ギリケン問題というのがある。ギリケンというのは「ギリギリ健常者」のことだ。健常者なのである。
けど、障害者並みに、ある分野のことができないのである。
ギリケン健常者の問題というのは、たいていの場合「労働できるかどうか」という問題になる。それ以外の分野では、たいして問題にならない。
日本労働教徒や努力論者というのは、成人の九割以上を占めるマジョリティーだ。定年退職して働いてない人間も、日本労働教徒であることには、かわりがないので、働いてないにもかかわらず、日本労働教の価値観をもっている。
とりあえず、一般労働教徒か、あるいは努力論者である者のことを「定型一般人」と呼ぶことにする。
定型一般人から見ると、障害者と健常者のあいだには、一本の太い線があり、両者はわけられていると考えている。だから、障碍者に求めることがちがってくる。障害者は障害者であるので、一般人であることは求めないのだ。一般人ならできることを、障害者には求めない。
けど、現実世界には、定型一般人が考えているようなはっきりとした線引きはない。
ひとくちに障害者といっても、障害の程度がちがうし、障害を抱える分野がちがう。ひとくちに障害者といっても、ほんとうにひとそれぞれに、状態がちがう。
そして、障害者かどうかというのは、医者が障碍者だと認めたかどうかということにかかっている。まあ、行政的に障害者なら、障害者であり、行政的に健常者なら健常者だということになる。
けど、「働く」ということのレベルがあがってしまったので、ギリギリ健常者でも、働けない場合があるのだ。ぎりぎり健常者の場合も、障害者とおなじように、ギリギリ健常者のなかで、障害の程度がちがう。それぞれのギリギリ健常者の障害の分野がちがう。この障害の分野というのは、相当に細かい分野だ。
そして、「仕事をする」ということになると、さまざまな分野がかかわることになる。ある仕事(アルファ)をするには、A、B、C、D、E、Fという能力が必要だとする。どの能力も、ある程度ないと、仕事ができないという状態になる。
ある程度というのを、とりあえず、六〇以上だとしておこう。たとえ、A、B、C、D、Eの各項目が八〇だとしても、Fという項目が三〇であれば、仕事ができないということになる。その仕事(アルファ)ができないということだ。
たとえば、花子さんはA八九、B九九、C八四、D九八、E七八、F三〇だとする。Fの能力以外は、高いので、定型一般人から見ると、仕事ができるように見えるのである。けど、Fの能力の低さが足をひっぱって、アルファという仕事ができない。
けど、A、B、C、D、Eの能力が必要な仕事はできるのである。この仕事をベータだとする。ベータという仕事に必要な能力は、A、B、C、D、Eの各値が六〇以上だとする。そうなると、Fという項目がないので、花子さんは、ベータという仕事なら、できるのである。だから、ある仕事アルファができない人も、ある仕事ベータならできるということになる。
しかし、たとえば、Cという能力が六〇未満の人は、アルファという仕事もベータという仕事もできないということになる。
たとえば、太郎という人がいたとする。太郎さんの各項目能力値がA八〇、B九〇、C四九、D八八、E九九、F八九だとしよう。太郎さんは、ある仕事アルファもできないし、ある仕事ベータもできないのである。どうしてかというと、Cの能力値が低すぎるからだ。
しかし、A八〇、B九〇、D八八、E九九、F八九とCの能力をぬかした数値は高いので、定型一般人は、太郎さんは障害者ではなく、健常者だと判断するだろう。むしろ普通の人よりも能力が高いのだから、仕事ができると判断するだろう。
しかし、太郎さんは、Cの能力が低いのでアルファという仕事もベータという仕事もできない。
このように、健常者と障害者のあいだには、一本線であるような区分線はないということになる。
しかし、定型一般人が「他者」を見るとき、どのようなことが起こるかというと、健常者と障害者という区別をして、他者を見るのである。
健常者なら、仕事ができると考えて、障害者なら仕事ができなくてもしかたがないと考えるのだ。障害者が仕事をする場合は、特殊なサポートが必要になるということも、うけとめることができる。
しかし、健常者が仕事をする場合は、特殊なサポートが必要ではないと考えるのである。健常者なのに、できないのであれば、定型一般人はその健常者が、あまえた健常者だと思うだけだ。
健常者なら、特殊なサポートなしで、仕事ができてあたりまえなのである。
他人の特定分野の障害なんて、気にしていられないというのが実情だろう。
仕事によって、求められる能力の組み合わせがちがうということや、人によって各分野の能力にばらつきがあるというようなことは無視してしまうのである。
ようするに、一本の直線的な区分線があると考えてしまうのである。だから、能力項目によって、デコボコになるような区分線は考えてない。
そしてさらに、定型一般人のなかには、ギリギリ健常者という区分領域がない。
なので、定型一般人は、ギリギリ健常者を健常者とみなすのである。そうなると、定型一般人は、「健常者なのだから仕事ができてあたりまえだ」と考えるのである。
定型一般人から見ると、ギリギリ健常者は「仕事ができるのに、仕事ができないと言って、あまえている人だ」ということになるのである。