2025年5月31日土曜日

自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論はまったくちがうのである

「努力をすれば成功する」ということを、「努力をすればその作業をやり終えることに成功する」と言い換えれば、「努力をすれば、その作業をやり終えることに成功する」ということになる。

手短に言うと、むりな仕事でも、努力をすれば、やり終えることができるということになってしまうのである。

だから、努力をすれば成功するというのは、「無限要求定型文だ」と言うことができる。努力をすれば成功すると言っている人は、どれだけ努力をしても、できないことがあるということを認めていないのだ。

しかし、「努力をすれば成功する」と言っている人だって、できないことがある。

いっぱい、ある。

ところが、自分だって、努力をしてもできないことがあるということは、普段、意識に上ってこない。意識にのらない。

だから、よく考えないで、「努力をすれば成功する」「自分は、努力をして成功することができた」と考えているのである。

しかし、何度も言わなければならないけど、努力をしたって、できないことはある。「努力をすれば成功する」と言っている人は、認めたくないのだろうけど、「努力をすれば成功する」と言っている人だって、どんなに努力をしても、できないことが、いっぱいある。

ところで、自己責任論に、自分を対象とした自己責任論と他人を対象とした自己責任論があるということを述べたけど、努力論にも、自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論がある。

これも、最初は、自分を対象とした努力論が頭の中に入ってくるのだけど、そのうちに、他人を対象として「努力をすれば成功する」と言いたくなってくるのである。

これは、もう、自動的に言いたくなると言ってもいいのではないかと思う。

しかし、自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論はまったくちがうのである。他人を対象にした努力論は、これまで見てきたように、理論的にまちがっている。そして、理論的にまちがっているということに、他人を対象とした努力論者は、気がつくことがない。

だから、悪い条件によって『できない他人』と軋轢が生まれるのである。

ようするに、他人を対象とした努力論者の視点から見れば、『できない人』は、努力をしない人なのである。努力をしない人でも、努力をすればできるようになるのだから、できるようにすればいいということになる。努力をすればできるようになるのに、さぼっているのだから、さぼっている悪いやつだということになってしまうのである。

努力をしてもできない人は、努力をしてもできないので、「努力をすれば成功する」「努力をすればできるようになる」と言われても、できないままなのである。

だから、他人を対象とした努力論者が、できない人に対して、負のストロークをあたえるということが、常態化する。ようするに、何回もずっとずっと、繰り返されることになる。

じゃあ、ずっとずっと、このようことが繰り返されることがいいことなのか、悪いことなのかというと、悪いことなのだ。

だって、どれだけ「努力をすればできるようになる」と圧力をかけても、相手は、ずっとできないままだからだ。そして、負のストロークを与え続けてきたという、悪い効果がしょうじるのである。

「できる」とか「できない」とかということに関しては、まったくできないということと、がまんして努力をすればできることがある。

言われたほうが、「(言われたことを)まったくできない場合」も問題があるし、「言われたほうが、がまんして努力すればできること」でも、問題がある。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。