ヘビメタ騒音と言うと、失笑されるのだけど、ぼくと同じ量の騒音をあびた場合、全員が宿題をすることができなくなると前提しよう。
そして、ぼく以外の全員が、ぼくと同じ量の騒音をあびてないと前提しよう。そうなると、ぼく以外の全員が、自分は、エイリと同じ量の騒音をあびたとしても、宿題をすることができるという前提でものを言ってくることになる。
これは、エイリを軽蔑することになる。これは、エイリを宿題を忘れるようなダメ人間だと思うことになる。「騒音が鳴ってたって、宿題ぐらいできるに決まっているのに、それを、エイリがやらないことを選択して、やらないだけなんだ」と思うようになる。
ようするに、「やろう思えばできるのに、さぼっているからダメなんだ」と思うようになるのである。
だから、そういう前提で、ものを言ってくることになる。
屈辱じゃないか。
そいつらだって、ぼくと同じ量、騒音をあびた場合、宿題ができなくなるのだから。
けど、これは、ぼくと同じ量の騒音をあびた場合、全員が宿題をすることができなくなると前提が正しいばあいの話だ。まちがっているのであれば、そういうことは言えなくなる。
けど、ぼくには、その前提が正しいと証明できないのである。そういうものを突き付けられてしまった。
ほんとうは、全員ができないのに、全員が、「自分ならできる」という前提で、俺を見下してくるのだ。こんなのは、ない。
けど、「全員ができなくなる」ということを証明することができない。実験? そんなのは、ありえるはずがない。
だから、本人が……俺の話を聴いた本人が……「自分なら、同等の騒音が鳴ってたってできる」と思ったら、それで、おしまいなのである。そいつが、俺のことをバカにするということが確定している。
けど、それがいやなら、宿題をすればいいじゃないかということになるのだけど、ヘビメタ騒音が鳴っていると、どうしてもどうしても、どれだけがんばっても、宿題ができない状態になるのである。
きちがい家族のきちがい騒音が鳴っていると、どれだけがんばっても、どれだけがんばっても、どうしてもどうしても、どうしても、宿題ができないのである。
事実として、宿題ができない。
だから、宿題がある日は、毎日、次の日は恥をかくということが、決まっているのである。みんなから、見下されるということが決まっているのである。こんなのはない。
みんながわかってないのは、ヘビメタ騒音が鳴っていると宿題ができないということだ。これがわかってないのである。
ようするに、みんながみんな「ヘビメタ騒音が鳴っていても、宿題ぐらいできる」という前提でものを考え、ものを言ってくるのである。
こんなの、地獄だろ。
そして、「みんなにバカにされるから、ヘビメタを鳴らすな」ということをきちがい兄貴、どれだけ言っても、きちがい兄貴がそういうことを認めないのである。ここでも、「認めない」ということが発生する。確定事実なのに、きちがい兄貴が認めない。きちがい兄貴は、でかい音で、ヘビメタを鳴らしているつもりがまったくないのだけど、本人の耳が悪くなるようなでかい音で常にヘビメタを鳴らしている。きちがいだ。そして、もちろん、「ヘビメタ騒音が鳴っていると、宿題ができなくなる」ということを認めない。そして、「宿題をやっていかないと、みんなからバカにされる」ということを認めない。関与すら、認めない。自分がやっていることとは、まったく関係がないことだと思っているのだ。きちがい兄貴の態度というのはそういう態度だ。これが、いじわるで、ほんとうは知っているけど、そういうふりをしているというのではなくて、頭の構造が異常なので、ほんとうに、まったく知らない状態になっているのだ。頭の状態が異常なので、感覚器をだまして、感覚器を上書きして、しずかな音や小さな音で鳴らしているつもりなのだ。頭がおかしいからそういうことが可能なのだ。けど、それは、外からは見えない。そして、実際にうちにいる人じゃないと、「そういう態度で鳴らしている」ということが、まったく、まったく、わからない。「言えばわかってくれるんじゃないかな」と考えてしまうのだ。だから、ここでも、きちがい兄貴のヘビメタ騒音についてまちがった前提でものを考えているのだ。そして、それは、ぼくがどれだけ、きちがい兄貴のことに説明しても、つたわらないことなのだ。そもそも、そんなに関心がない。自分の家族はそういう家族ではない。自分は経験的に、そういう家族が、そういうことをするということがわかってない。それなら、特別に関心がないし、自分は被害を受けていないのだから、自分のなかの常識にこだわることになる。わざわざ、自分のなかの常識……すでに成り立っている常識をかえようとは思わない。そんな、レアなケースにあわせて自分の常識をかえようとは思わないのだ。「これこれは、こういうものだ」というイメージがあるのである。「家族はこういうものだ」「家族の反応はこういうものだ」というイメージがある。そのイメージはその人の自我に直結しているので、あんまりかえたくないことなのである。これは、むかし書いたから、ここではもう、省略する。