ごくごく、手短に言うと、「努力をすれば成功する」というような考え方がはやっていると、その文だけ、不幸度が増すかもしれない。「努力をすれば成功する」というのは、条件を無視した文言だ。だから、まず、条件を無視しているという性格がある。「自分のほうが上だ」と思っているやつが、自分自身の成功度は無視して、自分より下だと思っている人間に対して「努力をすれば成功する」という場合は、「努力をしていないおまえはだめだ」という負のメッセージが含まれているのである。「努力をすれば成功するのに、おまえは努力をしないから成功しない」というメッセージは、ネガティブな意味を含んでいるのである。「努力をすれば成功する」のだから、ポジティブなメッセージだと言っている本人は思うかもしれないけど、言われた人は、その行為全体が不愉快なものであり、ネガティブな感情を抱くのである。そして、努力論者は、人には、努力をすすめるけど、本人は、それほど努力をしてない場合がある。これは、相手が自分より下だと思っている自負心から生じることだ。相手に、努力をすすめるということは、相手の努力がじゅうぶんではないという認識を(本人が)もっているということになる。「努力をすれば成功する」とはっぱをかけることが、ネガティブな行為なのか、ポジティブな行為なのかということは、一方的に決められるものではない。「努力をすれば成功する」という考え方が、広まってないほうが、人が自由に生きられたかもしれないのである。成果を出していなければ、どれだけ努力をしても努力をしたとは認められないので、努力をしてないということになるのである。実際に成功していないから、努力をしなかったということになってしまうのである。なぜなら、努力をすれば成功するはずだからである。努力をしないから、成功しなかったのだということになる。しかし、成果というのが、これまた、相対的なものなのである。だから、なんとだって言える世界で、なんだか正しそうなことを言っているだけだということになる。
言霊主義者は、「明日雨になる」と言って、雨になった場合は、「言ったことが現実化する」という言霊理論が正しいということを確信してしまう。しかし、これは、まちがった思い込みだ。そして、言霊主義者は、「明日雨になる」と言って雨にならなかった場合は、「自分が雨になると言ったのに、雨にならなかった」という事実を無視してしまうのである。 あたった場合は、注目して、あたらなかった場合は、注目しないのである。
そういうことが、じつは、努力論者の頭のなかでも起こっている。努力論者が、自分の成功について、考えるときは、成功のほうをいじって、動かしてしまうのである。成功の内容」というのは、いかようにでも、決められるものなのだ。本人にとっての「成功」だから、なにか外部の客観的な基準があるわけではない。本人にとって、自分が思う範囲で成功したなら、成功したということになってしまう。この場合は、「明日雨になる」と言って雨になった場合の言霊主義者とおなじように「努力をすれば成功する」というのは正しいと確信してしまうのである。
なんらかの落ち度が他人にあると認識した場合は、なんらかの落ち度がある他人は、努力をしない人になるわけなのである。なんらかの落ち度がある他人……は、じゅうぶんな努力をしたことにならないのである。たとえ、なんらかの落ち度があるということがまちがっている認識だとしても、なんらかの落ち度がある他人は、努力をしなかった人になるのである。AさんとBさんがいたとする。Aさんが、Bさんは成功していないと思えば、Aさんのなかでは、Bさんは、努力をしてない人になるのである。だから、自分のほうが「上だ」と思っているAさんは、Bさんに対しては「努力をすれば成功する」とえらそうにいうことができるのである。これが、ポジティブな発言なのか、ネガティブな発言なのかはわからない。
Aさんが、Bさんはだめだと思うには、それなりに根拠がある。それは、属性に関する偏見が関係している場合と現実的な意味での上下関係が関係している場合がある。まあ、主にこのふたつなんだけど、ともかく、「だめだなぁ」と思ったら、その人のなかで相手は、ダメな人になって、努力をしてない人になるのである。「だめだなぁ」と思う相手は、たいていの場合は、成功していないように思えるのである。
ちなみに、属性に関する偏見というのは、たとえば、相手が「無職」なら、「無職だからダメだ」と思う場合に発揮される偏見だ。いっぽう、現実的な意味での上下関係というのは、たとえば、職場での上下関係のことだ。役職が上の人は、役職が下の人を自分よりも下だと認識しやすいのである。自分よりも成功していないのだから、自分よりも努力をしてないということになり、自分が役職的に下である相手に……「努力をすれば成功する」と説教するのは、適切な行為だということになる。もちろん「自分自身」のなかでそう思っているだけだ。
「努力をすれば成功する」という文は、それだけ抜きだせは、空中に浮かんでいるような文なのだけど、実際には、関係性のなかで発せられる文である場合が多い。「本に書いてある場合」は、関係性が薄れてはいる。しかし、なにかその人のことを尊敬しているので、本を読む場合は、あるていど、上下関係があると想定することができる。評価をして、上に見ているからだ。
ちょっと、言いにくいのだけど、たいして成功していない人も、目下の相手になら「努力をすれば成功する」と説教することができるのである。これは、まあ、負のストロークをあたえたことになるだろう。けど、「努力をすれば成功する」という文は「努力をしないから、成功しない」という文よりも、ポジティブであるような印象をあたえるし、「努力をしても、成功しない」という文よりも、ポジティブであるような印象をあたえる。しかし、「努力をすれば成功する」と言われたほうが、かならず、ポジティブな気持になるとはかぎらない。言われたほうが、ネガティブな気持になる場合がある。どうしてかというと、「努力をすれば成功する」と言っているほうが、自分のほうが上だみなしている場合があるからだ。文が関係性のなかに埋め込まれた場合、その文がポジティブな意味をもつのか、ネガティブな意味をもつのかということは、一概には決められない。また、言うほうと言われるほうでは、気持ちがちがうのだから、「努力をすれば成功する」という文に対する印象もちがってくるのである。
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けっきょく、言いたいことはなんなのかというと、「努力をすれば成功する」という言葉が、社会の不幸を増やしているのではないかと言うことなのである。ほんとうは、条件が非常に重要なのだけど、伝統的に、条件を無視することになっているのである。条件を無視した「努力をすれば成功する」という言葉は、社会の圧力を高めるような効果がある。