わかいころのことを思い出すと、どのシーンもヘビメタ騒音でつらいシーンだ。これ、影響、ある。ヘビメタが鳴ってない時間もあるのだけど、ヘビメタが鳴ってない時間も、ヘビメタにうばわれているようなものだ。
そりゃ、そうだろ。
なんで、数千日も鳴っているのに、影響をうけないんだよ。
たとえば、平日、午後四時から午後一一時一〇分まで鳴ってたとする。午後四時から、午後五時までの一時間だって、地獄なんだよ。
あの悶絶がわかるか。
全部、時間をとられてしまっているんだぞ。
午後四時から午後五時までの一時間どころか、午後四時から午後四時一〇分までの一〇分間だって、鳴っているのが決まっているのだから、くるしい。途中で、やめてくれない。どれだけ言っても、やめないし、ヘッドホンをつけない。そのまま、きちがい的な意地で鳴らす。
そうなると、俺が俺の部屋でずっとくるしむことが決定してしまうことになる。
たとえば、宿題ができないとか勉強ができないとかと言ってきたけど、その時間は、ただ単に宿題ができない時間とか勉強ができない時間であるわけではない。くるしい。きちがい騒音でからだが揺さぶられてくるしい。
脳みそがなぐられ続けて、くるしい。
くるしい。
とにもかくにも、くるしい時間だ。宿
題ができないだけではなくて、くるしい時間なんだよ。マイナスの時間なんだよ。
どれだけポジティブに考えても、ネガティブな時間なんだよ。
このときの、副交感神経、交感神経の状態が尋常じゃない。その副交感神経、交感神経の異常な状態が、続く。一時間鳴っているのであれば、一時間、副交感神経、交感神経の異常な状態が、続く。
耳栓をしたり、耳を手でふさいだぐらいじゃ、「ほとんど、かわりがない」状態で鳴っているのである。耳栓をしたり、耳を手でふさいでも、「ものすごい音で鳴っている」状態がかわらない。きちがい騒音の影響をうけている状態がかわらない。脳みそを、がんがんたたかれている状態がかわらない。勉強ができない状態がかわらない。宿題ができない状態がかわらない。副交感神経、交感神経の異常な状態が、続く。
七時間やられれば、七時間やられたので、影響が残る。
七時間目に、鳴りやんだとしよう。眠れるかというと眠れない。そして、七時間目に鳴りやんだから、宿題ができるかと言うとできないのである。七時間目にはボロボロの状態になっている。そして、副交感神経、交感神経……自律神経のことなんだけど、自律神経を自由に、自分の意志で制御できるかというと制御できない。
きちがい兄貴の態度が問題だ。そして、ほんとうに、絶え間のない音の連続で、神経がつかれるのである。どうしたって、無視できない音が鳴っているのだから、どうしたって影響をうける。実際に鳴っているので、空気の振動も固体振動もある。
空気の振動も固体振動も事実なので、身体が床などのものにふれていれば、意識していなくても、固体振動の影響をうける。長い間、とてつもなく不愉快な、神経を興奮させるような振動が続けば、どうしたって、影響をうける。
固体振動だけではなくて、耳のまわりも頭のまわりも、空気が、きちがいの、くそうるさい騒音にあわせて振動しているのだから、振動につつまれているようなものなのである。
実際に、空気に包まれているか、実際に空気に包まれていないかは、物理的な環境のちがいだ。その物理的な環境のちがいを無視して、振動の空気につつまれていない人間が、振動の空気に包まれている人間に「ヘビメタ騒音なんて、関係ない」と言うのだ。「鳴ってたって関係がない」と言うのだ。
自分は、鳴っていても、影響をうけないという前提でものを言う。
ものすごく、むかつく。
実際に経験してない人間が、実際に経験してないから、わからないことについて、絶対の自信をもってものを言っているのだ。そして、この文脈では「影響をうけないほう」が絶対的にすぐれているのである。
相対的にすぐれているわけだけど、そいつのなかでは、絶対にすぐれているということになっている。
だから、実際にはきちがい家族やられてない人間が、実際にきちがい家族にやられている人間に対して、「自分だったら影響をうけない」という前提で「自分だったらできる」ということを言うのだ。
さらに、言霊主義者だったら「できると言えばできる」と言う。
これも、そういう発言をした言霊主義者は、別にきちがい的な感覚を持つ家族といっしょに住んでいるわけではなく、きちがい的な感覚をもっている家族が、きちがい的な意地でずっとずっとずっと鳴らす騒音にさらされているわけではないのだ。
「影響をうけないことは可能だ」というのは経験がないから、言っているだけのことだ。
経験がないから、想像できず、もとから「うぬぼれ屋」なので、「自分ならできる」と思ってしまうのである。
だから、きちがいにやられて、バカにバカにされるということになる。きちがいにやられて、能力的には俺よりおとる凡人に、「自分だったらできる」という前提で、ものを言われることになる。