「騒音」というのが、だれでも、少しは経験したことがあることなので、「やっかい」なのである。
だれも、きちがい家族が、きちがい感覚で鳴らす騒音に、十五年間もさらされてないのに、「自分だって、騒音ぐらいあった」と言えば、「自分だって、エイリとおなじ騒音を経験した」ということになってしまうのである。
その人たちは、みんな、兄貴のようなタイプの、きちがい家族とは、いっしょの家に住んでない。いっしょに生活したことがない。
一年だってないのだ。
そういうやつが、十五年間、さらされ続けた俺に対して、くそを言う。まちがったことを言う。まちがった前提で、まちがったことを言う。
「自分だって、同等の騒音を経験した」という前提で、「鳴ってたって、できる」と言う。ちがう。
おなじように、「自分だって同等の苦労をした」という前提で「そんなのは関係がない」ということを言う。ちがう。
同等の苦労じゃない。
自分が働いていれば「同等の苦労をした自分だって働いているのだから、エイリさんだって働ける」ということになる。
ところが、同等の苦労なんてしないのだ。
きちがい家族といっしょに住んだ数十年間の記憶がないのだ。きちがい家族といっしょに住んでいるからこそしょうじる、いろいろな出来事を、数十年ぶん、経験してないのだ。
ちがうじゃないか。