「努力をすれば成功する」ということを、「努力をすればその作業をやり終えることに成功する」と言い換えれば、「努力をすれば、その作業をやり終えることに成功する」ということになる。
手短に言うと、むりな仕事でも、努力をすれば、やり終えることができるということになってしまうのである。
だから、努力をすれば成功するというのは、「無限要求定型文だ」と言うことができる。努力をすれば成功すると言っている人は、どれだけ努力をしても、できないことがあるということを認めていないのだ。
しかし、「努力をすれば成功する」と言っている人だって、できないことがある。
いっぱい、ある。
ところが、自分だって、努力をしてもできないことがあるということは、普段、意識に上ってこない。意識にのらない。
だから、よく考えないで、「努力をすれば成功する」「自分は、努力をして成功することができた」と考えているのである。
しかし、何度も言わなければならないけど、努力をしたって、できないことはある。「努力をすれば成功する」と言っている人は、認めたくないのだろうけど、「努力をすれば成功する」と言っている人だって、どんなに努力をしても、できないことが、いっぱいある。
ところで、自己責任論に、自分を対象とした自己責任論と他人を対象とした自己責任論があるということを述べたけど、努力論にも、自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論がある。
これも、最初は、自分を対象とした努力論が頭の中に入ってくるのだけど、そのうちに、他人を対象として「努力をすれば成功する」と言いたくなってくるのである。
これは、もう、自動的に言いたくなると言ってもいいのではないかと思う。
しかし、自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論はまったくちがうのである。他人を対象にした努力論は、これまで見てきたように、理論的にまちがっている。そして、理論的にまちがっているということに、他人を対象とした努力論者は、気がつくことがない。
だから、悪い条件によって『できない他人』と軋轢が生まれるのである。
ようするに、他人を対象とした努力論者の視点から見れば、『できない人』は、努力をしない人なのである。努力をしない人でも、努力をすればできるようになるのだから、できるようにすればいいということになる。努力をすればできるようになるのに、さぼっているのだから、さぼっている悪いやつだということになってしまうのである。
努力をしてもできない人は、努力をしてもできないので、「努力をすれば成功する」「努力をすればできるようになる」と言われても、できないままなのである。
だから、他人を対象とした努力論者が、できない人に対して、負のストロークをあたえるということが、常態化する。ようするに、何回もずっとずっと、繰り返されることになる。
じゃあ、ずっとずっと、このようことが繰り返されることがいいことなのか、悪いことなのかというと、悪いことなのだ。
だって、どれだけ「努力をすればできるようになる」と圧力をかけても、相手は、ずっとできないままだからだ。そして、負のストロークを与え続けてきたという、悪い効果がしょうじるのである。
「できる」とか「できない」とかということに関しては、まったくできないということと、がまんして努力をすればできることがある。
言われたほうが、「(言われたことを)まったくできない場合」も問題があるし、「言われたほうが、がまんして努力すればできること」でも、問題がある。