい度合い)でもやってしまう。

貧しい人と貧しくない人という二値を考えて、貧しい人というのは、同等に貧しいし、ほかの条件もおなじだと仮定してしまうのである。

貧しくない人は、同等に貧しくないし、ほかの条件もおなじだと仮定してしまうのである。そして、仮定したことに気がつかない。

じつは、貧しさにおいても、貧しさの程度がちがうし、ほかの条件だってあるのだ。親の年収が一五〇万円の貧しい家においても、親の性格がちがえば、条件はちがってくる。

だいたい、貧しい人は、だれでも、おなじ才能をもっているわけではない。人によって、才能がちがう。貧しくて、努力した人が成功したとする。

けど、それは、才能があったから、成功したのかもしれない。貧しくて努力した人が成功しなかったとする。それは、才能がなかったから成功しなかったのかもしれない。努力と、貧しさだけが、成功を決める要素ではない。

ところが、努力をしたかどうかに意識が集中していると努力をしたかどうかということが、成功するかどうかを「一〇〇%の確率」で決めるということになってしまうのである。

自動的にそういう考え方を選択してしまうのである。

貧しくても、努力したから成功した人が一人でもいれば、「貧しくても、努力をすれば成功する」と言えるかどうかということを考えた場合、言えないのだ。

一括思考をして決めつけてしまう人は言えると思っているだけなのだ。

そういう前提で物事を言っている。決めつけている。理論的な思考ができないので、間違った推論をしてしまう。

才能があるかどうかという条件は、「貧しくても、努力をすれば成功する」という文のなかには出てこない。才能があるかどうかという条件は、事前に、無視されているのである。

すべての条件について言及するのは無理だ。

しかし、いろいろな条件を考えるほど、精度が高くないのだ。

なんと言っても、「努力する」ということが、一意に決まらない。「成功する」ということが、一意に決まらない。

最初から、こういう土台の上で、「感じたことを」言っているだけなのだ。

ところが、こういう、でたらめなことをしているのに、一括思考で決めつけた結論を、多くの人は受け入れてしまうのである。二値しかないのに、一意には決まらないという性質は、第二の条件にも、第三の条件にも成り立つ。

だから、しょせんは、言葉の遊びをしているだけで、なにかしら、「これはこうである」と言い切れることは、言っていない。ところが、つねに、言い切ってしまうのである。誤謬の上に誤謬を重ねている。

問題なのは、第一条件について述べている場合は、第二条件以下の条件は、まったくなにも意味をもたないということだ。

そして、第一条件と第二条件について述べている場合は、第三条件以下の条件は、まったくなにも、意味をもたないということだ。

第二条件として「貧しさ(貧しいか、貧しくないか」ということを……とりあえず、出したけど……これは、ぼくが恣意的にやったことにすぎない。 

「貧しくても(第二条件)、努力をすれば(X)成功する(Y)」という文のなかには、第三条件である才能は、出てこない。無視されているのだ。

「才能があれば(第三条件)、 貧しくても(第二条件)、努力をすれば(X)成功する(Y)」という文のなかには、第四条件以降の条件が出てこない。

ところが、条件なんて、無数にあるのだ。

そして、貧しいという条件を考えた場合でも、どいうふうに貧しいのかということについてちがいがある。このちがいが、もっと、詳細な条件のちがいを内包しているのである。才能がある」と言っても、才能があるということは、どういうことなのか、これまた、一意には決まらないのである。

どういう才能が、どの程度あるのかというのは、わからない。測定できる才能に関しては、不完全だけど、測定値がものを言うのだろう。

しかし、それは、はかれる才能を、その試験方法で、切りだして、かりそめの値を与えているだけなのだ。「才能」なんてものは、ほんとうは、わからない。

この場合も、実際にできれば才能があり、実際にできなければ才能がないというようなことになりがちだ。しかし、これは、後出しなのである。現実の写し絵なのだ。

「才能があれば」と言っているときは、まだ、発揮されていない(現実化していない)ポテンシャルな才能も含めて、才能と言っているのだ。

だから、現実の写し絵である才能と、ポテンシャルな才能を含めた才能は、ちがうものなのである。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。