たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが上司で、BさんがAさんの部下だ。神様視点で、超過範囲要求と適切範囲要求がわかるとする。
しかし、ほんとうは、神様視点なんてない。けど、今回は、ぼくが言いたいことを説明するために、神様視点の基準があるとする。
神様視点で、超過範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件(作業内容)があるとする。Aさんは、Bさんに、適切な範囲の要求をしているとしか思えないのである。Bさんは、Aさんの要求が、不適切な要求だと思うのである。
よく考えると、神様視点の基準がわかるわけではないのだ。ところが、アドラー的な考え方をもつ人は、よく考えれば、神様視点の基準がわかるという前提でものを言っているのだ。
そして、Aさんのような立場の人は、「自分でよく考えて、相手が言っていることが理不尽なことなら、無視をしていい」と考えるのである。
たとえば、AさんがBさんにおしつけた内容を、Bさんがやらなかったとする。Bさんにとっては、不適切な要求なので、自分が適切だと思う範囲の作業をしたけど、それ以上は、しなかったとする。
その場合、Aさんは、Bさんが当然、自分がおしつけた内容をやるものだと思っているので、Bさんがやらなかった場合は、「たりない」「ちゃんとやれ」ということを言うのである。
このとき、たいていの場合は、Aさんのなかに、怒りの感情がしょうじるのである。まあ、落胆とか絶望とかあきらめという感情が生じる場合もあるけど、『思い通りにいかなかった』ので、たいていの場合は不愉快な感情が生まれるのである。「怒り」の感情がしょうじる場合が、もっとも、多いだろう。
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ところで、Aさんが自己責任論者だとしても、現実的な場面では、「すべては自己責任」と考えない場合のほうが多い。
自分が要求した範囲をBさんがやらなかった。そして、やろうとしない。そういうことに関して、Aさんが、「自分の責任だ」と考えるかどうかということが問題になる。
Aさんが、自己責任論者である場合は、当然、このような場合でも、「自分の責任だ」と考えるべきなのである。ところが、普段は、「すべては自己責任だと思っているよ」と言っていても、実際の場面になると、こういう小さなことでも、自己責任とは思わず、怒りの感情がわいてくるのである。
自己責任論は、本来は、アンガーコントロール論なので、こういうところで、怒りを感じないようにするための方便なのだ。けど、実際に、運用されるべきところでは、運用されず、あるていど余裕がある空想的な場面で、「すべては自己責任だ」とひとりで納得しているようなところがある。
ようするに、実際に問題が発生していないところで、「すべては自己責任だ」と納得している場合が多い。自分の部屋にいて、自己責任関係の本を読み、お茶やコーヒーをすすっているときは、「すべては自己責任だ」「俺はそう思って生きていこう」などと思うのだけど、実際に、相手が自分の思った通りに動かなかった場合は、怒りの感情がわいてしまうのである。
そして、たとえば、「思ったことかが現実化する」という考え方を信じている場合でも、「思ったことが生じるはずなので、思ったことが生じるはずだ」と思わないのである。
……Bさんが実際にやってこなかった。……Bさんが実際にやらなかった。……そして、Bさんが、これは不適切な超過範囲要求だと自分に言ってくる……とする。ほんとうのことを言えば、このこと自体が、自分にとって、自分の思った通りのことではないのである。
つまり、Bさんがやってこなかった、あるいは、Bさんがやらなかった時点で、「思ったことが現実する」という考え方は、不適切な考え方であり、頭のなかから削除しなければならない考え方だということが、わかるのである。
わかるのだけど、「明日は雨になる」と言ったあと、実際には、雨にならなかった場合の、言霊主義者の態度とおなじで、その理論にあわない実際の出来事を、無視してしまうということがしょうじる。
無視してしまうと言っても、「お言ったことが生じるはずだ」という視点で考えたことを無視するのである。Bさんがやってこなかったということは、無視していない。
だから、現実認知は正しいのだけど、「思ったことが現実化する」という理論はまちがっているということが、現実の出来事に対応して思い浮かばないことになっているのである。
ともかく、Aさんは、Bさんがやらなかったことについて、不満に思うのである。どうしてかというと、自分のなかでは、それは、適切範囲要求なので、やらなかったBさんが悪いということになるからだ。
「自分でよく考えれば」……神様視点で考えることができて、自分の要求が不適切範囲要求(超過範囲要求)だったということに、気がつくことができるかというと、たいていの場合は、できない。自分の基準が正しいと思っているわけだから、「このくらいちゃんとやらないBさんがまちがっている」ということになる。Aさんのなかでは、そういうことになるのである。
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「思えば、思ったことが現実化する」というのは「思えば、一〇〇%の思ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」ということと意味的に等価なのである。
なので、自分が要求した仕事内容を、相手がやってこなかった時点で、「思えば、思ったことが現実化する」という命題が「偽」であるということに気がつかなければならないのである。
ところが、思霊主義者は、相手が自分の要求した仕事内容をやってこなかった場合でも、思霊理論が正しいと思っているのである。
つまり、 「思えば、思ったことが現実化する」という命題が「真」であると思っているのである。思ったままなのである。
これは、おかしなことなんだよ。
自分が相手に要求した時点では、相手は自分が要求した仕事内容をやってくると思っているわけだから……。
思えば、思ったことが現実化するのだから、相手は自分が要求した仕事内容をやってくるはずなのである。相手の能力とか相手の都合とか、相手の考え方とかそういうこととは関係なく、自分が思ったことが現実化するという理論だから、自分が思ったことであれば、相手にかかわることであっても……自分がそう思ったのだから、相手は自分が思った通りに動いて、相手場自分が思った通りのことをやってくるべきなのである。
「思ったことが現実化する」のだから、そうなる。
ところが、思霊主義者は、考えを改めなければならない場面に遭遇した時も、思霊理論が正しいと思ったまま、相手を叱責するというような行動をするのである。いやーー。気がつかなきゃダメでしょ。
すでに、自分が思った通りのことが発生していないのだから、思霊理論が正しくないということに、気がつなければならない。
ところが、「明日は雨になる」と(自分が)言ったのに、雨にならなかった場合の言霊主義者のように、現実のほうを無視してしまうのである。
頭のなかでは、現実に関係なく「言霊理論は正しい」と思ったままなのである。「明日は雨になる」と(自分が)言ったのに、雨にならなかった。これは、言霊理論がまちがっているということなのである。だから、雨にならなかった時点で、そのことに気がつかなければならないのである。
思霊主義者も、実際に発生する、いろいろな現象を無視してしまうのである。理論にあわない現実が発生したのに、現実を認めない。
ところが、じゃあ、まったく現実を無視しているのかというとちがうのである。ちゃんと、思った通りにならなかったということを、認識している。
たとえば、相手が自分の思った通りに動かなかったのなら、相手が自分の思った通りに動かたなかったということを認識して、腹をたてるのである。実際に、無視されているのは、思霊理論の正当性なのだ。現実的な場面では、「思ったことが現実化する」というような考え方自体が、思い浮かばないのである。
現実のプロセスのなかでは、自分の思考リソースが、目の前のことに振り向けられているので、「思霊理論が正しいかどうか」ということに、リソースをさくことが、できないのである。
だから、現実の場面では、思霊理論とは違うことが起こったとしても、それはそれとして処理してしまうのである。
だから、いつまでもいつまでも、思霊理論が正しいと思ったままなのである。
手短にいうと、こういうところで思霊主義者は「むしがいい」のであり、「つごうがいい」のである。思っても、思ったことが現実化しない場合もある……ということを、日常生活の中で、何度も何度も、突き付けられているのに、そのことは、無視して、「思えば思ったことが現実化する」と断言してしまう。
「思ったって、思ったことが現実化しない場合がある」のであれば、当然、「思ったことが現実化する」とは言えないのである。「思ったことが現実化する場合もあるし、思ったことが現実化しない場合もある」ということは、言える。
「思えば、思ったことが現実化するのだから、思えばいい」と言っているときは、思っただけで、思ったことが現実化するのだから、思えばいいということを言っているのである。
「明るいことを思えば、明るいことが現実化する」と言っている場合は、明るいことを思ったのに、暗いことが現実化することはないということを言っているのであり、明るいことをうもったのに、明るいことが現実化しないことはないということを言っているのである。
しかし、実際には「明るいことを思ったって、暗いことが現実化する」場合がある。
そして、「明るいことを思ったって、明るいことが現実化しない」場合がある。「明るいことを思えば、明るいことが現実化する」と言っているときに、明るいことが起こらない場合があるということを考えているかというと、そうではないのである。
明るいことを思ったのだから、明るいことが現実化するに決まっているのである。……思霊主義者の頭のなかでは、出来事に関係なく、「明るいことを思ったのだから、明るいことが現実化する」ということになっているのである。
ところが、ぜんぜん、決まっていないのである。ようするに、最初から、でたらめを言っている。ところが、思霊主義者は、「自分がでたらめを言っている」とは思っていないのである。「真実を言っている」と思っているのである。
もし、思霊主義者に、子どもっぽいずるい部分がなければ、思い通りにいかなかった現実にふれるたびに、「思霊理論はまちがっている」ということに気がつくはずなのだ。ずるい部分があるから、気がつかない。
もしかりに、悪い意図をもつ悪い支配者がいたとする。その場合、悪い意図をもつ悪い支配者は、悪い計画を実行してしまう。その場合、「思ったことが現実化する」と考える人たちが、悪い計画を阻止できるかどうかというと、阻止できない。
「明るいこと」を思えば、明るいことが現実化すると考えているので、ぼけっと、明るいことを空想しているだけだと行こうとになる。
その間に、悪い支配者とその部下は、悪い計画をガンガン先にすすめてしまう。思霊主義者は「悪いことを考えると悪いことが現実化する」と考えているので、支配者層が悪いことを計画して実行しているという悪いことを、思うことができなくなるのである。
なぜなら「そういうふうに思ったら、実際にそうなってしまうから、そう思わないようにしよう」と考えるからだ。
だから、悪い意図をもった支配者がいる場合は、思霊主義者は無力な存在になってしまうのである。無力な存在になるだけなら、ましなのだけど、真実について述べる人の足を引っ張ることになる。
どうしてかというと、真実を述べる人は、暗い現実について、真実を述べるからだ。悪い支配者が悪いことを実行している……ということが、暗い現実なのだから、暗い現実について述べているわけだ。ところが、思霊主義者は「暗いことを言うと、暗いことが現実化するので、暗いことを言うな」と暗い現実について述べている人に、言うわけだ。
暗いことを思わなければ、暗いことが起こらないのであればいいけど、すでに、暗いことが起こっているのだ。もうすでに、暗いことが起こっているのに、それは無視をして、ただ単に明るいことを思えばいいのだと言ってしまう。現実を無視するなと言いたい。
まあ、これは、悪い支配者と部下が、悪い計画を実行している場合の話だ。架空の話だからね……。悪い計画には、何段階かあるとする。一段階目、二段階目、三段階目と進んでいるのに、「悪いことを考えると悪いことが起こるから、考えないようにしよう」と言っているやつらは、悪い計画に協力しているとさえ、言える。
悪い支配者側から見て、思霊主義者が、どれだけ扱いやすいやつらかということが、わかるだろう。こんなに、扱いやすいやつらはいない」と思うだろう。思霊主義者を含めた一般市民側が、こんな体たらくなら、悪い支配者は「しめしめ」と思うだろう。
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「思えば、思ったことが現実化する場合もある」と言えばいいのに、「思えば、思ったことが現実化する」と言ってしまうので、それ自体が、一種の「信仰」になってしまうのである。ほんとうは、理論的な文字列が、信仰の対象になってしまうのである。
実際には、理論にはあわないので、現実を無視したり、現実を信仰通りの解釈に結びつけたりするのである。「文字列の内容は常に正しい」ということになっているのだけど、それは、文字列の内容にあわない現実を無視するということによって成り立っている「信仰」なのである。