ニコニコ教の人も、一〇〇%詐欺と法則性詐欺をやっている。けど、悪気はないのである。真実だと思ってしまっているのである。幼児的万能感があまりにも強いために、どうしても、思考が、一〇〇%詐欺の方向や法則性詐欺の方向に「ひっぱられて」しまうのである。
ほんとうは、法則性なんてないのに、法則性があると思ってしまうのである。ほんとうは、一〇〇%成り立つわけじゃないのに、本人にとって、一回でもそのことが成り立ったと思えれば、これは、一〇〇%成り立つことなのだと確信してしまうのである。
だから、別に悪意はないのだけど、人をだましている。そして、自分自身をだましているので、「まちがいがある」ということに、いつまでたっても気がつかない。
たとえば、ニコニコしていたら、いいことがあったとする。ニコニコしていたら……友人が「まるまるちゃんは、いつもニコニコしていて、気持ちがいいね」と(自分に)言ったとする。ようするに、褒められたので、いいことがあったと認識したわけだ。これは、「明日、雨になる」と(自分が)言ったら、実際に雨になったので、言霊の法則は完璧だと思ったということに、似ている。
ほんとうは、自分が言ったから、雨になったのではないのだ。これは、一〇〇%ちがう。勘違いだ。
一回でも、自分が「雨になる」と言って、雨になったら、すべてのことについて言霊の法則が成り立っていると勘違いしてしまうのだ。
自分が「雨になる」と言ったあと、ほかの理由で、雨になったのだ。「言ったあと」と「言ったから」の区別ができていないのだ。こういうまちがいが、基盤にある、思考方法なのだ。
ニコニコしていた場合は、まず、親の性格やほかのことで、ニコニコできるような環境があったのである。自分の場合、ニコニコしていたら、一回だけ、いいことがあったということなのだ。
ところが、「ニコニコしているといいことが起こる」と法則化して考えてしまう。けど、ニコニコしていたって、次の瞬間、悪いことが起こることだってあるのである。そして、「自然なニコニコ」と「意識的なニコニコ」にちがいがないと考えているのだけど、ちがいはある。
「無理やり笑顔を作れば、笑顔を作ったのだから、いいことがある」とニコニコ教の人は考えてしまうけど、無理やり笑顔を作らなければならないという意識が、人間の感情にあたえる影響はでかい。
そして、ぼくの経験の範囲で言うしかないのだけど、作り笑顔と、ほんとうの笑顔のちがいがわからない人もいるけど、作り笑顔と、ほんとうの笑顔のちがいがわかる人のほうが、多い。
もう、すでに、記述したことなのだけど、ニコニコするというのは、じつは、本人が決めていることではなくて、本人のことを見ている人が、ニコニコしているかどうかということを決めている。
たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、作り笑顔をうかべて、ニコニコしているつもりになっていたとする。けど、BさんがAさんを見たとき、Aさんが不自然な笑顔を作っているので、気持ち悪く感じて、Aさんに「なに、ニタニタしているんだ」と言ったとする。Aさんは、ニコニコしているつもりだったけど、Bさんは、Aさんがニコニコしているのではなくて、ニタニタしていると認識したのだ。
こういうことだって、ほんとうにある。
そして、いいことがあると思って、作り笑顔を浮かべて歩いていたら、「なに、わらってんだ?」「おまえ、俺を見てわらったな」「なにがおかしいんだ」と言われることだってあるのである。
だれかの笑顔に対して、どういうふうに思うのかとというのも、わりと自由度が高いことなのである。かならず、ほめてくれるとは限らないのである。
ところが、ニコニコ教の人は、たとえ作り笑顔でも、ニコニコしていれば、相手は、かならず、ほめてくれると思っているのである。そういう、無邪気な前提があるのである。
現実世界では、本人がニコニコしているつもりでも、相手(他人)が、文句をつけてくることは、ある。
あるのだけど、本人が本人に一〇〇%詐欺を行っているので、ニコニコしていれば一〇〇%の確率で、いいことが起こると思ってしまっている。ニコニコしていたのに、悪く言われるなんてことは、ニコニコ教の人のなかにはないのである。
けど、実際には、ある。
あることなんだよ。
ニコニコ教の人は無視しているけど……。
本人が本人に、一〇〇%詐欺を行っているので、本人は理論的な誤謬に気がつけないのだ。これは、ニコニコ教の人だけではなくて、言霊信者や思霊信者にも成り立っていることだ。そもそも、誤解なのである。
そもそも、理論的にまちがっているのである。
けど、どれだけのニコニコ教徒が、ぼくの説明を受け入れるだろうか。多分だけど、多くのニコニコ教徒が「ニコニコしていれば、いいことがある」と反論してくるのではないかと思う。