勉強をしたいのに、一日に一分も勉強することができない状態というのを、経験したことがない人には、わからない。どれだけ、不安になるかわからない。どれだけ、腹がたつかわからない。どれだけ、腹がたって、どれだけ、不安になるかわからない。きちがいの音のなかで、どれだけ頭が、ぐちゃぐちゃになるかわからない。どれだけ、切羽詰まった気持ちになるかわかない。きちがい兄貴の部屋に行って、きちがい兄貴を刺して殺すとか、きちがい兄貴の部屋に行って、自分の腹を包丁でツキまくるとか、そういうことをしないと、きちがい兄貴は、絶対にやめない。こっちの部屋に帰ってきたとき、ずっと、きちがいの音が、すごい音圧で鳴っているわけだから、こまるんだよ。ちなみに、きちがい兄貴はきちがいだから、俺が、きちがい兄貴の部屋に行って「うるさい静かにしろ」と言って、自分の腹をつきまくっても、そのまま、エレキギターを弾いている感じがする。そのくらいに、わかってないやつなんだよ。俺にとって、入学試験は重要こなことだ。けど、一分だってやめてやるつもりがないし、こっちがどれだけこまるか、まったくわかってないのである。自分の部屋に弟がはいってきて、弟が、包丁で、弟の腹をつきまくって血まみれになっても、なんか、そのままエレキギターを弾いて、でかい音でヘビメタを聴いているような感じがする。もちろん、実際に、腹を包丁でつ決まることをしたわけじゃないけど、そのくらいに感覚がおかしいのだ。ぜーーんぜん、わかってない。きちがいなんだよ。
いまの設定だと「うるさい」と言って、弟が自分の前で、弟の腹を包丁で差閉まるわけだから、自分と関係がありそうなことが、普通の人だったらわかるのだけど、まったくわからないのではないかなと思う。もちろん、これは、想像しただけだけど、ほんとうにそのくらい、話が通じないのだ。そんなでかい音で鳴ってたらこまるだろ」というのが、一切合切わからない。こっちがどれだけ切羽詰まった気持ちになるか、まったくまったくわからない。きちがい兄貴が張本人で、きちがい兄貴がやりたいからやっていることなのに、自分が関係がない人のつもりなんだよ。それが、きちがい親父のように、こわれない。このきちがい兄貴の態度は、きちがい親父の態度とおなじなんだよ。きちがい兄貴だって、ハンダゴテで、きちがい親父にやられたときは、きちがい親父の態度が……こういう態度に腹をたてていたのに……自分が弟にきちがいおやじとおなじことをしているということが、わからないのだ。きちがい兄貴の脳みそと、きちがい親父の脳みそが、この点において、まったくおなじなのである。いいようがない。このことについて、ほかの人は……うちきちがい親父やうちのきちがい兄貴と一緒に暮らしたことがないので、まったくわからないのである。そして、うちのきちがい親父のような人……感覚の持ち主や、うちのきちがい兄貴のような人……感覚の持ち主と、暮らしたことがないのでわからないのである。わからなければ、「そんなのはへんだ」で、すんでしまう。だから、こういうことについて、つねにギャップがある。普通の人はやられたことがないので……まったく、どういうテンションでこういうことが行われるか、わかってないのである。どういう意地でこういうことを、(きちがい兄貴きちがい親父がやるか)まったくわかってないのである。高圧状態なんだよ。爆発的な状態なんだよ。こっちが意地を闘争としたら、きちがい兄貴やきちがい親父をその場でころ寿司しかないんだよ。そういう意地なんだよ。そういう、意地なんだよ。まるでわかってないんだよな。常に、覆そうとしたら、殺さなければならないようなことを、殺さなければならないような態度でやっているんだよ。発狂して、相手を殺すか、自分が死ぬしかないというところまで、おいつめる。でかい音で鳴らしたい……。竹を植えたい……。魚の切り身をのせた皿を片づけたくない……。そういうことで、こういうテンションになってしまうんだよ。どうしてかというと、きちがい親父の意地のはり方や、きちがい兄貴の意地のはり方が、異常だからだ。これが、みんな、わかってない。「受け止め方をかえればいい」なんて言っている人は、まったくわかってない。「受け止め方をかえればいい」なんて言う人は、「受け止め方をかえればいい」という考え方を批判されただけで、おこるような人だ。俺にあわせて、受け止め方をかえればいいとは、思っていないのである。目の前にいる俺の考え方にあわせて、自分の受け止め方をかえればいいとは、思わない人たちなのである。けど、自分のことではなければ、「切迫感がある問題じゃないから」……思いつきで「受け止め方をかえればいい」とアドバイスをしてしまう。こんなの、屈辱。こういうくそ凡人の、宗教的な考え方と、実際のきちがい兄貴やきちがい親父の態度のギャップがある。くそ凡人には、うちのきちがい兄貴やきちがい親父のような人と、一緒に家族として暮らした経験がないのである。他人事なのである。話を聴いて想像することが、これまた、ちがうのである。普通の人が思い浮かべる頑固な姿と、きちがい兄貴の頑固な姿はちがうのである。普通の人が思い浮かべる頑固な姿と、きちがい親父の頑固な姿はちがうのである。