「受け止め方をかえればいい」と助言するやつが、俺の意見にあわせて「受け止め方」をかえてくれたことは、一度もない。ぼくの経験の範囲で言うと、一度もない。たとえば、自己責任論というのがはやっているけど、自己責任論を信じているやつがいるとする。正しいと思っているやつがいるとする。そして、そいつは、同時に「受け止め方をかえればいい」教の信者だとする。自分の意見として「受け止め方をかえればいいのだ」と思っているのだ。俺が、そいつに自己責任論というのはまちがっていると言ったとする。自分の受け止め方をかえればよいのだから、そいつは、いままで、自己責任論は正しいと思っていたけど、受け止め方をかえて、自己責任論はまちがっていると思えばよいわけだ。ところが、「自己責任論は正しい」と言いはる。受け止め方をかえるわけではない。たとえば、そいつが無職に対して偏見をもっているとする。俺が、そいつの無職に対する偏見には問題があると指摘したとする。そのとき、そいつは、「ああそうですか」と無職に対する受け止め方をかえるのかというと、かえないのだ。たとえばの話だけど、自分が俺の収入状態とまったく関係がないのに、「人間は働くべきだ」と思っているから、俺に対して、「働くこと」をすすめるやつがいるとする。言っておくけど、俺がこいつに対して「おカネを貸してくれ」とか「おカネをくれ」とかと言ったわけではない。ただ、こいつは、他人が無職でいることに対して、嫌悪感をもっているのだ。こいつは、「受け止め方をかえればいい」と思っているのだから、無職の人に対する受け止め方を、かえればよいのだ。ところが、無職の人に対する受け止め方を、かえないのだ。「受け止め方をかえよう」などとは思わないのだ。たとえば、そいつが、「遅刻をするやつは、悪いやつだ」と思っていたとする。俺が、「どうしようもない場合もある」と言ったとする。そいつが、遅刻をするやつに対する受け止め方をかえるのかというと、そうではないのだ。あいかわらず、遅刻をするやつは、悪いやつだと思っている。受け止め方をかえればいいと言っているやつは……特に、人にそうやって助言をするやつは、自分の受け止め方をかえないやつだ。人には「受け止め方をかえればいい」と助言するけど、自分は「受け止め方」をかえるつもりがまったくないのだ。
ぼくが生きてきたなかで、特に腹がたつやつは、ヘビメタ騒音に関して、ぼくが受け止め方をかえればいい」という意味で「受け止め方をかえればいい」と言ってきたやつだ。こいつは、なにもわかってない。こいつは、きちがい兄貴がどういう態度で、どういう感覚で、どういう音のでかさで、騒音を鳴らしているかまったくわかってない。どういう時間の長さ、ヘビメタを鳴らしているかまったくわかってない。どういう期間の長さヘビメタを鳴らしているかまったくわかってない。時間の長さと期間の長さと音のでかさは説明したのに、まったくわかってないのだ。そういう理解力だ。こいつも、自分なら「ヘビメタがものすごくでかい音で鳴っていたって平気だ」と思っている。実際に、ヘビメタなら大丈夫なのかもしれない。けど、自分が鳴らしたくないときに、他人が、ヘビメタを鳴らしていたらどうなのかな? 自分は、ヘビメタが好きだからだいじょうぶだと思っているかもしれないけど、自分がでかい音で聞きたくないときにヘビメタが鳴っていたらどうなのかな? あるいは、ヘビメタではなくて、自分が一番きらいな音が、鳴らしているやつの耳が悪くなるようなでかい音で鳴っていたらどうなのかな? 受け止め方をかえればいいと思うのかな? 実際に、自分が鳴らされて、頭にきているときは、「受け止め方をかえればいい」なんて思わないと……ぼくは思う。こいつらは、自分の場合は、「受け止め方をかえよう」とは思わず、他人の場合は「受け止め方をかえればいい」と思うやつらだ。自分にとって、おこる理由があきらかな場合は、おこるのである。受け止め方をかえるわけじゃない。自分が普段実践してないのに、人に言うときは、「自分はそうできる」という前提で、ものを言う。こういうやつらが多すぎる。
「自分なら影響をうけないことが可能だ」という前提でものを言うのは、やめろ。ヘビメタ騒音に関して、頭がわるいことを考えて、頭がわるいことを言うのはやめろ。ほとんど、無意識的に、「自分なら影響をうけない」と思っているだよな。俺に言うときは、そう思っている。けど、実際におなじことを家族にやられたら、影響をうけるということがわかるよ。経験がないから、わからないのだ。あるいは、想像力がないからわからないのだ。あるいは、うぬぼれ屋だからわからないのだ。
たとえば、AさんとBさんがいて、Aさんが「受け止め方をかえればいい」と人に説教をする人だとする。Bさんが「おまえは、うぬぼれ屋なんだよ」と、Aさんに言ったとする。Aさんは、自分はうぬぼれ屋だと思ってなかったとする。Aさんは、いままでの「自分はうぬぼれ屋ではない」という(自分に対する)受け止め方をかえて、自分はうぬぼれ屋だという(自分に対する)受け止め方を、受け入れるのだろうか? たいていの場合、受け入れないと思うよ。 根拠というのが必要なんだよ。自分のなかで、自分の経験に根差した「根拠」がある場合、ほかの人の意見にあわせて、受け止め方をかえるということは、ほとんどの場合、ない。
「受け止め方をかえればいい」と言う人は、ほんとうは、自分の意見をもてない人でなければならないのである。人から、別の意見を言われるたびに、それまであった自分の意見をかえるような人でなければならないのである。自分の意見というのが、あるようでない人だ。そのときの受け止め方というのは、自分の根拠によって成り立っているんだよ。それまでの経験にもとづいた判断基準によって成り立っているんだよ。その判断基準は、そんなに容易にはかえられないのである。ひとつの意見というのは、ひとつの意見だけで成り立っているわけではなくて、関連した意見と関係を保ちながら、自我のなかで成り立っているのである。まったく、まったく、わかってないなぁ。人から言われるたびに、意見が完全に、他人から言われたような意見になるというとはないんだよ。それだと、自我が成り立たないんだよ。自我が成り立っているということは、判断の総体が成り立っているということだ。ひとつ意見を言われるたびに、受け止め方がかわるということは、ひとつ意見を言われるたびに、すでに成り立っている判断の総体ががらっとかわるということなんだよ。すでに成り立っている判断の総体は、そんなに容易にはかわらない。「受け止め方をかえればいい」と言っているやつは、そこだけ器用に受け止め方をかえることができると思っているのだけど、それが、まずまちがいなんだよ。そして、自分が、普段、受け止め方をかえて生きているわけではないということに気がついてないということが問題なんだよ。
繰り返しになるけど、そのときすでに、判断の総体をもっているということは、一度に上書きできるような判断の総体をもっていないということを意味しているんだよ。だいたい「受け止め方をかえればいい」という意見を聞いたときだって、それまでにある自分の「判断の総体」と相談して、納得して、受け入れたんだよ。自分が即座に「ちがう」と思う意見を、納得して受け入れたわけじゃない。受け止め方をかえればいいというのは「自分が即座にちがう」と思う意見を自分の意見として受け入れるということを、含んでいる。ほかのもっとたいせつなことも、含んでいるのだけど、ともかく、意見という表面的なものですら、そうなのだ。なおさら、「たいせつなこと」を相手の判断の総体にあわせて、かえるなんてことはできない。「相手の行為や相手の意見にあわせて、自分の受け止め方をかえればいい」なんて意見は、まったく役に立たない意見なんだよ。自分の受け止め方をかえればいいなんて言っているやつらですら、普段は、そんなことは、絶対にしてない。これも、自分が普段絶対にしてないということに気がついてないから、自分は「なにか問題がしょうじたら自分の受け止め方をかえられる人間だ」と思っているのである。どこまで、うぬぼれ屋なんだ……。
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たとえば、AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんは、人殺しはよくないと考えているとする。そして、受け止め方をかえればいいと思っている人間だ。Bさんは、人殺しはいいことだと考えているとする。むしろ積極的にやるべきだと考えているとする。Cさんは、人殺しはよくないと考えているとする。Aさんが、Bさにあっているときは、Bさんにあわせて「人殺しはよくないことだ」という「人殺し」に関する受け止め方をかえることができるかというとかえられないのだ。けど、まあ、Aさんは「受け止め方をかえることができる人間だとする。受け止め方をかえることができるので、Bさんにあったあとは、「人殺しはいいことだ」ということを受け入れて、生活しているとする。そのあと、AさんがCさんにあったら、Cさんは「人殺しはよくない」と考えているので、Aさんは、Cさんにあわせて「人殺しはよくない」と受け止めるように、受け止め方をかえるのである。こういう人は、自我がないか、あるいは、ちょっと前の自我とちょっと後の自我がまったく関係なく、自我として存在しているような人なので、人間のありかたとしては、とても特殊だ。ぼくはあったことはないけどね。「受け止め方をかえればいい」と(人に)言う人は、じつは、頑固なやつが多い。宗教的な考え方に毒されているので、わりと強固な自我をもっていると言っていい。
総合的に言ってしまうと、人に「受け止め方をかえればいい」と言ってしまうような人は、自分の受け止め方をなかなかかえようとしない人なのである。かえる場合だってあると言うかもしれないけど、変える場合は、意見を、部分的に上書きしているだけだ。ようするに、それまでもっている自我の総体にあっているから、納得して、意見を、部分的に上書きしたのである。その場合は、自我の総体が、意見の書き換えをゆるしているのである。ようするに、トートロジーになってしまうけけど、納得して書き換えている。だから、こんどは受け止め方をかえればいいという意見はまちがっている」というぼくの意見には、したがわないのである。あるいは、したがわないようになるのである。受け止め方をかえて、ぼくの意見にあわせてくれるわけではない。何度も言うけど、「意見」ですらそうなんだよ。こういう音がいやだとかそういうことまで、受け止め方をかえられるわけがないだろ。「快」とか「不快」というのは、表面的な「意見」よりも、もっともっともっと深いところにある「意見」なんだよ。まあ、感じ方と言ってもいい。感じ方が、受け止め方を決定しているんだよ。感じ方の総体が受け止め方を決定していると言ってもいいか。あるいは、これを言ってしまうと、たしょうの問題がしょうじるかと思うけど、「感じ方」というのは「受け止め方」なんだよ。まあ、感じ方の一部が受け止め方を形成しているのか、あるいは、感じ方というのが受け止め方そのものなのかという問題は、横に置いておくと、表面的な意見ですら(それまでの自我の総体)にあわないものは、受け入れようとしないのに、感じ方という根本的な部分まで、容易に書き換えられると思うのは、どうかしている。相当に矛盾している。