きちがいのなかで「思いっきり鳴らす」ということが決まっているので、なにを言われても気にしないのだ。気にしないと言っても、「思いっきり鳴らせなくなるようなこと」は、認めない。この「認めない」状態というのが、無意識がかかわっているものだから、普通の人にはわからない状態なのである。ようするに、「思いっきり鳴らす」ということが固定されているとする。固定されていたら、「思いっきり鳴らすこと」が固定されているので、どれだけ「でかい音で鳴らしている」と言われても、「でかい音で鳴らしている」ということを認めないということになる。普通の人の場合、「でかい音で鳴らしている」ということは、聴覚が正常であれば理解できることであり、いやおうなく、認識してしまうことなのである。だから、普通の人がこういう態度をとる場合は、「でかい音で鳴らしているのは認識しているけど」「思いっきり鳴らしたいので」「でかい音で鳴らしているということを無視して認めない」ということになる。ところが、きちがい兄貴の場合は、きちがいなので、普通の人とはちがう状態が成り立っている。意識を捻じ曲げて、「でかい音で鳴らしている」ということを認識しないようにするのだ。だから、本人の意識のなかでも、『実際に自分は、でかい音で鳴らしてない』ということになってしまう。そういう都合がいいところがある。これは、自分をだましているわけで、都合がいい。自分をだますことができると、「思いっきり鳴らしている」ということを認めずに、思いっきり鳴らすことができるのだ。
ここに、きちがい兄貴がまったく気がつかない「ズレ」があるから、こまるんだよ。ちなみに、親父の「ズレ」もおなじなのである。だから、こまるんだよ。こまるんだよ。
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けど、実際に一緒に住んでいて、そのずれがわからない人にとっては、なんでもないことなんだよ。人間といっしょに住んでいれば、「俺だって……」「わたしだって……」「自分だって……」と言いたくなることがあるということは、わかる。けど、ちがう。正常な家族といっしょに住んでいる人が経験する困難と、異常な家族といっしょに住んでいる人が経験する困難は、困難の質がちがう。そして、この世では、困難の量も、おそろしく、ちがってくる。ようするに、正常な家族としいっょに住んでいる人が経験する(家族からもたらされる)困難の量と、異常な家族といっしょに住んている人が経験する(家族からもたらされる)困難の量がちがう。異常な家族といっしょに住んている人が経験する困難の量のほうが、おびただしいほど大きい。そして、正常な家族といっしょに住んでいる人は、異常な家族といっしょに住んでいる人の「困難」の質がわからない。量もわかってないんだけど、「質」がわかってない。だから、「おなじだ」と思ってしまう。おなじ質の困難を、おなじ量だけ、経験していると思ってしまう。異常な家族といっしょに住んでいる人の話を聴いたとき、無意識的に「おなじだ」と前提してしまう。だけど、もたらされていることがちがうのだ。