アドラーは、「よく考えれば、だれでも正しい結論に至ることができる」と仮定しているのだ。しかし、自分がそう仮定しているということに、気がついていない。
ようするに、「よく考えれば、だれでも正しい結論に至ることができる」と仮定として、判断をしている。
あることが、神様視点で、超過要求だったとする。
しかし、Aさんは、適切要求だと思ったとする。そして、Bさんは超過要求だったとする。その場合、Aさんが、Bさんの言い分をよく考えて判断すれば、Bさんの言い分が正しいことがわかるという、設定なのだ。ばからしい。
「よく考えて判断すればよい」というのが、どれだけ、アホな設定かわからないのか?
そいつの判断基準がすでにそいつのなかにあるのだから、そいつは、「よく考えなおしても」そいつの判断基準で判断してしまう。
なんらかの外的な要因が、かわって、それをAが認識すれば、Aが考え方をかえる場合はある。しかし、それは、判断に影響をあたえるなんらかの要因が、変化し、その変化をAが感じたから、おこる変化なのだ。
Aが、神様視点で考えられるようになるということではない。
「よく考えれば」……相手が言っていることが正しいかどうかわかるので、自分で判断して、相手の言い分を無視すればいいというのが、アドラーの考え方なのだ。
「ちょっと考えると、まちがうこともあるけど、よく考えれば、まちがうことがない」という、暗黙の設定が紛れ込んでいるのだ。
よく考えれば、神様視点の正しい判断基準でものを考えることができる……というわけではない。ところが、あたかも、「よく考えれば、神様視点の正しい判断基準でものを考えることができる」という前提が成り立っている。
神様視点の正しい判断基準という言葉を使うわけではないけどね。なんかもやもやと思っている正しい判断といのは、神様視点の正しい判断基準という意味合いを持っている。
「自分の頭でよく考えれば」……相手の言い分は無視していいのである。「自分の頭でよく考えれば」……相手の感情は無視していいのである。そうすると、「考えた」と思えば、自動的に、相手の言い分や相手の感情を無視していいということになる。だって、考えたのだから、無視していいのだ。よく考えたのだから、無視していいのだ。相手の不満は、相手の問題なのだ。
どれだけ無茶なことを要求しても、相手の問題だと片づけることができるのだ。相手の問題と自分の問題を切り離して考える……。けど、自分の行為がさきにある場合は、相手の問題だと言いきれない場合がある。ところが、「よく考えて」無視して、「相手の問題だ」と思えば、それで、どんな無茶なことを要求しても、「相手の問題になってしまう」のである。
そして、自己責任論が、この判断の後押しをする。たとえ、不満を持っていたとしても、やってしまった、相手の責任なのだ。自分が、無茶なことをおしつけた責任というのは、自己責任論者なのに、まったく頭に浮かばないのである。