きちがい兄貴の騒音にやられている生活をしていると……常に毎日、きちがいヘビメタ騒音が何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴っていると、どうしても、どうしても、睡眠障害になるのである。自律神経がおかしくなるのである。
これは、意志ではどうにもできることではないのである。そして、意志が発揮できる部分で、限界まで頑張るということになる。ところが、ほかの人たちからは、「さぼっているように見える」のである。ほんとうに、こういう世界だった。この世はこういう世界だった。さぼったいると思っている他者……赤の他人……きちがいヘビメタを鳴らしているわけではない他人は……「自分の意志でどうにでもできる」という前提でものを言ってくる。
これ、努力論とか、成功法則とか行動主義心理学とか認知行動療法とかは、くそでしかない。こいつらは、きちがい家族といっしょに暮らしたことがない。
きちがい家族がどういう感覚で、鳴らすかわかってない。そして、きちがい家族が、ゆずらずに鳴らしきったあと、どういう自覚(自分が鳴らしていた音に関する自分の認識)をもっているか、まったくわかってない。
きちがい兄貴が普通の人であるという前提でものを言ってくる。その場合、前投稿とおなじように、能力不足なのはエイリだということになってしまうのである。
「自分なら意志の力でどうにかすることができるけど、エイリは自分の意志でどうすることもできない(劣った)やつだ」ということになってしまう。
あるいは、「意志の力でどうにかすることができるのに、エイリはできないと言って、努力しない人間だ」ということになってしまう。
こういう前提が、そいつの頭のなかに成り立ってしまうである。
けど、こいつらは、無意識的なレベルで、感覚器を書き換えるタイプの家族といっしょに暮らしたことがないのである。無意識的なレベルで、感覚器を書き換えるタイプの家族に、一秒もやらたれことがないのだ。
人生のなかで、一秒もやられたことがないのだ。
こいつらの家族はまともな家族だから、そもそも、きちがい兄貴のような行動をしないのである。だから、こいつらの場合は、きちがい兄貴がもたらすような問題が(家のなかで)生じないのである。これは、こいつらと、ぼくの意志力の差ではない。
ところが、自動的に「自分のほうがエイリよりすぐれている」と言うことになってしまうのである。自分なら、そういう状態でも、意志の力で、遅刻しないことができる。けど、エイリは自分のより意志の力が弱いのでできない」と思ってしまう。「自分なら、そういう状態でも、意志の力で、勉強することができる。けど、エイリは自分のより意志の力が弱いのでできない」と思ってしまう。
けど、こいつらは、きちがい家族といっしょに住んだことが、一秒もない。きちがい家族の行動でこまったことになったということが一回もない。きちがい家族が「やめてくれ」と言われたとき、どういう感覚で、どういう行動をするのか、まったくわかってない。そして、きちがい家族が行動をしたあと、きちがい家族のなかで自分(きちがい家族)が行動をしたことになってないということが、まったくわかってない。