きちがいヘビメタ騒音で、人から誤解されることが多すぎた。いいかげん、多すぎる。限界がある。しかも、期間が長すぎると、最初は、理解してくれていた友達まで、くそを言ってくるようになる。この場合も、自分なら平気だという前提に立ってものを言う場合が多かった。あとは、ぼくが、きちがい兄貴やきちがい親父にのろわれているような感じにうつって、そういうふうにのろわれている人間とつきあっていいのかなと疑問に思って、ぼくをさけるというような感じで、人が離れていったことがあった。けど、これだって、きちがい兄貴やきちがい親父が、自動的に、きちがい行為をするから、そうなるのであって……(ぼくがのろわれているように思われるわけで)……ぼくのせいじゃない。そして、自己責任論だ。本来の自己責任論は、自分を対象にした自己責任論だ。他人を対象にした自己責任論だと、他己責任論になってしまう。ところが、「自己責任、自己責任」と言っているやつらは、他人を批判するために、自己責任論を持ち出してくるという特徴がある。こいつらは、他人の自己責任しか追及しない。こいつらが、自分の自己責任を追及する場合は、自己責任なんて特に思ってなくても、自分のほうに落ち度があったのではないかと思えるようなことについて、自己責任を追及するだけだ。主に、他人の自己責任を追及している。けど、本来の自己責任論なのであれば、他人が不幸になったのも、自分の責任だということになる。まったく関係がない他人が、不幸になったのも、自分の責任だということになる。そういうことにしかならないのである。他人が不幸になったのは、その他人の責任だというタイプの自己責任論は、他己責任論なのである。こいつらは、思考力が低いから、簡単にだまされる。基本的には、「自己責任論」というのは、すみにくい社会をつくるためのものだ。基本的には、自己責任論というのは、比較優位のやつが、比較劣位のやつを、うちのめすための理論だ。なので、普通に社会に生きていて、自己責任論にふれれば、最初のうちは自分を対象にした自己責任論を展開するのだけど、やがて、普通に、他己の責任を問う自己責任論になるようになっている。これは、自己責任論をふりまわすやつが、基本的に、幼稚で、うぬぼれ屋だからそうなる。設計者は、自己責任論をはやらせれば、幼稚なやつらが、自己責任論を信じて、トラブルが多くなるようになることを知っていて、自己責任論をはやらせたのだ。トラブルが多くなる……。これが、わからないのか? わからないんだろうな。もうちょっと、深く考えたほうがいいよ。自己責任をふりまわすやつは、みんな、他人の自己責任を追及している。つまり、他人の責任を追及している。
自己責任論と言霊理論、思霊理論、引き寄せ理論は、とてつもなく相性がいい理論なんだよ。ようするに、言霊理論にこっているやつは、なにか不幸なことが起こった人を見れば、その人が……その不幸な人が、悪い言葉を使ったから不幸になったのだと考えてしまう。思霊理論にこっているやつは、 なにか不幸なことが起こった人を見れば、その人が……その不幸な人が、不幸なことを考えたから不幸になったのだと考えてしまう。引き寄せ理論にこっているやつは、なにか不幸なことが起こった人を見れば、その人が……その不幸な人が、悪いことを引き寄せたからダメなんだと思ってしまう。悪いことを引き寄せた人の自己責任だということになる。不幸なことを考えた人の自己責任だということになる。悪い言葉を使った人の自己責任だということになる。どんなことが、どんな理由でおこっても、実際に、不幸な目にあった人が悪いということになってしまう。こういうところ誘導するように……こういうところに人を誘導するように、自己責任論を考え出し、自己責任論っぽいことを言うやつをつくり、自己責任論者を(大量に)つくりだしたのだ。設計者がそうした。設計者は、社会をより悪くするために、人間をより悪くすために、自己責任論をこの社会において、はやらせたのだ。それこそ、思考力がない、くそ凡人などは、いちころだ。自己責任論は正しいと思ってしまう。そして、自己責任論という『武器』で、他人の責任を追及しだす。その他人の責任というのが、ほんとうに他人の責任なのかと言うことを考えないまま、他人の責任を追及するようになる。「なんだって感だって自己責任だ」ということになっているので……そいつの頭のなかでは、「なんだって感だって自己責任だ」ということになっているので、なにか不幸なことが起こった人がいるなら、現実的な理由に関係なく、その人の責任だということになってしまうのである。ようするに、自己責任論者が、ほんとうは、その人には責任のないことまで、その人の責任にしてせめるような場面が続出する。こういうやつらを増やすために設計者が、自己責任論を考え出して、はやらせた。