Aさんが、小学六年生のとき走り幅跳びで、二メートル五〇センチとべたとしよう。そして、Aさんが高校生三年生のとき、四メートルとべたとしよう。Aさんは、小学六年生から高校三年生になるまで、まったく、幅跳びの練習をしなかったとする。
Bさんも小学六年生のとき走り幅跳びで、二メートル五〇センチとべたとしよう。そして、Bさんも高校生三年生のとき、四メートルとべたとしよう。Bさんは、小学六年生から高校三年生になるまで、幅跳びの練習をずっと毎日していたとする。
その場合、Bさんは、「コツコツと努力すれば、成功する」という言葉を信じやすい。実際、コツコツと、努力をしたので、走り幅跳びで四メートルとぶことに成功したと思いやすい。
しかし、それなら、「コツコツと努力すれば、成功する」という命題が、真であるかというと、そうではないのである。どうしてかというと、コツコツと努力したにもかかわらず、走り幅跳びで四メートルとぶことに成功しない場合もあるからだ。
「コツコツと努力すれば、成功する」というのは、「コツコツと努力すれば、一〇〇%成功するという」ことなのだ。コツコツと努力したにもかかわらず、成功しないということはないのだ。なので、まちがっている。
ところが、努力をして、成功した人は、これこそ真実だと思ってしまう。その人にとっては、それでよいのだけど、世間には、努力したのに、成功しなかった人もいるということを無視してはいけない。
何度も言うけど、条件に差がある。条件が悪い人は、「コツコツと努力すれば成功する」などと言われると、いやな思いをすることになる。「コツコツと努力すれば、成功する」という言葉自体が、最初から、条件の差を無視している。
どんな条件でも、コツコツと努力すれば成功すると言っているのである。一〇〇%の人が、一〇〇%成功するのである。例外はないのである。
ところが、実際には、例外ばかりだということになる。むしろ、コツコツと努力をして成功した人のほうが少ないのではないかと感じる。コツコツと努力をして成功した人のほうが、例外なのではないかと思う。
「成功」のなかみは、ひとそれぞれなので、成功したと感じる基準を低いものにすれば、「成功した」と言うことができる。
なので、これも、「コツコツと努力すれば、一〇〇%成功するという」ということを「信じたい」ので、わざと、ささいなことを持ち出して、そのささいなことに成功したから、この文が正しいと思おうとしている人もいる。そういう人をみたことがある。
この、成功したというのは、自己申告制だから、客観的な基準はない。なので、一部の人は、「コツコツと努力すれば、一〇〇%成功する」という文が正しいと信じることができるのだけど、それは、「コツコツと努力すれば、一〇〇%成功するという」という文が正しいということを意味していない。
ものすごく不利な条件が何個も何個も重なっている人がいる。そういう人は、どれだけ努力しても、成功しない。
そして、努力する過程で絶望を感じる。
努力をすること自体が楽しいことではなくて、くるしいことになる。いい意味で、くるしいことになると言っているのではない。悪い意味でくるしいことになると言っているのだ。
なまじか、「コツコツと努力すれば、成功する」という考え方がはやっているので、自殺する人も出てくるだろう。これは、人を自殺に追い込む文なんだよ。なんでこれがわからないかな?
そして、「コツコツと努力すれば、成功する」ということが正しいと思っている人たちは、実際に成功しなければ、どれだけ努力しても、努力したことにならないという考え方を採用するので、条件が悪いから成功できない人を、バカにすることになるのである。
侮辱することになるのである。
この侮辱は、悪いことなのだけど、これもまた、社会に承認された悪いことなのだ。ようするに、悪いことになってない。これもまた、侮辱されたと感じるほうが悪いということになっているのだ。
「コツコツと努力すれば、成功する」と人をはげますことがいいことだということになっているのだ。こんなのはない。条件を無視して、「コツコツと努力すれば、成功する」と言って、人をはげますのは、悪いことだ。悪行。
どうしてかというと、「条件を無視している」からだ。『条件なんて関係がない』ということになっているのである。「コツコツと努力すれば、成功する」ということを言う人の頭のなかでは、『条件なんて関係がない』ということになっている。
けど、そうではない。
それは、自動的に具体的な相手の条件を無視することつながるので、行為全体としては悪いことになるのである。
そして、トリックについて説明したけど、成功しなければ、努力したことにならないのだ。あとだしジャンケンみたいなもので、結果が出たあと、こうだと言っているだけだ。原因のほうを書き換えてしまっているのである。
成功しなければ、努力をしなかったということになってしまうのだ。あるいは、努力が不十分だということになるのだけど、それは、不十分な努力しかしなかったから、成功しなかったのだということを意味するのである。
しかし、言ったか言わなかったの二値しかないのとおなじように、努力をすれば成功するのだから、努力をすれば成功するのである。
「不十分な努力なら成功しない」と言うのであれば、そういうふうに言っておかなければならない。「コツコツと努力すれば、成功する」には一〇〇%という文字が含まれていないけど、意味的には一〇〇%そうなるということを言っていることになる。トリックがある。
そして、成功をしなければ、努力をしてないか、あるいは、努力が不十分だったということになるのである。そして、だれがどのような基準で(その人)の努力が不十分だったと判断するかというと、(その人が)成功しなかったから、ほかの誰かが、その人の努力が不十分だと言うのである。
たとえば、AさんとBさんがいるとすると、AさんがBさんがどれだけ努力をしたか、まったく知らないけど、ともかく、Bさんが成功していないのであれば、Bさんの努力は、不十分な努力だと、Aさんが勝手に判断して、Aさんがそのように言うのである。
ようするに、これも、結果から、不十分だったのだと言っているにすぎない。成功しないのであれば、努力が不十分ならという条件の部分をとれば、こつこつと努力をしても成功しないということになるのである。
なので、努力の度合いという条件を無視するなら、「努力をしても、成功しない」ということになる。しかし、これも、「努力すれば、成功する」とおなじように、条件を無視しているので、現実世界においては、まちがった、文になる。
どうしてかというと、条件というのは、現実世界においては、うまれながらに付与されているものだからだ。どれだけ条件を無視しても、どれだけ条件があるということ自体がいやだと思っていても、条件がある。
現実世界では、条件を無視して、「XをすればYになる」というようなことを言うのは、ご法度だ。
どうしてかというと、条件によって別の結果が出てしまうからだ。「XをすればYになる」と言っているのに、「XをしてもYにならない」という場合があるのなら、問題がある。
オン・オフについて考えてみよう。X側にもオン・オフがあり、Y側にもオン・オフがある。
「努力をすれば成功する」という場合は、X側に「努力をする・オン」と「努力をしない・オフがある。Y側には「成功する・オン」と「成功しない・オフ」がある。
X側がオンなら、かならず、Y側もオンになるというのが、この文の意味だ。
なので、X側がオンなのに、Y側がオフになることはないということを言っているわけだ。
しかし、実際には、努力をしても、成功しない場合があるので、もう、この時点で、この文は成り立たないということになる。
そして、X側がオフなのに、Y側がオンになってしまう場合があるわけだ。そうなると、「努力をすると成功する場合がある」「努力をしても成功しない場合がある」「努力しなくても、成功する場合がある」ということになって、「努力をすれば成功する」と言った意味がないということになる。
すでに、「努力しても成功しない場合がある」「努力しなくても、成功する場合がある」ということがあきらかなので、「成功したなら、努力した」ということは言えないということになる。
同様に「成功しなかったなら、努力しなかった」ということは言えないということになる。あるいは、「成功していないなら、努力をしなかった」ということは言えないということになる。
ようするに、「努力をすれば成功する」場合もあるけど、そうではない場合もあるということになる。
なので、ほんとうに、言っただけの意味がない。
ところが、あたかも、法則性があるような誤解をうみだしているのである。多くの人が、こんなでたらめな言葉を、正しい言葉だと思っているのだ。
そういう社会に住んでいると、条件が悪い人は、必然的にいやな思いをすることになるのである。