2025年5月31日土曜日

自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論はまったくちがうのである

「努力をすれば成功する」ということを、「努力をすればその作業をやり終えることに成功する」と言い換えれば、「努力をすれば、その作業をやり終えることに成功する」ということになる。

手短に言うと、むりな仕事でも、努力をすれば、やり終えることができるということになってしまうのである。

だから、努力をすれば成功するというのは、「無限要求定型文だ」と言うことができる。努力をすれば成功すると言っている人は、どれだけ努力をしても、できないことがあるということを認めていないのだ。

しかし、「努力をすれば成功する」と言っている人だって、できないことがある。

いっぱい、ある。

ところが、自分だって、努力をしてもできないことがあるということは、普段、意識に上ってこない。意識にのらない。

だから、よく考えないで、「努力をすれば成功する」「自分は、努力をして成功することができた」と考えているのである。

しかし、何度も言わなければならないけど、努力をしたって、できないことはある。「努力をすれば成功する」と言っている人は、認めたくないのだろうけど、「努力をすれば成功する」と言っている人だって、どんなに努力をしても、できないことが、いっぱいある。

ところで、自己責任論に、自分を対象とした自己責任論と他人を対象とした自己責任論があるということを述べたけど、努力論にも、自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論がある。

これも、最初は、自分を対象とした努力論が頭の中に入ってくるのだけど、そのうちに、他人を対象として「努力をすれば成功する」と言いたくなってくるのである。

これは、もう、自動的に言いたくなると言ってもいいのではないかと思う。

しかし、自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論はまったくちがうのである。他人を対象にした努力論は、これまで見てきたように、理論的にまちがっている。そして、理論的にまちがっているということに、他人を対象とした努力論者は、気がつくことがない。

だから、悪い条件によって『できない他人』と軋轢が生まれるのである。

ようするに、他人を対象とした努力論者の視点から見れば、『できない人』は、努力をしない人なのである。努力をしない人でも、努力をすればできるようになるのだから、できるようにすればいいということになる。努力をすればできるようになるのに、さぼっているのだから、さぼっている悪いやつだということになってしまうのである。

努力をしてもできない人は、努力をしてもできないので、「努力をすれば成功する」「努力をすればできるようになる」と言われても、できないままなのである。

だから、他人を対象とした努力論者が、できない人に対して、負のストロークをあたえるということが、常態化する。ようするに、何回もずっとずっと、繰り返されることになる。

じゃあ、ずっとずっと、このようことが繰り返されることがいいことなのか、悪いことなのかというと、悪いことなのだ。

だって、どれだけ「努力をすればできるようになる」と圧力をかけても、相手は、ずっとできないままだからだ。そして、負のストロークを与え続けてきたという、悪い効果がしょうじるのである。

「できる」とか「できない」とかということに関しては、まったくできないということと、がまんして努力をすればできることがある。

言われたほうが、「(言われたことを)まったくできない場合」も問題があるし、「言われたほうが、がまんして努力すればできること」でも、問題がある。

2025年5月30日金曜日

普段は、自己責任論をふりまわしているやつにかぎって、自己責任だとは思わないのだ

 たとえば、「言ったことが現実化する」ということと「言い方が悪いと現実化しない」ということは、両立しないんだよ。どっちとも、正しいと言いきることはできないんだよ。けど、言霊主義者は、よく考えないで「言ったことが現実化する。これは正しい」「言い方が悪いと、現実化しない。これも正しい」と思ってしまう。そして、思ったままだ。理論的に矛盾しているということに気がつかない。矛盾しているということを、ぼくが、言霊主義者に言ったとする。そうすると、言霊主義者は不愉快な気持になるのである。そりゃ、自分が正しいと思っていることが、理論的に正しくないと説明されるわけだから、不愉快な気持になるのである。「単純なのがただしい」と言いかえしたりする。これの意味は「言ったことが現実化するというのは、単純なことだから正しい」ということだ。いや、単純でも、まちがっていることは、まちがっているんだよ。ようするに、「矛盾がある」ということを認めたくないので、認めないような発言をするわけ。それから、「アバウトでいいんだ」ということを言ったりする。これの意味は「言ったことが現実化するということと言い方が悪い現実化しないということが、矛盾しているということは、考えるべきではない。言ったことが現実化するということは、アバウトに理解すればいい。言い方が悪いと現実化しないということも、アバウトに理解すればいい。アバウトに理解すればいいことを、がたがた言ってくるのは、そっちのほうがおかしい。矛盾してたって、アバウトに考えればいいんだよ」ということだ。両方が正しいということになると、矛盾するということは、認めないのである。「アバウトでいいから、矛盾していない」と考えているのである。こういうレベルの思考方法だ。この言霊主義者が、普段「すべては受け止め方の問題だ」と言っていたとしても、そのときは、「受け止め方」をかえてくれるわけではないのである。俺が言っていることにあわせて、自分の「受け止め方」をかえてくれるわけではない。そして、自分が、かたくなに!!!自説にこだわって、理論的な矛盾を認めなかったということは、無視してしまうのである。これは、自説にこだわって「受け止め方をかえなかった」ということだ。だから、この点でも、自分が信じている理論と、自分が実際にやっていることが、矛盾しているのである。この言霊主義者が「エイリさんの話を聴いて楽しい」と言えば、楽しくなるのかと言えば、楽しくならないのではないかと思う。自説を批判された……矛盾があると指摘された……そのとき、「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなるのかという問題がある。「うれしいうれしい」と言えばうれしくなるのかという問題がある。自分が正しいと思っていることを批判されて不愉快なときも、「うれしい」と言えば、「うれしくなる」のである。言ったことが現実化するから、うれしいと言えば、うれしくなるのである。ところが、たいていの言霊主義者が、こういう時にかぎって、言霊的な解決方法を模索しないのである。「矛盾があるとか言って、なんだこのやろう」とおこった気持ちになってしまうのである。この言霊主義者が、同時に自己責任論者だったとしよう。自己責任論者だから「批判されたのは自分の責任だ」と思うかというと、思わない場合のほうが多い。ぼくの経験の範囲だと、すべての自己責任論者であり、なおかつ言霊主義者である人が、自己責任だとは思っていなかったのである。矛盾したことを言って、矛盾していると指摘されたのだから、これは、特に、自己責任論じゃなくても、自己責任だと思うべきところだ。ところが、普段は、自己責任論をふりまわしているやつにかぎって、自己責任だとは思わないのだ。この場合だと、「矛盾していると指摘してきたエイリが悪い」ということになる。そいつのなかで、そうなる。「エイリが、不愉快なことを言ってきたので、不愉快になった」ということになる。そいつのなかで、そうなる。一倍速で自分が実際に経験したことだと、「すべては自己責任」などとは思わずに、普通に他責思考をするのだ。「ほかのやつのせいで、自分が不愉快な思いをした」と思うのだ。一倍速で実際に起こったことは、自分の感情を伴ったプロセスを記憶しているので、普通に「これはこうだ」と思うのである。記憶障害者である言霊主義者は、のぞくとすると……言霊主義者は人の話だと、じつは、出来事の時系列的な順番を気にしなかったり、まちがえたりするのだけど、自分が身をもって経験したことに関しては、時系列的な順番を記憶しているので、出来事の時系列的な順番をまちがえるということがないのである。けど、これが、人の話だと、かなりの頻度で、時系列的な順番をまちがえてしまうのである。そして、言霊主義者が事前に「自分は、これ以降……不愉快に感じることはない」と言っておけば、不愉快に感じることがないのである。言霊主義者が、どこかの過去の時点で「不愉快なことは発生しない」と言えば、不愉快なことは発生しないのである。もちろん、自分にとって不愉快なことは発生しないという意味だ。まあ、この場合、すべての人にとって、不愉快なことは、発生しないという意味でもいい。ともかく、一度でも、「不愉快なことは発生しない」と言っておけば、不愉快なことを経験することがないということになるのである。だから、エイリに矛盾を指摘されたとしても、不愉快な思いをすることがないのである。けど、わりとむきになって「アバウトでいいいんだ」「単純なのが正しいんだ」と言っているように思えるのである。ともかく、矛盾があるということは、最後まで認めないのである。

2025年5月29日木曜日

「言い方が悪いと、現実化しない」

 繰り返しになるけど、「後出し詐欺」と言えるものがある。後出しなのだ。

たとえば、「言えば、言ったことが、現実化する」と言っておいて、実際に、言ったことが現実化しなかった場合は、「言い方が悪かったから現実化した」と判断する人たちがいる。

この人たちは、後出し詐欺をやっている。「言えば」……「言ったことが現実化するのだから、どれだけ言い方が悪くても、現実化するはずなのである。

もし、「言い方が悪い場合は、現実化しない」と言うのであれば、最初から「言い方が悪いと現実化しないけど、言い方がいいと現実化する」とわけて言えばいいのだ。

その場合も、「言った」という条件を満たすと、なぞの「言霊の力」によって、言ったことが現実化されてしまうという設定はまちがっているけど、こういった言い方をするのであれば、後出し詐欺を避けることができる。

そして、「言い方が悪いと、言っても現実化しない」という現実をどのように受け止めているのかということが問題になる。

そりゃ、そうだろ。

「言い方が悪いと、言っても、現実化しない」のだ。

ならば、「言っても現実化しない場合がある」ということを認識しているということになる。

これは、「言えば、言ったことが現実化する」という言葉には含まれないことなのである。言い方が悪いと現実化しない……。ならば、言えば言ったことが現実化するということには、ならないのである。

これ、まったくわかっていないやつが、最初は「言ったことが現実化する」と言って、そのあとに「悪い言い方だと現実化しない」と言うわけだけど、本人が本人の矛盾に気がついていないのだ。

「言い方が悪いと、現実化しない」と言ったあとに、「言えば、言ったことが現実化する」と言うのは、もう、精神異常なのだ。言い方が悪いと、言っても現実化しないのだから、「言えば、言ったことが現実化する」とは言えないことになる。

理論的におかしいのだ。

言うという集合のなかに、悪い言い方で言うという集合がはいっているんだぞ。

悪い言い方で言うというのは、言うという集合のなかの部分集合なんだぞ。矛盾したことを言っているということに、気がつかないのかな?

*     *     *

そして、このことが、「努力をすれば成功する」という言い方にも、成立している。「努力をすれば成功する」と、まず言っておいて、後出しで「努力の方向がまちがっていると、成功しない」と言うのである。

これも、努力をするということの集合のなかに、間違った方向の努力をするという集合が含まれているのである。だから、本来の意味では、努力をすれば成功するのだから、まちがった方向の努力をしても、成功するはずなのである。

この文脈において、努力というものは、言霊のようなものなのである。

……あとで、正しい努力と言うことが語られる。

しかし、正しい努力というのはなんなのか?

正しい努力というのは、「努力をすれば成功する」と(あてずっぽうで)言ったやつの、頭の中にある、努力なのである。

ほんとうは、どういう努力なら、成功したのかということを知らなくても、ともかく、成功しなかったのだから、それは、正しい努力ではないということになるのである。

そして、どこかにある……理想的な正しい努力をしたなら、成功したはずだ……という夢物語が語られるのである。

これは、言霊のときのように、ずるいやり方だ。

きたなすぎる。

こんなきたないやり方をして、平気なのか?

努力の場合は、言霊のように、「努力霊(どりょくだま)」があって、その「努力霊」が、神秘的な力で、成功する結末をもたらすということは、言われない。

しかし、成功しなかった場合は、あたかも、「努力霊」があるような話になってしまうのである。

正解はわからないのに、正解があるはずだということになり、正解にいたれば、成功するということになってしまうのである。

*     *     *

まず、成功した場合は、努力をしたから成功をしたということになる。そして、成功しなかった場合は、努力をしなかったから成功しなかったということになるのである。

ようするに、後出しなのだ。

後出し詐欺をやっている。

成功しない限り、努力をしたことにはならないのだ。

 

そこで、正しい言い方とおなじように正しい努力ということが問題になる。

 

「まちがった努力をしたから成功しなかった」と、後出しで言われるようになるのだ。成功しなかった人であって、なおかつ、努力をした人は、だれか努力論者から「まちがった努力をしたから成功しなかった」と言われることになる。

「まちがった努力をしたから成功しなかった」と言いきる人は、正しい努力がなんなのか知っているみたいなのだけど、本人が、知っている気持ちになっているだけだ。

ほんとうは、正しい努力なんてわからないのである。

「まちがった努力をしたから成功しなかった」と言っている人も、正しい努力の具体的な内容がわからないのだ。

正しい努力というのは、「結果的に!!」成功した努力なのだ。

成功しなければ、どれだけ「正しい」と思われる努力をしたとしても、それはまちがった努力なのだ……。「まちがった努力をしたから成功しなかった」と言って「後出し詐欺をする」努力論者が「正しい努力をしたかもしれない人」に「まちがった努力をしたから成功しなかった」というのである。

条件が悪くて、努力をしようにも努力をすることができなかった人や、条件が悪くても正しい努力をしたかもしれない人が、努力論者から「まちがった努力をしたから成功しなかった」と言われることになる。

けど、じゃあ、その努力論者が、ほんとうに正しい努力を知っているのかというと、知っているわけではない。

成功しなかったなら、正しい努力ではなかったのだろうと、後出しで、決めつけているのだけなのだ。

こういう詐欺。

理論的に考えることができないので、たぶん、自分がなにをやっているのかわからないのだろう。この文を読んだとしても、多くの努力論者は、ぼくがなにを言っているのかわからないかもしれない。

ともかく、詐欺なんだよ。

「きたないことをやるな」と言いたくなる。

だって、そうだろ。正しい努力をして成功しなかったかもしれないのに、成功しなかったという結果から、正しい努力ではないと決めつけてしまうのだ。

こんなの、ない。

努力の場合は、たしかに、行動がある。言霊のような神秘的な力を想定する必要がないのだ。

しかし、言霊とおなじように、幼稚な努力論者が、後出し詐欺をするということになる。

努力論にも、一〇〇%詐欺、法則性詐欺、後出し詐欺の三つの詐欺が、最低でも……成立している。

努力の場合は、主体的な行動ができるのである。

だから、後出し詐欺は、言霊理論の後出し詐欺よりも、目立たなくなっている。

「まちがった努力をしたから成功しなかった」というのは、あるていど、理論的に正しいように聞こえるのである。しかし、後出し詐欺をやっていることには、かわりがないのである。

正しそうに見えても、後出し詐欺はしっかりとやっていて、詐欺をしていないわけではない。

おわかりか?

*     *     *

神様視点で「正しい努力」というものがあるとする。努力論者Aがいたとする。努力をしたけど、成功しなかった人がいたとする。

とりあえず、Bさんは、できる範囲で正しい選択をして、努力をしたけど、成功しなかったとする。そうなると、Aさんは、Bさんが実際には成功しなかったということに注目して、Bさんの努力が足りなかったから成功しなかったのだと言い出すのである。

そして、Bさんが「じゅうぶんな、努力をした」と言えば、Aさんは「努力の方法が正しくなかったから、成功しなかったんだ」とBさんに言うのである。

Aさんが神様視点で「正しい努力」がなんなのか、知っているわけではないのである。

そして、AさんはBさんが「正しい努力」をしたのかどうかも、ほんとうは、わかっていない。Bさんの努力が「正しい努力」だったかもしれないけど、Aさんは、結果を見て、Bさんの努力は、正しい努力じゃなかったと、後出しで、決めつけているだけなのである。

条件が悪ければ、「正しい努力」なんてできないかもしれない。けど、Aさんは、努力論者なので、「努力をすれば成功する」ということを信じている。

なので、「成功しなかったのなら、努力をしなかったのだ」と(成功しなかった)他人に言いたい気持ちになるのである。他人が「努力をした」と言い返せば、「努力が足りなかった」とか「正しい努力じゃなかったから成功しなかったんだ」と言いたくなるのである。

これは、後出しなんだよ。

最初の「努力をすれば成功する」という文がまちがっている。

「努力をすれば成功する」という命題は『偽』なのに、『真』だと思っている努力論者が、最初に、勘違いをしているのである。

そりゃ、『偽』なのに、『真』だと思っているのだから、勘違いをしているということになる。

2025年5月28日水曜日

主義主張で、「人にどう思われてもいい」と思っているわけではないんだぞ。

ヘビメタ騒音でできなくなっているのだから、「人にどう思われたっていい」ということにはならないのである。

ヘビメタ騒音で……できなくなっているんだぞ。

ヘビメタ騒音がなければ……できることなんだぞ。

ヘビメタ騒音でできなくなっているから、他人と、トラブルがしょうじるんだぞ。

 

ヘビメタ騒音できなくなっているのだから、そこから発生する問題について「人にどう思われたってかまわない」ということにはならない。

 

主義主張で、「人にどう思われてもいい」と思っているわけではないんだぞ。

ヘビメタ騒音でどうしても、勉強ができないなら、俺がこまるのである。ヘビメタ騒音でどうしても、遅刻をしてしまうなら、俺がこまるのである。どうだっていいことじゃない。

人が、「こいつはだらしないから、遅刻する」と思っていいわけがない。人が、「こいつは、勉強がそれほどできない」と思っても、いいわけじゃない。

 

ヘビメタ騒音で、ほんとうに、宿題ができなくなる。

 

宿題をやってこいという要求がある。こんな要求、ほんとうに、ヘビメタ騒音がなければ、いくらだって、こたえることができる要求なんだよ。

けど、ヘビメタ騒音が鳴っているから、どうしても、どうしても、どうしても、できなくなるんだよ。ヘビメタ騒音が鳴っている最中、どうしても、どうしても、どれだけがんばっても、宿題をやり遂げることができないんだよ。

問題だろ。

それから、ほかの人たちは、ヘビメタ騒音を浴びたあと、どういう状態になるかわかってないので、ヘビメタ騒音が鳴りやんだあとも、ヘビメタ騒音でつかれはてている状態だから、宿題ができないと言っても認めない。

これだって、不名誉なことなんだよ。

ほかの人が、ぼくのことについて誤解をしているんだよ。こいつらの前提は、「ヘビメタ騒音が鳴り終わったら、宿題ができるはずだ」ということなんだよ。

ところが、午後四時から、午後一一時一〇分までヘビメタ騒音が続くと、鳴り終わったあとも、宿題をすることができない状態になる。毎日続くと、そうなるんだよ。こいつらが実際に、自分がこの世で一番嫌いな音を、毎日毎日、何時間も何時間も、聞かされることがなかったから、わかっていないだけの話なんだよ。

あの至近距離で、あのめちゃくちゃな音をガンガン聞かされ続けて、いいわけがない。そんなのが、七時間近く続いて、いいわけがない。そんなのが、一三時間以上続いて、いいわけがない。

日曜、祭日、きちがい兄貴が、休みで家にいる日は、一三時間以上、さらされ続けることになる。日曜日が休みにならないのである。

日曜日はしずかだから、平日、ヘビメタ騒音のせいで、できなかった勉強の遅れを取り戻すということもできないのである。

「ヘビメタ騒音で、できなくなった」と俺が説明したあと、「人がどう思うかなんて気にしなくていい」と言ったやつが、リアル世界にいる。いた。

そいつは、どれだけ、俺が……そいつのその言葉を聞いて、くやしい思いをするか、まるでわかってない。こいつらは、誤解をしている。

だいたい、そいつらにしたって、俺が二十歳をこえて、無職なら、「無職野郎」と思うわけなんだよ。そいつらが、そうやって、俺のことをバカにする。

それで、「人の評価なんて気にしなくていい」「人がどう思うかなんて気にしなくていい」と言う。

そいつが、「無職に対する偏見」をもっていて、「なんだろうが、無職はダメなやつだ」と思って、無職属性がある俺のことをバカにしたとする。そいつの意見では、そいつが「無職であるエイリ」のことをバカにしたって、あたりまえだと思っているんだよ。そいつにとって、無職なやつはだめだというのは、あたりまえのことだからだ。

こんな、きちがい野郎。こんな、バカ野郎。

ほんとうに思考力が低すぎる。ほんとうに理解力が低すぎる。きちがい野郎だ。

いいわけがないだろ。これも、こいつらにしてみれば、鳴り終われば、ヘビメタ騒音は関係がないということになっているので、鳴り終わったら、(それは)エイリが無職でいる理由にはならないと思っているのだ。

こんなの、ない。

きちがい兄貴が、きちがいヘビメタを、ほかの人がわからないレベルで、夢中になって、でかい音で鳴らすから、こうやって、俺が恥をかくことになる。

うちにくれば、ぼくが言っていることが正しいということが、一発でわかるんだよ

 こうしているあいだも、ヘビメタ騒音の感じが持続しているので、いやな人生だったと思う。あんなのが続いていいわけがないだろ。なにが「言ったことが現実化する」だ? なにが「明るいことを思えば明るいことが現実化する」だ? ふざけんな。ふざけんな。

この日曜日の午後……の雰囲気……。これ、ほんとうに、ヘビメタ騒音の雰囲気だ。至近距離で鳴っていた。鳴りはじめたら、どれだけ言っても、一秒もやめてくれない。

きちがいが、きちがいの音で、きちがいの意地で鳴らす。

みんな、知らない。うちで鳴っているだけだから、学校の友達は知らない。学校の人は知らない。

俺が言っても、きちがい家族がいない人たちばかりだから、きちがい家族の「維持」がわからない。きちがい家族の「こだわり」がわからない。

どしうて、ぼくが、兄貴のことをきちがいと言わなければならないのか?

反応がおかしいからだ。みんな、きちがい兄貴の、きちがい的な部分が……そもそもわからない。だから、普通の騒音だと思ってしまう。普通の「兄」だと思ってしまう。普通の家族がやっていることだと思ってしまう。

もう、ここで、誤解がしょうじてしまう。もちろん、ここで生じた誤解について、張本人であるきちがい兄貴は、知る由(よし)もない。

張本人が、学校の人たちの「認知」ときちがい兄貴が実際にやっていることの「ずれ」を認識することは、ない。絶対にない。そりゃ、自分がやっていることがわからないからだ。

普通の人だったら、あんな音では、鳴らしたくても鳴らさないんだよ。

あんな音で鳴らしてしまうということ自体が、「ぶっこわれている」。きちがいだ。なにもわかってないきちがいだ。

どれだけ、きちがい兄貴がやっていることは、常識はずれなことだ……ということを兄貴に言ったって、きちがい兄貴は、認めない。発狂してやりきる。

ところが、これまた、きちがい兄貴はきちがいだから「やりきった」という気持が生じない。相手が文句を言ってきた……ということすら、自分がやり通せるなら、忘れてしまう。なら、こだわらないいい性格かというと、ちがうのである。

きちがい兄貴が「悪いこと」を押し通して、相手に文句を言われたということを、瞬時に忘れてしまうのである。忘れてしまうのだか、こだわらない性格」だということができそうな感じがするけど、言うことはできない。「こだわらない性格」には、いいニュアンスが含まれている。

たとえば、自分が相手に、悪いことをされて、おこったけど、すぐに水流して、相手が自分にやったことを忘れてあげるというような性格もこだわらない性格と表現されることがある。「こだわらない性格」というのは、相手が自分に不愉快なことをやってきたときも、すぐに忘れてあげるというようなニュアンスがある。

けど、きちがい兄貴は、自分、相手に悪いことをして、悪いことをしたということまったく認識しない人たちなのである。だから、「こだわらない性格」というような良いニュアンスをもっている言葉は、使えない。

きちがい兄貴やきちがい親父に、俺が「こういうことがあった」いうことを言ったとする。たとえば、きちがい兄貴が俺の言い分を無視して、鳴らし続けてしまったということを、俺が兄貴に言ったとする。

兄貴は、言われたときに(自分が)不愉快なのであれば、おこっておこって、おこって、おこって、認めない。即座に発狂して、腹をたてて認めない。

こういうやり取りも、きちがい兄貴、本人の頭の中に、まったく残らないのだ。相手が言っていることというのは、「感じ」でしかないんだよ。いちおう、兄貴のことを書いたけど、親父の場合もおなじだ。これ、まったくおなじなんだよ。

なんとなく、自分にって不都合なことを言われたというレベルの、漠然とした理解なんだよ。意識のレベルでは、漠然としたレベルのままなんだよ。無意識のレベルでは、相手の言ったことを……認めてしまうと、自分が「押し通すことができなくなることだ」ということを、正確に理解しているんだよ。

けど、それは、意識には登らないわけ。

だから、ものすごくへんな態度なんだよ。相手が言ったことのうち……自分の行為にかかわる基本的なことを、絶対の意地で認めないのだ。

基本的なことを認めると、やめなければならなくなるから、認めないのである。きちがい兄貴なら、ヘビメタの音が「でかい」ということを認めない。

こんなの、聴覚が正常なら、だれだってわかることだ。

けど、そのときだけ、聴覚に異常がしょうじて?わからなくなってしまうのである。

けど、ほんとうには、聴覚に異常がしょうじたわけではないのである。聴覚に異常がしょうじたのではなくて、聴覚が認識したものを、受け止める部分に、異常がしょうじたのである。

性格的に……聴覚に異常がしょうじたような状態になって、認めないのである。もちろん、性格的にと書いたけど、本人は、「知らない」のだよ。自分が「そうしている」ということを知らない。

けど、自分にとって都合が悪いことを言われると、いつもそうなるんだよ。だから、こまるんだよ。きちがい兄貴は知らないわけだし、よその人も、そんな異常な人がいるとは思わないので、たいしたことじゃないと思っているわけ。

きちがい兄貴も、きちがい兄貴がやっていることがわからないし、よその人も、きちがい兄貴がやっていることがわからないということになる。これが毎日続いたら、こまるんだよ。

この機能??……このきちがい機能をいつも、もちいて、きちがいヘビメタを、猛烈にでかい音で鳴らしてしまうのだけど、いつも、でかい音で鳴らしていないつもりのままなのだ。

「しずかにしてくれ」と言われたら、「なんだか不都合なことを言われた」ということだけがわかるので、きちがい的な意地ではねのけようとする。きちがい兄貴は、発狂して、きちがい的な意地ではねのける。

この時に、殺してやめさせないと、(きちがい兄貴は)やりきってしまう。殺せなかったので、やられてしまった。

ともかく、「うち」で鳴っている音なんて、学校の人たちはまったく知らないから、どうでもいい問題だということになる。学校で、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的にでかい音で鳴らているわけではないからね。

直接、被害をうけるのは、ぼくの部屋にいるぼくだけだ。

きちがい兄貴が、普通に鳴らしているときに、ぼくの部屋に来れば、だれもが、「うるさい」と思う音で鳴っているんだよ。「いつもこんな音で鳴っているの?」と思う音で鳴っているんだよ。

だから、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚で、普通の音で鳴らしいるとき、うちにくれば、ぼくが言っていることが正しいということが、一発でわかるんだよ。

2025年5月27日火曜日

神様視点で、適切範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件(3)

 神様視点で、適切範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件のことなのだが、ちょっと、重複して言っておきたいことがある。

Bさんは、まちがっている。Aさんは正しい。

Aさんは、たいていの場合、Bさんが、やってこないことに関して、腹をたてるだろう。この立腹は、それなりに理解ができることなのである。

いっぽう、Bさんから見ると、Aさんの立腹自体が、不愉快なものであり、無視しなければならないものなのである。

だから、アドラーが言うことにしたがって、Aさんの立腹は、Aさんの問題だと問題を切り分けることに成功する。

しかし、もともと言えば、Bさんがやってこなかったことが原因なのだ。Bさんの認識がまちがっているのである。

しかし、Bさんのなかでは、Aさんが不適切な過剰要求をしてきたということになっているので、Bさんは、絶対に、自分のあやまりには気がつかない。

ほんとうは、Bさんの側の……作業内容の「評価あやまり」と、Aさんの態度に対する「評価あやまり」がある。

しかし、Aさんの態度に問題があるとか、Aさんの性格に問題があると思っているBさんは、自分の意見をかえない。

「Aさんが、自分に理不尽なことを要求してきたのだから、Aさんが悪い」とBさんは思ったままだ。「Aさんが、おこるのは、Aさんの性格の問題だから、自分は関係がない」とBさんは思ったままだ。

相手の問題と自分の問題を切り分けるということが奨励されているけど、どっち側がどう思っているのかということが、問題になる。

ところが、相手の問題と自分の問題を切り分ければよいのだという問題解決法が提示されるときは、現実の認知は、問題にならないのである。現実の認知は、自分の側の『現実の認知』が絶対に正しいということになって、固定されて考えられている。しかし、実際には、だれも、固定することはできないのだ。だから、実際には、上下関係やそれまでの出来事が、「条件」になっている場合が多い。自分がよく考えて、これは、相手の問題だと考えれば、自分に問題がある場合も、相手の問題だと思ったままなのである。そういう状態の個人が量産されることになる。

*     *     *

「相手はかわからないから、自分がかわればいい」と、だれかがAさんにアドバイスをしたとする。そのアドバイスは、Aさんの負担を増やすだけなのである。

「すべては、受け止め方の問題だ」と、だれかがAさんにアドバイスをしたとする。どういう意味かというと、すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいいというよな意味なのだ。たとえば、価値中立的な出来事が発生しただけで、それに、「Bさんがやってこなかったから腹立たしい」という「解釈」を、Aさんが価値中立的な出来事に当てはめただけなのだという言い方がある。これは、認知療法の一部に出てくる考え方であり、精神世界の「よくある話」の一部に出てくる考え方だ。出来事に意味合いをあたえるのは、「その人・個人」だから、その人が、その現実をつくりあげているということになる。出来事は中立的に生起しているのに、その中理的な出来事に対して、「Bさんがやってこなかったから、こまる」というような意味合いを付与しているだけなのだということになる。Aさんが、中立的な出来事に、意味合いを付与しているだけなのだということになる。ここから発展して「だから、自分の受け止め方をかえればいい」というところに、つながる。

しかし、実際の場面では、だれも、中立的に受け止めていないのである。神様的な視点で受け止めることができる神様は、どこかほかの、ところにいる。実際のプレーヤーである個人は、個人の目を通して、出来事を把握しているのである。どこかに「価値中立的な、正しい認知がある」という考え方自体がまちがっているのかもしれないのだ。実際、だれの頭にも、「価値中立的な、正しい認知」なんてない。ないのだ。まったくない。

つまり、「価値中立的な、正しい認知」があると、だれか個人が、空想しているだけなのだ。その個人だって、実際に、生活をしているなかでは、一度も、価値中立的に出来事を認知・認識したことがないと言える。もしかりに、価値中立的に出来事を認知・認識したことがあると、だれか個人が思っていたとしても、それがほんとうに、価値中立的な認知・認識であると言いきることはできない。どうやって、言いきれるのか疑問に思わないのか?

その人が、ある価値観に基づいて、価値中立的な認知したと思っているだけなのだ。「自分は価値中立的に現実を受け止めた」と思うかもしれないけど、思っているだけなのかもしれない。どうやって、思っているだけだということを否定するのだ?  否定するとなると、価値観が問題になるのではないのか? どうしたって、価値観が問題になるだろう。この場合は、本来は、出来事は中立的に生起している(はずだ)という価値観が問題になる。そして、自分がそれを実行したという(価値中立的ではない)認知・認識が問題になる。

 

2025年5月26日月曜日

神様視点で、適切範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件(2)

 神様視点で、適切範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件について、もうちょっと、言っておく。

Bさんの視点では、Aさんの要求は、超過範囲要求なので、やらない。超過範囲要求は不当な要求なので、やる必要がないのだ。Aさんに屈する必要がないのだ。

Aさんが、どれだけ、「不当な要求ではない。正常な範囲の要求だ」と言っても、Bさんの視点で見れば、不当な要求なので、やらない。

アドラー主義者は、「相手の問題だと切り捨ててしまうのである。ようするに、よく考えて、自分の考え方がまちがってないと思うなら、不当な要求をしてくるのは、Aさんの問題だから、自分には関係がないということになる。

Bさんが、アドラーの考え方に賛成している場合は、不当な要求をしてくるのは、Aさんの問題だから、自分には関係がないと思ってしまうのである。

しかし、神様視点で、適切範囲要求なので、Bさんが、ほんとうはまちがっている。

「相手の言い分をよく考えて判断すれば、だれもが、正しい基準でものを考えることができるはずだ」という考え方や、「不当な要求をしてくる相手の問題だから、相手の言うことをガン無視していい」という考え方は、問題を引き起こす考え方なのである。

*     *     *

Aさんが、いい人で、Bさんの仕事までやってあげたとする。AさんはAさんの仕事をかかえているので、よけいな仕事が増えたということになる。一回だけなら、出血大サービスで、対応できるけど、毎日続いたら、Aさんがまいってしまう。

これも、言霊主義者なら「できると言えばできる」と言って、問題にしないことなのである。

「できる」と言ったって、できないことはある。かりに、何回かはできたとしても、ずっとそれを続けるのは、むずかしい場合がある。

ようするに、一時的にストスレ対抗で処理できるけど、それは、むりをしてやっていることだから、ずっと続くのはまずい。

短期間で終了することと、長期間にわたって続くことは、それぞれ、日常生活の中で、ちがった性質をもつものなのである。

ところが、言霊という視点で考えると、両者のちがいなんて、まったく問題にならないのである。

「できる」と言えば、どっちだって、できるのである。

一日で終わることと、何十年かかっても終わらないことの区別をしない。一日で終了することと、数万日かかっても終了しないことの区別をしない。

「言えば、言ったことが現実化する」という文のなかに、どうやって、短期間で終わることと、長期間で終わることの区別を含めることができるのか?

区別なんて含めることはできない。

言霊思考で扱う限り、両者の区別なんてしない。

たとえば、「短期間のことなら、できると言えばできるけど、長期間のことだと、できると言ってもできない場合がある」なんてことは、言わないわけだ。

「できると言えば、できる」のである。期間なんて、まったく関係がない。

それが、言霊思考だ。

自分が、自分の視点で、時系列的に出来事を体験している場合は、「長期間だとむりだ」というようなことが、言霊主義者にだってわかるのである。

「ずっと毎日続くと、つかれる」「つかれがたまると、できなくなる」ということが、言霊主義者だって、経験をとおしてわかっている場合がある。その場合は、そのように考えるのである。そのようにというのは、「自分は、つかれがたまるとあれができなくなる」と考えるということだ。あるいは「毎日、つかれがたまって、もう限界だ」と考えるということだ。

「できると言えばできる」というのは、短期的なことで、ストレス対抗が機能する場合の話だ。

ストレス刺激がずっと、長期間にわたって続くのであれば、人間に備わっているストレス刺激に対抗する力では、どうにもならない状態になる。

ストレス対抗で、がんばっている状態自体が、ストレスになってしまうので、修復ができなくなる。ようするに、体が(もうそれ以上)ストレス刺激に対抗できない状態になる。

言霊主義者は、「文」として切り取って、法則性があると勝手に思っているだけなのだ。だから、ほんとうは、いろいろなところで、ぼろが出る。

ところが、言霊主義者は、言霊では対応できない部分を、無視してしまうのである。自分にとって、明らかなことは、現実的な思考をするのである。そして、現実的なことでも、言霊思考にあわないことは、無視するのである。

ようするに、「明日は晴れる」と言ったのに、雨になった場合は、雨になったということを無視してしまうのである。あるいは、昨日「明日は晴れる」と言ったことを、無視してしまうのである。都合よく無視して、「言霊は絶対だ」「言霊原理は正しい」と思っているだけなのである。

ようするに、「(なになに)ではない場合」に遭遇したしても、それについては、深く考えないのである。言霊理論を否定するような出来事が発生した場合も、言霊主義者は、それを無視して「言霊は絶対だ」と思ったままなのである。

 

 

 

2025年5月25日日曜日

神様視点で、適切範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件(1)

次に、神様視点で、適切範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件について考えてみよう。Aさんが「この作業内容は適切な範囲だ」と考えて、部下であるBさんに「適切な要求」をしたということになる。

神様視点で、適切要求範囲だと書いてあるので、読者は、適切な要求範囲だということがわかる。

しかし、実際には、神様視点で、確かな基準を提供できる人がいない世界に住んでいるのである。ようは、まちがっているBさんも、正しいことを言っているAさんも、おなじ資格をもつ人間だということになり、どっちの意見が正しいのか、判定できる人がいないのだ。

Aさんは、自分の意見が正しいと思い、Bさんは、自分の意見が正しいと思っているわけだ。

かりに、Cさんが、「Aさんの意見のほうが正しい」ということを言ったとしても、それは、Cさんの意見であって、神様の意見じゃない。確かな基準なんてない。

みんなが、それぞれに、自分の頭のなかに「確かな基準のイメージ」をもっているだけなのだ。

その、自分の頭のなかの「確かな基準のイメージ」が「正しい基準だ」とわかるような神様視点の「正しい基準」がどこかにあるわけではない。

何度も言うけど、アドラーのような人間は、「どこかに正しい基準がある」と思っているのだ。そして、「よく考えれば、だれでも、正しい基準にあてはめて、目の前のことを考えることができる」と思っているのだ。

Bさんが、よく考えると……いままで自分が「それ」は、「超過要求範囲だ」と思っていたけど、それは間違いで「じつは適切要求範囲だ」と思うことができるという設定が成り立っているのである。

しかし、実際の場面では、Bさんがどれだけ深く考えても、Bさんがどれだけ考え直しても、Bさんにとっては「それ」が「超過範囲要求である」ように思えるということが発生する。

だから、Bさんにとっては、Aさんは、「超過範囲要求」の仕事をおしつけてくる、悪い上司だということになる。

「それは超過範囲要求だ」として、Aさんの要求をはねのけるということが、Bさんにとっては「正しいことに」なるのである。

よく考えたあとのBさんは……自分が、Aさんの要求に合わせる必要がないと考えていて、その考え方に自信がある状態なのである。そして、BさんがAさんに「そんなのは、超過した要求だ」と言って、BさんがAさんの要求にあわせなくてもいいと思っている状態になる。

Aさんは、適切な要求をしたのに、Bさんが、適切な要求をはねのけるので、こまるということになる。

あるいは、Aさんが、適切な要求をしたあと、Bさんが実際には、それの半分しかやってないということがわかって、こまるということになる。

*     *     *

なお、自己責任論者に言わせると、Aさんがこまっても、それは、Aさんの自己責任なのである。自己責任論者というのは、こまっているほうをいためつけるようなことしか言わない。

思霊論者は、思った通りになると言っているので、思った通りにならなかった時点で、思霊理論はまちがっているという現実に直面しなければならなくなる。

しかし、思霊主義者は、Bさんのように、まちがったことを信じて、うたがわない状態になっており、現実を無視してしまうのである。

*     *     *

かりに、Aさんが言霊主義者だとする。

言霊主義者であるAさんは、「Bさんは、自分が要求したことをやってくる」と言えば、やってくるはずだと思っているのだけど、実際には、Bさんが自分が要求したことをやってこないので、言ったことが現実化しないという現実にぶちあたることになる。

ところが、Aさんは、現実を無視してしまうのである。理論にあわない現実というのは、無視してしまうのである。

ほんとうは、「言っても、言った通りにならないことがある」ということを認めなければならないのに、Aさんの頭のなかは、「言ったことが現実化する」という考え方が依然として成り立っている状態なのである。

*     *     *

AさんとBさんの会社にいるCさんがいたとする。Cさんが言霊主義者であり、Aさんが言霊主義者でない場合は、CさんはAさんに「言えば言ったことが現実化するから、Bさんがちゃんとやってくると言えばいい」と言うだけなのだ。

Aさんが、「Bさんがちゃんとやってくる」と言っても、Bさんは、Aさんの要求は、不当な超過範囲要求だと思っているので、自分が適切範囲要求であると思っている範囲しかやらない。

なので、Aさんがどれだけ「Bさんがちゃんとやってくる」と言っても、Bさんには影響がなく、Bさんがやってこないということになる。

その場合、Cさんは「Aさんの言い方が悪いから、Bさんがやってこなかったのだ」「もっと、こころをこめて、Bさんがやってくると言えば、Bさんはやってくるのだ」と言って、ゆずらない。

Cさんは、「Aさんの『言い方が』へぼいから、ダメなんだ」ということをAさんに言うのである。

*     *     *

かりに、Cさんが「Bさんは、ちゃんとやってくる」と言っても、Bさんはやってこないとしよう。Cさんは、言霊理論がまちがっているということを認めるかというと、認めないのである。

Cさんが言うのは、「Aさんの言い方が悪かったから、言ったことが現実化しなかったのだ」ということだけなのである。いっておくけど、言霊理論は、ただ単に「言えば言ったことが現実化する」と言っているだけなので、関係者でないCさんが言っても、現実化することになる。

CさんとBさんの間になにも関係がなくても、Cさんが「BさんがAさんの要求通りのことをやる」と言ったら、Bさんは、Aさんの要求したことをやることになるのである。

そういう魔法のような効果があると言霊主義者は言っているのである。

Cさんが言霊主義者であるという前提で話しているので、Cさんが「BさんがAさんの要求通りのことをやる」と言ったら、Bさんは、Aさんの要求したことをやることになるのである。

だったら、Cさんが、Aさんの問題を解決してやってもよいのである。Cさんが「言霊の力」を利用して、Aさんの問題を解決してやってよいのである。

ところが、Cさんは「言霊の力は絶対だ。言霊の力はすごいんだ。言えば、言った通りになる」と言って、ぜんぜん、Aさんの問題を解決してやろうとしない。Cさんがやることと言えば、Aさんに、説教をするだけなのである。

そして、Aさんが失敗をすれば、Aさんの言い方が悪かったから失敗したとAさんせめるだけなのである。

たいていの場合、Aさんは失敗することになるのである。

どうしてかというと、言霊の力はないので、言霊の力によっては、Bさんの行動をかえられないからだ。

Aさんが言ったあとに、Bさんが、行動をかえる場合が少しはある。その場合は、言霊の力ではなくて、言葉の力によって、Bさんの行動をかえただけだ。言霊の力ではなくて、言葉の力だ。その場合、言霊主義者が勝手に、言霊の力でBさんの行動がかわったと思っているだけなのだ。

AさんがBさんのいないところで「Bさんはちゃんとやってくる」と何回言っても、Bさんには、言葉として伝わっていないので、この場合は、言葉の力によって、Bさんの行動がかわるということはない。

ただし、Aさんがひとりで、「Bさんはちゃんとやってくる」とおまじないのように、一〇〇回ぐらい言っていたところを、偶然、Dさんがみて、DさんがBさんに「Aさんが、おまじないのように、何回も、Bさんはちゃんとやってくると言ってたぞ」ということを、伝えた場合は、Dさんの言葉によって、Bさんの行動がかわることはある。

そういう場合もある。

けど、その場合は、やはり、言霊の力でそうなったのではなくて、言葉の力でそうなっただけだ。ここらへん、勘違いをするべきではない。

だいたい、言霊の力を使って、Aさんの問題を解決してやらないのに……あるいは、解決してやれないのに……Aさんをせめる言霊主義者というのは、傲慢だ。

自分だって、「言うこと」で、言霊の力を使って、問題を解決することができないのに、あたかも自分は言霊の力を使って、問題を解決できるという前提でものを言っている。

そういう前提で、Aさんの言い方が悪いから、言霊の力が発動しないのだということを言っている。

こんなのない。

これだけ間違った前提で、ものを言って、いい気になって威張っているなんて、大人としておかしい。幼稚園児ならありえるけど、だいの大人が、こんなまちがいをして恥ずかしいと思わないのか。

間違っているのは、言霊主義者なのに、言霊主義者はいつもえらそうなのだ。

どうしてかというと、「自分は言霊を使える」と思っているからだ。

ほんとうは、言霊主義者も、言霊の力なんて使えない。その意味では、言霊主義者も、言霊の力でBさんの行動をかえることができなかったAさんとおなじなのだ。

ところが、「言霊の力を使える分だけ、自分はAさんよりも優れている」と思って、Aさんに、「言霊を使えば、問題を解決できる」と言うのだ。

もちろん、上から目線で、Aさんが知らないことを教えてあげるという態度になる。

そして、ほぼ決まっていることなのだけど、Aさんが失敗すれば、「Aさんの言い方が悪いからダメなんだ」と言うのである。自分は「言い方がうまいから、いつも、言霊の力を使うことができる」と思っているのである。

ところが、その言霊主義者が、言霊の力を使って、Aさんの問題を解決できるのかというと、できないのだ。

「言霊の力」なんてないから、できない。

 

 

2025年5月24日土曜日

俺の人生? 

  あーーあ。なんなんだ? あーーあ。もう、つかれた。なんだったんだろうな? 俺の人生? なんだったんだよ? ほんとうにつかれた。きちがいヘビメタ騒音でつかれた。きちがい親父のきちがい行為でつかれた。

2025年5月23日金曜日

神様視点で、超過範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件

 たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが上司で、BさんがAさんの部下だ。神様視点で、超過範囲要求と適切範囲要求がわかるとする。

しかし、ほんとうは、神様視点なんてない。けど、今回は、ぼくが言いたいことを説明するために、神様視点の基準があるとする。

神様視点で、超過範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件(作業内容)があるとする。Aさんは、Bさんに、適切な範囲の要求をしているとしか思えないのである。Bさんは、Aさんの要求が、不適切な要求だと思うのである。

よく考えると、神様視点の基準がわかるわけではないのだ。ところが、アドラー的な考え方をもつ人は、よく考えれば、神様視点の基準がわかるという前提でものを言っているのだ。

そして、Aさんのような立場の人は、「自分でよく考えて、相手が言っていることが理不尽なことなら、無視をしていい」と考えるのである。

たとえば、AさんがBさんにおしつけた内容を、Bさんがやらなかったとする。Bさんにとっては、不適切な要求なので、自分が適切だと思う範囲の作業をしたけど、それ以上は、しなかったとする。

その場合、Aさんは、Bさんが当然、自分がおしつけた内容をやるものだと思っているので、Bさんがやらなかった場合は、「たりない」「ちゃんとやれ」ということを言うのである。

このとき、たいていの場合は、Aさんのなかに、怒りの感情がしょうじるのである。まあ、落胆とか絶望とかあきらめという感情が生じる場合もあるけど、『思い通りにいかなかった』ので、たいていの場合は不愉快な感情が生まれるのである。「怒り」の感情がしょうじる場合が、もっとも、多いだろう。

*     *     *

ところで、Aさんが自己責任論者だとしても、現実的な場面では、「すべては自己責任」と考えない場合のほうが多い。

自分が要求した範囲をBさんがやらなかった。そして、やろうとしない。そういうことに関して、Aさんが、「自分の責任だ」と考えるかどうかということが問題になる。

Aさんが、自己責任論者である場合は、当然、このような場合でも、「自分の責任だ」と考えるべきなのである。ところが、普段は、「すべては自己責任だと思っているよ」と言っていても、実際の場面になると、こういう小さなことでも、自己責任とは思わず、怒りの感情がわいてくるのである。

自己責任論は、本来は、アンガーコントロール論なので、こういうところで、怒りを感じないようにするための方便なのだ。けど、実際に、運用されるべきところでは、運用されず、あるていど余裕がある空想的な場面で、「すべては自己責任だ」とひとりで納得しているようなところがある。

ようするに、実際に問題が発生していないところで、「すべては自己責任だ」と納得している場合が多い。自分の部屋にいて、自己責任関係の本を読み、お茶やコーヒーをすすっているときは、「すべては自己責任だ」「俺はそう思って生きていこう」などと思うのだけど、実際に、相手が自分の思った通りに動かなかった場合は、怒りの感情がわいてしまうのである。

そして、たとえば、「思ったことかが現実化する」という考え方を信じている場合でも、「思ったことが生じるはずなので、思ったことが生じるはずだ」と思わないのである。

……Bさんが実際にやってこなかった。……Bさんが実際にやらなかった。……そして、Bさんが、これは不適切な超過範囲要求だと自分に言ってくる……とする。ほんとうのことを言えば、このこと自体が、自分にとって、自分の思った通りのことではないのである。

つまり、Bさんがやってこなかった、あるいは、Bさんがやらなかった時点で、「思ったことが現実する」という考え方は、不適切な考え方であり、頭のなかから削除しなければならない考え方だということが、わかるのである。

わかるのだけど、「明日は雨になる」と言ったあと、実際には、雨にならなかった場合の、言霊主義者の態度とおなじで、その理論にあわない実際の出来事を、無視してしまうということがしょうじる。

無視してしまうと言っても、「お言ったことが生じるはずだ」という視点で考えたことを無視するのである。Bさんがやってこなかったということは、無視していない。

だから、現実認知は正しいのだけど、「思ったことが現実化する」という理論はまちがっているということが、現実の出来事に対応して思い浮かばないことになっているのである。

ともかく、Aさんは、Bさんがやらなかったことについて、不満に思うのである。どうしてかというと、自分のなかでは、それは、適切範囲要求なので、やらなかったBさんが悪いということになるからだ。

「自分でよく考えれば」……神様視点で考えることができて、自分の要求が不適切範囲要求(超過範囲要求)だったということに、気がつくことができるかというと、たいていの場合は、できない。自分の基準が正しいと思っているわけだから、「このくらいちゃんとやらないBさんがまちがっている」ということになる。Aさんのなかでは、そういうことになるのである。

*     *     *

「思えば、思ったことが現実化する」というのは「思えば、一〇〇%の思ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」ということと意味的に等価なのである。

なので、自分が要求した仕事内容を、相手がやってこなかった時点で、「思えば、思ったことが現実化する」という命題が「偽」であるということに気がつかなければならないのである。

ところが、思霊主義者は、相手が自分の要求した仕事内容をやってこなかった場合でも、思霊理論が正しいと思っているのである。

つまり、 「思えば、思ったことが現実化する」という命題が「真」であると思っているのである。思ったままなのである。

これは、おかしなことなんだよ。

自分が相手に要求した時点では、相手は自分が要求した仕事内容をやってくると思っているわけだから……。

思えば、思ったことが現実化するのだから、相手は自分が要求した仕事内容をやってくるはずなのである。相手の能力とか相手の都合とか、相手の考え方とかそういうこととは関係なく、自分が思ったことが現実化するという理論だから、自分が思ったことであれば、相手にかかわることであっても……自分がそう思ったのだから、相手は自分が思った通りに動いて、相手場自分が思った通りのことをやってくるべきなのである。

「思ったことが現実化する」のだから、そうなる。

ところが、思霊主義者は、考えを改めなければならない場面に遭遇した時も、思霊理論が正しいと思ったまま、相手を叱責するというような行動をするのである。いやーー。気がつかなきゃダメでしょ。

すでに、自分が思った通りのことが発生していないのだから、思霊理論が正しくないということに、気がつなければならない。

ところが、「明日は雨になる」と(自分が)言ったのに、雨にならなかった場合の言霊主義者のように、現実のほうを無視してしまうのである。

頭のなかでは、現実に関係なく「言霊理論は正しい」と思ったままなのである。「明日は雨になる」と(自分が)言ったのに、雨にならなかった。これは、言霊理論がまちがっているということなのである。だから、雨にならなかった時点で、そのことに気がつかなければならないのである。

思霊主義者も、実際に発生する、いろいろな現象を無視してしまうのである。理論にあわない現実が発生したのに、現実を認めない。

ところが、じゃあ、まったく現実を無視しているのかというとちがうのである。ちゃんと、思った通りにならなかったということを、認識している。

たとえば、相手が自分の思った通りに動かなかったのなら、相手が自分の思った通りに動かたなかったということを認識して、腹をたてるのである。実際に、無視されているのは、思霊理論の正当性なのだ。現実的な場面では、「思ったことが現実化する」というような考え方自体が、思い浮かばないのである。

現実のプロセスのなかでは、自分の思考リソースが、目の前のことに振り向けられているので、「思霊理論が正しいかどうか」ということに、リソースをさくことが、できないのである。

だから、現実の場面では、思霊理論とは違うことが起こったとしても、それはそれとして処理してしまうのである。

だから、いつまでもいつまでも、思霊理論が正しいと思ったままなのである。

手短にいうと、こういうところで思霊主義者は「むしがいい」のであり、「つごうがいい」のである。思っても、思ったことが現実化しない場合もある……ということを、日常生活の中で、何度も何度も、突き付けられているのに、そのことは、無視して、「思えば思ったことが現実化する」と断言してしまう。

「思ったって、思ったことが現実化しない場合がある」のであれば、当然、「思ったことが現実化する」とは言えないのである。「思ったことが現実化する場合もあるし、思ったことが現実化しない場合もある」ということは、言える。

「思えば、思ったことが現実化するのだから、思えばいい」と言っているときは、思っただけで、思ったことが現実化するのだから、思えばいいということを言っているのである。

「明るいことを思えば、明るいことが現実化する」と言っている場合は、明るいことを思ったのに、暗いことが現実化することはないということを言っているのであり、明るいことをうもったのに、明るいことが現実化しないことはないということを言っているのである。

しかし、実際には「明るいことを思ったって、暗いことが現実化する」場合がある。

そして、「明るいことを思ったって、明るいことが現実化しない」場合がある。「明るいことを思えば、明るいことが現実化する」と言っているときに、明るいことが起こらない場合があるということを考えているかというと、そうではないのである。

明るいことを思ったのだから、明るいことが現実化するに決まっているのである。……思霊主義者の頭のなかでは、出来事に関係なく、「明るいことを思ったのだから、明るいことが現実化する」ということになっているのである。

ところが、ぜんぜん、決まっていないのである。ようするに、最初から、でたらめを言っている。ところが、思霊主義者は、「自分がでたらめを言っている」とは思っていないのである。「真実を言っている」と思っているのである。

もし、思霊主義者に、子どもっぽいずるい部分がなければ、思い通りにいかなかった現実にふれるたびに、「思霊理論はまちがっている」ということに気がつくはずなのだ。ずるい部分があるから、気がつかない。

もしかりに、悪い意図をもつ悪い支配者がいたとする。その場合、悪い意図をもつ悪い支配者は、悪い計画を実行してしまう。その場合、「思ったことが現実化する」と考える人たちが、悪い計画を阻止できるかどうかというと、阻止できない。

「明るいこと」を思えば、明るいことが現実化すると考えているので、ぼけっと、明るいことを空想しているだけだと行こうとになる。

その間に、悪い支配者とその部下は、悪い計画をガンガン先にすすめてしまう。思霊主義者は「悪いことを考えると悪いことが現実化する」と考えているので、支配者層が悪いことを計画して実行しているという悪いことを、思うことができなくなるのである。

なぜなら「そういうふうに思ったら、実際にそうなってしまうから、そう思わないようにしよう」と考えるからだ。

だから、悪い意図をもった支配者がいる場合は、思霊主義者は無力な存在になってしまうのである。無力な存在になるだけなら、ましなのだけど、真実について述べる人の足を引っ張ることになる。

どうしてかというと、真実を述べる人は、暗い現実について、真実を述べるからだ。悪い支配者が悪いことを実行している……ということが、暗い現実なのだから、暗い現実について述べているわけだ。ところが、思霊主義者は「暗いことを言うと、暗いことが現実化するので、暗いことを言うな」と暗い現実について述べている人に、言うわけだ。

暗いことを思わなければ、暗いことが起こらないのであればいいけど、すでに、暗いことが起こっているのだ。もうすでに、暗いことが起こっているのに、それは無視をして、ただ単に明るいことを思えばいいのだと言ってしまう。現実を無視するなと言いたい。

まあ、これは、悪い支配者と部下が、悪い計画を実行している場合の話だ。架空の話だからね……。悪い計画には、何段階かあるとする。一段階目、二段階目、三段階目と進んでいるのに、「悪いことを考えると悪いことが起こるから、考えないようにしよう」と言っているやつらは、悪い計画に協力しているとさえ、言える。

悪い支配者側から見て、思霊主義者が、どれだけ扱いやすいやつらかということが、わかるだろう。こんなに、扱いやすいやつらはいない」と思うだろう。思霊主義者を含めた一般市民側が、こんな体たらくなら、悪い支配者は「しめしめ」と思うだろう。

*     *     *

「思えば、思ったことが現実化する場合もある」と言えばいいのに、「思えば、思ったことが現実化する」と言ってしまうので、それ自体が、一種の「信仰」になってしまうのである。ほんとうは、理論的な文字列が、信仰の対象になってしまうのである。

実際には、理論にはあわないので、現実を無視したり、現実を信仰通りの解釈に結びつけたりするのである。「文字列の内容は常に正しい」ということになっているのだけど、それは、文字列の内容にあわない現実を無視するということによって成り立っている「信仰」なのである。

2025年5月22日木曜日

きちがい兄貴の感覚がへんなので、ぼくが、全体の約四割の人から、へんな人だと思われてしまうのである。

 一日が、ほんとうに、破壊されてしまうのである。工事などの限定期間の騒音ではないのである。工事などの、やる理由がわかる騒音ではないのである。きちがいが、きちがい感覚で鳴らす騒音なのである。きちがいだから、絶対にゆずらない。ほかの人は、きちがい兄貴の、きちがい部分がわからないので、ぼくが言っていることが、おかしいと感じてしまう。だから、約四割の人は、『そんなの嘘だ』と思い、ぼくが嘘を言っているという前提で、物事を考えてしまう。事実なので、差がある。ぼくの認識が事実に基づいた認識で、「嘘に違いがない」という約四割の人の認識は、事実とは関係がない認識なのである。これも勝手に、その人が、その人の常識的な考えと照らし合わせて、「嘘だ」と判断しただけなのである。けど、この判断は、その人が、ぼくの言うことを考えるときの前提になってしまう。きちがい兄貴が、普通の人が考えることができないぐらいに、きちがいなので、普通の人が、普通に誤解をしてしまうのだ。これで、ぼくが、濡れ衣を着せられることになる。約4割の人の、ぼくの行動に関する解釈というのが、すべて、『そんなの嘘だ』と思ったあとの解釈になる。だから、その四割の人のなかでは、ぼくが、すでに、「嘘を言う悪い人間だ」と言うことになっているので、ぼくのすべての行為を、「嘘を言う悪い人間がする行為だ」と認識してしまうのである。ぼくが言うことは、「嘘を言っている人が言うことだ」と認識してしまうのである。こいつらが、ことのごとく、俺に対して、意地悪なことをしてくるのである。こいつらが、俺に対して、俺が不愉快だと感じる発言をしてくるようになるのである。こいつらの発言は、ほんとうに不愉快だ。不愉快以外のなにものでもない。

きちがい兄貴の感覚がへんなので、ぼくが、全体の約四割の人から、へんな人だと思われてしまうのである。

 

「努力をすれば成功する」というのは、努力をすれば成功するはずなのだから、むくわれるはずなのである

 適切範囲要求と超過範囲要求があるとする。基本的には、超過範囲要求は、不適切範囲要求と言い換えることができる。会社に入った場合、上下関係があることが多い。

上下関係に対する考え方はちがうけど、目上の人は、目下の人に向かって、命令することができるというのが、上下関係の中に含まれている。

どこまでが適切な要求範囲であり、どこまでが不適切な要求範囲であるかということについては、人それぞれに基準があり、あいまいなところがある。

ようするに、社会で統一した適切範囲要求と、社会で統一した不適切範囲要求があるわけではないのだ。

しかし、「ここまでは妥当な要求だ」というようないちおうの範囲を、法律が定めている場合もある。しかし、それが厳密に守られることは、むしろ、少なく、ある程度の幅があることになっている。ようするに、会社によるばらつきが大きいし、個人による「ばらつき」が大きいのである。

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実際には、会社のような場所では、上下関係がある状態で、努力をするのが、常態なのである。つまり、普通の状態なのである。なので、ほんとうは「努力をすれば成功する」という言葉は、上下関係がある場合についても、当然に成り立たなければならない。

そして、「人がどう思うか気にする必要がない」という方も、現実社会においては、上下関係が存在している場合が多いのである。

そして、「人がどう思うか気にする必要がない」という考え方のほうが「上司の評価を気にする必要がない」という考え方よりも範囲が大きい。

ようするに、「上司の評価を気にする必要がない」という考え方の集合は、「人がどう思うか気にする必要がない」という考え方の集合に包括されている。「人がどう思うか気にする必要がない」という集合のなかに「上司の評価を気にする必要がない」という考え方の集合がはいっている。上司のほうが、部分集合。

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「不適切な要求」にこたえて、がんばって努力して、不適切だと思う仕事をやったとして、むくわれるかどうかということについて考えてみよう。

不適切な「超過範囲要求」をがんばってやったとしても、むくわれない場合がある。その場合は、努力したのにむくわれなかったということになる。

「努力をすれば成功する」というのは、努力をすれば成功するはずなのだから、むくわれるはずなのである。

けっきょく、「努力をすれば成功する」というのは、現実を無視した「クソ理論」なのである。まず、第一に一〇〇%詐欺が行われているということに、気がつかなければならない。話は、それからだ。

2025年5月21日水曜日

そいつは、「よく考えなおしても」そいつの判断基準で判断してしまう

 アドラーは、「よく考えれば、だれでも正しい結論に至ることができる」と仮定しているのだ。しかし、自分がそう仮定しているということに、気がついていない。

ようするに、「よく考えれば、だれでも正しい結論に至ることができる」と仮定として、判断をしている。

あることが、神様視点で、超過要求だったとする。

しかし、Aさんは、適切要求だと思ったとする。そして、Bさんは超過要求だったとする。その場合、Aさんが、Bさんの言い分をよく考えて判断すれば、Bさんの言い分が正しいことがわかるという、設定なのだ。ばからしい。

「よく考えて判断すればよい」というのが、どれだけ、アホな設定かわからないのか?

そいつの判断基準がすでにそいつのなかにあるのだから、そいつは、「よく考えなおしても」そいつの判断基準で判断してしまう。

なんらかの外的な要因が、かわって、それをAが認識すれば、Aが考え方をかえる場合はある。しかし、それは、判断に影響をあたえるなんらかの要因が、変化し、その変化をAが感じたから、おこる変化なのだ。

Aが、神様視点で考えられるようになるということではない。

「よく考えれば」……相手が言っていることが正しいかどうかわかるので、自分で判断して、相手の言い分を無視すればいいというのが、アドラーの考え方なのだ。

「ちょっと考えると、まちがうこともあるけど、よく考えれば、まちがうことがない」という、暗黙の設定が紛れ込んでいるのだ。

よく考えれば、神様視点の正しい判断基準でものを考えることができる……というわけではない。ところが、あたかも、「よく考えれば、神様視点の正しい判断基準でものを考えることができる」という前提が成り立っている。

神様視点の正しい判断基準という言葉を使うわけではないけどね。なんかもやもやと思っている正しい判断といのは、神様視点の正しい判断基準という意味合いを持っている。

「自分の頭でよく考えれば」……相手の言い分は無視していいのである。「自分の頭でよく考えれば」……相手の感情は無視していいのである。そうすると、「考えた」と思えば、自動的に、相手の言い分や相手の感情を無視していいということになる。だって、考えたのだから、無視していいのだ。よく考えたのだから、無視していいのだ。相手の不満は、相手の問題なのだ。

どれだけ無茶なことを要求しても、相手の問題だと片づけることができるのだ。相手の問題と自分の問題を切り離して考える……。けど、自分の行為がさきにある場合は、相手の問題だと言いきれない場合がある。ところが、「よく考えて」無視して、「相手の問題だ」と思えば、それで、どんな無茶なことを要求しても、「相手の問題になってしまう」のである。

そして、自己責任論が、この判断の後押しをする。たとえ、不満を持っていたとしても、やってしまった、相手の責任なのだ。自分が、無茶なことをおしつけた責任というのは、自己責任論者なのに、まったく頭に浮かばないのである。

2025年5月18日日曜日

『だれだって正しい基準で考えることができる』『正しい基準で考えれば、正しい結論に至ることができる』

 極端に、「人の言うことを気にしない人」というものについて考えてみよう。たとえば、Aさんが、Bさんに、包丁を見せつけた。Aさんは、通り魔で、包丁を見せた時の、相手の反応を見て楽しみたい人だったのだ。そして、Aさんが、Bさんに包丁を見せたとき、Bさんが、Aさんのことをにらんだとする。そうしたら、Aさんが、Bさんにひどい目で見られたと思って、Bさんを刺した。こういう事件が起こったとする。その場合、Aさんは、「Bさんがひどい目付きで見てきたので、頭にきてさした。あんな目付きで見られただれだって腹をたてる。自分よりも、あんな目付きで見てきたBさんがひどい。Bさんが自分にやったことがひどいので、刺されても文句は言えない」と考えたとする。Bさんの家族が、Aさんがひどいやつだと言ったとする。「人の言うことを気にしない」能力が高いAさんは、なにを言われたって、気にしない。それどころか、自分がひどい目つきで見られたのでかわいそうだと思うのだ。Aさんのなかでは、『Bさんがひどいことを自分(Aさん)にしたので、刺されて当然であるわけで、自分(Aさん)がせめられるのはおかしいという感覚がある。「Bさんの家族は、たいしたことをやってない自分をせめてくるので感覚がおかしい」とAさんは思うのだ。だから、Aさんは、Bさんの家族をひどいクレーマーだと思っているだけで、Bさんの家族の言い分が妥当だということに、まったく気がつかない。アドラーは「自分でよく考えて判断すればいい」ということをいっているのだけど、Aさんがどれだけ考えたって、そんなことしか思い浮かばないのだ。相手の言い分が正しいかどうか、「自分がよく考えて判断すればいい」という考え方には、よく考えれば、だれだって正しい基準で考えることができるのだから、正しい結論に至るはずだという『妄想的な前提』が成り立っている。そりゃ、いろいろなやつがいるから、『だれだって正しい基準で考えることができる』『正しい基準で考えれば、正しい結論に至ることができる』と考えてしまうのは、現実的ではない。

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レッサーパンダ事件と呼ばれる事件が実際に起こったのだけど、被害者がアニメ声だったから、加害者は「本気で相手が嫌がっている」と言うことに気がつかずに、刺したというようなことを、主張するやつが出てくる。レッサーパンダ事件と言うのは、簡単に言ってしまうと、障碍者の男性が、女性を刺した通り魔事件のことだ。これは、通り魔事件だ。加害者と被害者の間に、因縁の関係があったわけではない。ただ、路上であっただけ。それまでは、一切合切、面識がない二人だったのである。加害者のほうが、被害者を刺した理由というのが、よくわからないので、いろいろな憶測を呼ぶことになる。加害者本人が動機について明確に話したわけではなくて、誘導されて調書ができあがったという感じだ。ともかく、こういう事件についても、「すべては自己責任」と考える人は、刺された人間のせいだと考えてしまうのだ。ただ単に、歩いていたら、へんな人が、包丁を見せて、へんな表情を浮かべた。なので、相手を見たら、相手が、包丁で(自分)を刺した。こういう場合だって、精神世界の人は、刺されたほうの自己責任だと言ってしまうのだ。そして、冒頭のアニメ声だったからというのも、じつは、被害者側の責任を追及しているのである。アニメ声でなければ、刺されなかったかもしれない。アニメ越えではない声で、「やめて」と言ったら、加害者は「やめた」かもしれない。それなのに、アニメ声で「やめて」と言ったので、加害者が、ほんとうにいやがっていると思わずに、包丁で(アニメ声の相手を)刺して、殺したということになる。こういうことを言う人の頭のなかでは、「やめて」とアニメ声で言わなかったことが、過失になるのだ。落ち度になるのだ。だから、被害者側にも、落ち度があるということになってしまう。こんなの……ない。アニメ声でない声で「やめて」と言ったらやめたはずだというのは、単なる想像なのである。アニメ声でない声で「やめて」と言ったって、刺したかもしれない。勝手に、「アニメ声だから、わからなかった」と言っているやつが、そう思っただけなのである。しかし、相手が本物の包丁を持って、近づいてくるのに、「やめて」と本気で言わない人なんているのだろうか。加害者が障害者だから「相手が本気で言っているとは思わなかった」とその人は思っているのだ。まあ、その人というのは、アニメ声でない声で、「やめて」と言ったら、加害者は被害者を刺さなかったと勝手に想像している人のことだ。とりあえず、この人のことを、Aさんということにしておこう。Aさんの考えでは、本気で刺そうと思って近づいてきた加害者に対して、被害者が「やめて」とアニメ声ではない声で言ったから、刺されたということになる。こんなのは、おかしいだろ。刺すつもりで、相手に近づき、刺すつもりで、相手を刺したのだ。どんな声で、「やめて」と言っても、刺したはずだ。じつは、加害者は知的障碍者なのだけど、知的障碍者だから、相手が、「本気でやめて」と言っていることに気がつかなかったというのが、Aさんの意見なのだ。いやーー。そりゃ、ないだろ。どれだけ、太い声で「やめろ」と言ったって、本気で刺すつもりで、刺したのだから、やめなかったと考えるのが筋だ。ようするにAは、加害者が知的障碍者だから、相手が『本気で』やめてと言っているということがわからなかったから、刺したとAさんは言うのだ。こんなの、ない。冗談で、刺すふりをしたら面白いだろうなと思って、刺したわけではないのだ。それこそ、本気で、相手がなにを言っても、かまわずに刺したのだ。相手が、アニメ声ではない普通の声で「やめて」と言ったら、やめてやるつもりで、ふざけるつもりで、刺すような真似をした? そんなことはないだろ。ふざけるつもりで、刺すような真似をしたのだけど……相手が、本気で「やめて」と言わなかったから、そのまま、ほんとうに刺した? そんなことはないだろう。ふざけてさすようなふりをするために(相手に)近づいたのではなくて、最初から、刺すつもりで、相手に近づいたのだ。相手が『本気で』やめてと言ったら、刺すのをやめるつもりだったけど、相手が『本気で』やめてと言っているようには思えなかったので、刺した。どれだけゆがんだ考え方をもっているのだろ? Aさんの考え方は、ゆがんでいる。相手が普通の声で「やめて」と言ったら、刺さなかったけど、相手がアニメ声で「やめて」と言ったから、刺した。被害者の女性が、女性らしい声で「やめて」と言ったので、相手がほんとうにいやがっているとは思わずに刺した。こんなのは、おかしい。Aさんの考え方は、事態を混乱させるだけだと思う。Aさんがどうしてこういうことを言うのかというと、Aさんは、自分が障害者の味方のつもりだから、こういうこと言うのである。しかし、Aさん自身は、公平に判断しているつもりなのである。こんなのは、ない。障害者に肩入れしているので、障碍者が加害者である事件に関しては、加害者側に立ってしまうのである。Aさんは、そういう人なのである。公平なわけがない。

けど、Aさんだけではなくて、「すべては自己責任」と被害者側の追及をしている精神世界の人も、相当に、加害者に肩入れをした意見をもっていると思う。

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だれだって正しい基準で考えることができるのだから、正しい結論に至るはずだ……と思っている人たちは、実際に起こった事件の前では、口をふさいでしまうのである。

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刺したほうの責任は追及されず、刺されたほうの責任が追及される。おかしな世の中だ。自己責任論なんてものがはやってから、やったやつの責任ではなくて、やられたやつの責任を問う世の中になってしまった。こんなのはおかしい。しかし、自己責任論がはやっているので、ほとんどの人がおかしいとは思わないのだ。こんなのは、おかしい。自己責任論者が、おかしいと思わないのもおかしい。善悪の基準が麻痺している。自分がどれだけ、でたらめなことを言っているのか、まったく、気がついていないんだよなぁ……。こんなのはない。自己責任論者が増えたことで、世の中は、悪くなった。自己責任論者が増えるまえよりも、あきらかに、悪くなった。なぜ、悪いことをやった人の責任が問われず、悪いことをされた人の責任が問われるのだ。こんなのおかしいだろ。これがおかしいと思わないのは、おかしい。「すべては、自己責任」なんてよく言うよ。それなら、自己責任論を信じることで、自己責任論者の数を増やしたことに、責任を感じるべきだ。自己責任論者が増えると、社会が悪くなる。やったらやりがちの世界になってしまうからだ。

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構造的には「やられている」側の人間が「自己責任」などと言いだす。支配者層は、ウハウハだな。ほんとうに、奴隷根性を植えつけられて、条件が悪い人をいたぶりはじめる。「自己責任」と言っている「やられている側の人間」が……「条件が悪い人」に圧力をかけようとする。考えが、たりないんだよ。こんなやつばかりだ。

2025年5月17日土曜日

これは、一種のダブルバインドになる。

以前も、指摘したのだけど、アドラーのように、努力論の立場をとる人であり、なおかつ、人の言うことは気にしなくてもいいという立場をとる人は、ほかの人に対して、圧力をかけている。ようするに、努力論で、ダメ出しをしておいて、相手が、ダメダシされたということを気にすると、「ほかの人の評価なんて気にする必要がない」と言い出す人だ。これも、一種のダブルバインドなのである。ダメな評価を自分が他人に出して、他人が気にすれば、「他人の評価」なんて気にする必要がないということを言い出すのだ。この場合の「他人の評価」というのは、ダメ出しをした。自分の(相手に対する)評価だ。自分と他人という言葉を使うと、誤解が生じるので、いちおう、AさんとBさんに登場してもらおう。Aさんが、Bさんに対して「Bさんは努力をしていないダメな人間だ」と評価したとする。そして、別の機会に、Aさんは、Bさんに対して「他人の評価なんて気にする必要がない」と言ったとする。「他人の評価なんて気にする必要がない」のなかの「他人」にAさん自身が含まれているのである。Bさんにとっては、Aさんも他人だからだ。他人であるAさんがくだしたBさんに対する評価を、気にしなくてもいいということを、AさんがBさんに言ったことになる。だから、これは、一種のダブルバインドになる。


うちのきちがい兄貴には、それが本当になかったんだよ。

 「やめろ」「やめろ」と言っているのに、ものすごい音で鳴らして、やめてくれなかった。毎日、毎時間、毎分、毎秒、ずっとずっと、そうだった。やめてくれなかった。あの引きつる……ものすごい騒音のなかで生きてきた。普通にやられることが、あの騒音のなかでは、できない。けど、きちがい家族と一緒に暮らしていない人は、それがわからない。きちがい家族ではない人は、どれだけ鳴らしたくても、あんな音で鳴らさないから、からない。だれを中心にして家族というかという問題があるのだけど、正常な家族とだけ暮らしている人は、きちがい的な家族が、きちがい的な意地で、鳴らす騒音に、さらされることがないのである。きちがいでなければ、そもそも……そういう音……で……鳴らそうとも思わないのである。きちがいでなければ、「やめてくれ」と何十回も、言われ続けたら、やめてあげるのである。きちがいでなければ、「やめてくれ」と何百日も、言われ続けたら、やめてあげるのである。それが、きちがいだからできない。きちがい感覚で鳴らし続ける。きちがい的な意地で……『絶対に、一分間だってしずかにしてやらない』という気持で、鳴らし続ける。けど、きちがいだから、自分がそうしているということが、まったくわからない。これ、ほんとうに、きちがい的な意地でやっていることが、まったくわからないのだ。一日に、何十回も文句を言われているということが、わからないのだ。普通なら、自分だって騒音にさらされると腹がたつという経験をしているのだから、立場を入れ替えて考えて、「ああ、ああいうふうに腹をたてているのだな」と思う部分が……あるのだけど……うちのきちがい兄貴には、それが本当になかったんだよ。

彼らにとっては「架空の話」だ。彼らにとっては、「仮定の話」だ。

ほんとうに、どれだけがんばっても、鳴っていないときとおなじ体では、生きられないのに、それがわかってないやつらばかりなんだよなぁ。あれだけ、きらいな音を……ガンガン鳴らされて……鳴らされていないときとおなじ状態で生きられるわけがないだろ。どれだけ、影響をうけないようにしても、影響をうける。不可避的に影響をうける。ところが、やられたことがないやつは、そこを無視する。自分なら平気だ」と、普通に考えてしまう。そして、「自分なら平気だ」と決めつけてしまう。そうなると、影響をうけているやつは、自分よりも弱いやつだと思うようになるのである。けど、その人たちには、きちがい兄貴のような家族がいないので、実際に、きちがい兄貴のようなきちがい家族が鳴らす騒音にさらされることがない。さらされ続けることがない。だから、誤解をしてしまう。そして、誤解をしたことに気がつかないまま、俺に、ラベリングをする。「自分よりも弱いやつ」「自分だったら気にしないような騒音を気にして、グダグダ言っているやつ」というラベリングをする。実際、ヘビメタ騒音によって……きちがい家族のきちがい騒音によって……ほかの人がまったく体験していないきちがい的な騒音によって……体が弱くなっているのである。鳴っていなければ、できることが、まったくできなくなっているのである。これも、持続期間というものをまったく考えない、ろくでもないやつらが、持続期間が長いと、どうしてもしょうじるいろいろなことを無視するのである。これも、やられていないやつは……きちがい家族にやられたことがないやつらは……やられたことがないので!……ごく普通に、無視できるのである。彼らにとっては「架空の話」だ。彼らにとっては、「仮定の話」だ。実際にさらされているわけではないのである。実際にさらされて、それでも自分は平気だったから平気だと思っているわけではないのである。実際にさらされていない状態で、自分だったら平気だろうと想像しているだけなのである。けど、実際やられていないので……実際にやられた生活を続けたことがないので……想像というよりも、確信になってしまうのである。「自分なら平気だ」と決めつけてしまう。だから、こいつらの頭のなかでは、「自分ならそんなの、平気だ」「自分なら影響をうけずに暮らすことができる」と言うことになってしまうのである。自動的、そうなってしまうのである。決めつけたことさえ、忘れてしまう。事実、そうだと思ってしまう。自動的に、自分なら平気だと……あたかも、自分がほんとうに体験して、平気だと思った場合の境地に到達してしまうのである。もちろん、実際には、経験していないのである。経験したことがないから、どうなるかわからないだけなのである。けど、本人が決めつけているし、本人が決めつけたことで、なんの不都合も生じないのである。不都合は生じないし、自分はエイリよりも優れていると感じることができるので、好都合なのである。だから、絶対に、手放さない。ぼくに、説明されても、「自分なら平気だ」という思い込みが、ずっと続くのである。

2025年5月15日木曜日

「できると言えばできる」も「努力すればできる」もおなじような「機能」をもつ言葉なのだ

  経営者側ではなくて、従業員側にも言霊主義者がいる。経営者も従業員も、カネがほしいなら、言霊の力を使って金を儲ければいいのである。ところが、ほんとうは、そんなことはできないので、経営者は会社を経営して金を儲け、従業員は、従業員として雇われて、金を儲けるのである。言霊の力を使って、問題を解決している話ではないのである。

そして、たとえば、ブラック企業の経営者が「できると言えば、できる」と言ったとしよう。名前だけ店長に、サービス残業をおしつけるときの言葉だ。言霊理論が正しいなら、サービス残業なんておしつけなくてもいいのである。言えば言った通りになるので、言えばいいだけの話だ。言えば、その通りになるので、言えば、どんな問題も解決してしまう。サービス残業をおしつけて、せこく、金儲けをしなくてもすむのだ。

名前だけ店長が、もう無理だと考えていたとしよう。だから、「できません」と言う。「できないというからできない。できると言えばできる』というのが、ブラック社長の答えだ。何度も言うけど、ブラック社長の立場なら、「できると言えばできる」という意味がある。おしつけたいだけなのだ。そして、それは、自分のふところに、カネをもってくる言葉なのだ。しかし、従業員のほうが「できると言えばできるというのは正しい」と言って、ブラック社長の味方をするのである。従業員が言霊主義者の場合は、「できると言えばできる」という言葉に、疑問を感じない。正しいと思っているから、正しいと言ってしまう。それが、名前だけ店長を追い込むのだ。言霊主義者の従業員は、ブラック社長に同調して、協力して、名前だけ店長を、追い込む。もちろん、いいことをしていると思っているのだ。正しいことを言っていると思っているのだ。……言霊主義者である従業員は、自分の行いが正しいことだと思っている。しかし、実際には、名前だけ店長を追い込むだけだ。名前だけ店長は、従業員がブラック社長の味方をしているということに、気がついて、絶望して、死んでしまう。これ、うしろのほうから、おなじようにブラック社長に搾取されているにもかかわらず、ブラック社長の言い分を肯定するやつが出てくるということが、どういうことなのか、理解していないのだ。言霊主義者の従業員は、そんなことは理解していない。考えない。自分だって、搾取される側なのに、「できると言えばできる」という言霊主義的な言葉が、正しいと言ってしまうのである。言霊主義を悪いことに利用しているブラック社長に賛成してしまうのである。こんなの、ないだろ。名前だけ店長じゃなくても、「うっっ」と思うよ。「ああ、なにも話が通用しない」と思うよ。「こいつらに何を言っても、頭がおかしい答えが返ってくる」と思うよ。しかも、自分の側についていいはずの従業員が、ブラック社長の味方をするのだ。つかれはてているのに、こんなことをされたら、猛烈にへこむよ。

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「できると言えばできる」も「努力すればできる」もおなじような「機能」をもつ言葉なのだ。妄想的な言葉なのに、正しい言葉として流通してしまう。「Xをすれば、できる」というかたちになるのだけど、 一〇〇%詐欺と法則性詐欺が成り立っている。「Xをすれば、Yできる」というかたちにしてもいい。Yには、内容がはいるのだ。その内容は、おしつける側にとって都合がいい内容だ。

上から下に、こういう妄想的な言葉をおしつけて、Yをさせようとする。もちろん、個人のしあわせをうばっている。こういう、前向きな言葉でも、実際には、個人のしあわせを奪うことが可能なのだ。だから、ほんとうは、後ろ向きな言葉なのだ。はっきり言えば、悪意がある言葉なのだ。もともとは、「できると言えばできる」という言葉は、ただ単に、まちがっている言葉であって、悪意がある言葉ではない。しかし、会社のなかで使われるとなると、使われる場所が限られているので、悪意がある人が使うということになるのである。それに、悪意はないけど、言霊的な考え方に慣れ親しんでいる人が、賛成してしまう。こんなのは、ない。社長が、「楽しいと言えば楽しくなる」と言う場合も、要注意だ。仕事でいやなことがあっても、「楽しい」と言えば、解決してしまう。だから、そうやって解決すればいいという話になる。ただ単に、いやなことではなくて、構造的に問題があるとしたらどうなる? 構造的な問題が、高頻度で発生してしまうではないか。その問題を、言霊の力で解決したほうがいいんじゃないか。ほかの人に負担をかけて、我慢させる方便として、「楽しいと言えば楽しくなる」と言う言霊的な言葉が使われる……。言霊主義者はそういうことに、疑問をもたないばかりか、賛成してしまう。従業員側にいても、言霊主義者は、言霊的な言葉には賛成してしまう。正しいと「自動的に」思ってしまう。こんなやつらがいっぱいいたら、ほんとうにこまっている人は、音(ね)をあげてしまう。自殺しようと思ってしまう。

問題なのは、「努力すればできる」というのも、言霊的な言葉とおなじような意味をもつということだ。「できるできると言って努力すればいい」ということになってしまう。「努力できる」と言えば、「努力できる」のである。「努力すればいいじゃないか」ということになる。条件が悪いと、むりなことが重なるので、できなくなるのである。

まあ、家できちがい的な家族が、きちがい的な騒音を兆時間鳴らし続けるというようなハンディがある場合は、「努力すればできる」と言ったって、できくなるのである。問題なのは、きちがい的な騒音が長時間鳴っているということだ。きちがい的な騒音が長時間鳴っているという条件が、できないからだをつくるのである。それを「できると言えばできる」と言う解決法で解決できるかと言うとできないのである。ハンディというものがあって、ほかの人は、ヘビメタ騒音のハンディを軽く見るけど、非常に重たいものだった。自分がきらいな音でやられ続けたら、どれだけ、きちがい家族の騒音が、自分の体調に影響をあたえるか、わかるよ。わかるようになるよ。けど、やられていない人にとっては、自分の問題ではないので、軽く考えたり、無視してしまうのである。

そして、言霊主義者なら「できると言えばできる」と言い、努力論者なら「努力すればできる」と言うのだ。いやーー。きちがいヘビメタが鳴っている状況で生きているということ自体が、ものすごい努力のたまものなんだけどなぁ。まるでわかってないなぁ。

長い間つもった場合のことなんて無視しやがるのである。自分が体験してないから、まったくわかってないだけだ。けど、かならず「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言うのだ。こいつらは……。

たとえば、「どんなにつらいことがあっても、一日の終わりに、楽しいと言えば楽しくる」という言葉を社長が言ったとする。「言霊社員」や「努力論社員」は、その言葉が、いい言葉だと思って、賛成してしまうのである。そうなると、この人たちとはちがう苦労があるぼくは、めちゃくちゃに不愉快な気持になるのである。ものすごいハンディなんだよ。「楽しい」と言ったって、楽しくなるわけがない。ヘビメタがなくなってくれなければだめだ。そして、居間だから言えることなのだけど、一年以内に、鳴りやまなければだめだ。どこまでも、どこまでも、影響がある。

ストスレ対抗期間というべきものがあると(ぼくは)思う。その期間をすぎてしまうとだめなのだ。その期間をすぎて、ずっとずっと、おなじ気ちがいストスレがくわわる生活をしていると、全部がダメになる。ダメになったあと、なおらない。この期間のことをストレス超過期間ということにする。その場合、「楽しいと言えば楽しくなる」とか「できると言えばできる」とか「努力すればできる」と言っているのは、幸運にも、きちがい家族と一緒に住んだことがなく、きちがい家族が、きちがい騒音を鳴らすということがなかった人たちなのだ。この人たちだって、「自分だって苦労した」「自分だってつらいことがあった」と言う。言うけど、程度と期間の長さがちがうんじゃないかな。ぼくとおなじようなことを経験した人が、「楽しいと言えば楽しくなる」とか「できると言えばできる」とか「努力すればできる」と言っていられるとは、到底、思えない。

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そういえば、「人の嫌がることはやめましょう」なんてことを、精神世界の人が言ったりするする。「できると言えばできる」というような言葉が、実際にどういう場面で使われているかわかっているのかな?  人が嫌がることを、人におしつけるときに、使われるんだよ。もちろん、すべての場合ではない。そういう使われ方をする場合が、多い。だから、言霊主義者は、「人の嫌がることをやらないようにしよう」と思っているのであれば、ブラック社長が名前だけ店長に、サービス残業をおしつけようとしているときに、「できると言えばできる」というようなことに賛成するべきではない。いやーー。気がつかないかもしれないけど、そういうことを言われて、名前だけ店長は、嫌がっているよ。店長が嫌がることを、言霊主義者の従業員がしている。まちがっていることに、従業員の立場なのに、賛成してしまう……裏切り者のようなやつがいるんだよね。

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宗教の勧誘というものについて考えてみよう。もちろん、宗教の勧誘が気にならないという人も、わずかだけど、いる。「人の嫌がることはやめましょう」ということについては、たいていの宗教的な人が賛成するんじゃないかな。宗教の人は、まったく気がつかないけど、多くの人は、宗教の勧誘をされたくないと思っているんだよ。迷惑行為だと思っているんだよ。宗教の勧誘をする人は、きらわれているよ。宗教の勧誘をされたくないと思っている人は多い。「人の嫌がることはやめましょう」と言っているのだから、宗教の勧誘は、やめたほうがいい。だって、嫌がっている人のほうが多い。人の嫌がることは、やめましょう。

 

 

きちがい兄貴がいないところで、恥をかかされる。

ヘビメタ騒音……きちがい兄貴がいないところで、恥をかかされる。どんだけ、きちがいヘビメタ騒音のなかで、がんばったか。ヘビメタ騒音を鳴らされたあとがんばったか。けっきょく、ストレス対抗は、続かない。がんばってもがんばっても、ボロボロになっていく。そして、きちがい兄貴がいないところで、恥をかかされる。もう、いやだな。

くそ凡人が、なめてかかってくる。もう、いやだな。

2025年5月14日水曜日

これが、ずっと続いて、いいわけがない。

 「俺の人生はなんだったんだ?」って話だよ。

ほんとうに、なんだったんだ?

きちがい兄貴のきちがい騒音と、きちがい親父のきちがい行為。ずっと、たたっている。ずっと、たたられている。睡眠回路の根本的なところを破壊されたし、通勤通学ができないほど、体力がない。生活体力がまったくない。そして、人生の重要な期間である「学生時代」を全部とられた。「そんなの鳴ってなくても、たいしたちがいはない」と、くそ凡人が言うけど、そんなことがあるはずがない。きちがい野郎は、自分の人生のなかで、きちがい家族による猛烈な騒音がなかっただけじゃないか。やられてないから、わかってないだけなんだよ。だいたい、俺の説明を聞いて、「たいした騒音じゃない」と思えるのは、どうかしている。頭が、ぱっぱらぱーーーなんじゃないか。俺の説明を聞いて「そんなの関係がない」と思えるのは、どうかしている。頭が、ぱっぱらぱーーーなんじゃないか。ほんとうに、夜郎自大な性格で、相手の立場に立って考えることができないんだよ。この、相手の立場になって考えることができないというのは、きちがい兄貴やきちがい親父もおなじだ。もちろん、くそ凡人のほうが、異常ではない。普通に、想像力がないだけ。きちがい兄貴ときちがい親父のは、強烈だからなぁ。ほんとうに、きちがいだ。あそこまで、相手の立場がわからないやつというのは、いない。くそ凡人ばかりの世界でも、きちがい兄貴やきちがい親父は、質がちがう。もちろん、悪い意味で、質がちがう。ほんとうに、異常な個体(たち)なんだよ。きちがい親父やきちがい兄貴とくらべると、くそ凡人は、まともだ。はるかにまともだ。けど、「そんなの関係がない」とか「そんなの、影響ない」とか「鳴ってなくたっておなじだ」とかと言うのは、ゆるせない。きちがい兄貴が、きちがいでなければ、こんなことを、くそ凡人から言われなくてもすんだ。ほんとうに、きちがい兄貴が特殊だから、くそ凡人には、想像できない存在なのである。そして、くそ凡人が想像できない存在がやることの影響は、くそ凡人にはまったく想像できない。くそ凡人の場合は、想像力がないだけなのである。きちがい親父やきちがい兄貴は、もっともっと、もっともっと、根本的なところでこわれている。普通の人がわかることがまったくわからない。普通の人にはある脳みその部分が欠落している。普通の人なら、あるはずの「脳みその部分」がない。ないから、わからない。くそ凡人は、そうじゃない。くそ凡人の場合は、経験がなく想像力がたりないからわからないだけ。きちがい兄貴のわからなさや、きちがい親父のわからなさというのは、普通の人のわからなさとは、また、ちがうようなところがある。「わからなさ」自体が普通の人ではないのだ。うちの兄貴やうちの親父は、「わからなさ」自体が普通の人とは、ことなる。だから、普通の人の場合、家族に、うちの兄貴やうちの親父のような人がいないわけだから、うちの兄貴やうちの親父ような人間にやられるということがない。うちの兄貴やうちの親父ような人間がやることがわかってない。やられたことがないので、どういう調子でやるのかまったくわかってない。きちがいはきちがいだから、絶対に言うことなんて聞かない。殺すしかない。やめさせたければ殺すしかないのだ。だから、いつも、突き付けてくるわけ。突き付けてくる。これ、ピンチになるんだよ。きちがい兄貴の騒音なんて、本当は、ないはずのハンディなんだぞ。ほかの人は、まったく想像することもできないハンディなんだぞ。これが、ずっと続いて、いいわけがない。きちがい兄貴のヘビメタのせいで……常に、ピンチなんだよ。大ピンチ。くるしくて苦しくてたまらない。くそ凡人はわかってないけど、俺は、毎日精いっぱい、たえてたえて、生きてきた。くそ凡人から見ると、俺がさぼっているようにしか見えないのだ。くそ凡人から見ると、くそ凡人にだってある不愉快なことを、俺が経験しているだけなのだ。くそ凡人にはないよ。ほんとうに、同等のことを経験していたら「そんなの関係がない」とか「そんなの、影響ない」とか「鳴ってなくたっておなじだ」なんて、言えるわけがないんだよ。「そんなの関係がない」とか「そんなの、影響ない」とか「鳴ってなくたっておなじだ」とかと言ってしまうあたり、わかってないことの証拠なんだよ。同等の経験がないことの証拠なんだよ。

ともかく、きちがい兄貴にやられて、不可避的に、眠れなくなるのである。ともかく、きちがい兄貴にやられて、不可避的に、勉強することができなくなるのである。不可避的に……という部分が、くそ凡人にはわからない。不可避的ではないと考えているから、「そんなの関係がない」とか「そんなの、影響ない」とか「鳴ってなくたっておなじだ」とかと言う。不可避的だということがわかってないのは、その環境下で、暮らしたことがないということだ。どれだけがんばっても、つねにピンチだ。これ、ほんとうに、体力も、判断力も、理解力もさがるのである。そして、ほんとうに、寝不足による注意散漫で、トラブルがしょうじる。どれだけがんばって暮らしていても、きちがいヘビメタが鳴っているわけだから、あとからあとから、つかれがおそってくる。がんばればよくなるような状態じゃないのである。まったく、ここらへんのことがわかってないやつらが「そんなの関係がない」とか「そんなの、影響ない」とか「鳴ってなくたっておなじだ」とかと言う。くそですねーー。くそですねーー。

2025年5月13日火曜日

たいして成功していない人も、目下の相手になら「努力をすれば成功する」と説教することができるのである

  ごくごく、手短に言うと、「努力をすれば成功する」というような考え方がはやっていると、その文だけ、不幸度が増すかもしれない。「努力をすれば成功する」というのは、条件を無視した文言だ。だから、まず、条件を無視しているという性格がある。「自分のほうが上だ」と思っているやつが、自分自身の成功度は無視して、自分より下だと思っている人間に対して「努力をすれば成功する」という場合は、「努力をしていないおまえはだめだ」という負のメッセージが含まれているのである。「努力をすれば成功するのに、おまえは努力をしないから成功しない」というメッセージは、ネガティブな意味を含んでいるのである。「努力をすれば成功する」のだから、ポジティブなメッセージだと言っている本人は思うかもしれないけど、言われた人は、その行為全体が不愉快なものであり、ネガティブな感情を抱くのである。そして、努力論者は、人には、努力をすすめるけど、本人は、それほど努力をしてない場合がある。これは、相手が自分より下だと思っている自負心から生じることだ。相手に、努力をすすめるということは、相手の努力がじゅうぶんではないという認識を(本人が)もっているということになる。「努力をすれば成功する」とはっぱをかけることが、ネガティブな行為なのか、ポジティブな行為なのかということは、一方的に決められるものではない。「努力をすれば成功する」という考え方が、広まってないほうが、人が自由に生きられたかもしれないのである。成果を出していなければ、どれだけ努力をしても努力をしたとは認められないので、努力をしてないということになるのである。実際に成功していないから、努力をしなかったということになってしまうのである。なぜなら、努力をすれば成功するはずだからである。努力をしないから、成功しなかったのだということになる。しかし、成果というのが、これまた、相対的なものなのである。だから、なんとだって言える世界で、なんだか正しそうなことを言っているだけだということになる。

言霊主義者は、「明日雨になる」と言って、雨になった場合は、「言ったことが現実化する」という言霊理論が正しいということを確信してしまう。しかし、これは、まちがった思い込みだ。そして、言霊主義者は、「明日雨になる」と言って雨にならなかった場合は、「自分が雨になると言ったのに、雨にならなかった」という事実を無視してしまうのである。 あたった場合は、注目して、あたらなかった場合は、注目しないのである。

そういうことが、じつは、努力論者の頭のなかでも起こっている。努力論者が、自分の成功について、考えるときは、成功のほうをいじって、動かしてしまうのである。成功の内容」というのは、いかようにでも、決められるものなのだ。本人にとっての「成功」だから、なにか外部の客観的な基準があるわけではない。本人にとって、自分が思う範囲で成功したなら、成功したということになってしまう。この場合は、「明日雨になる」と言って雨になった場合の言霊主義者とおなじように「努力をすれば成功する」というのは正しいと確信してしまうのである。

なんらかの落ち度が他人にあると認識した場合は、なんらかの落ち度がある他人は、努力をしない人になるわけなのである。なんらかの落ち度がある他人……は、じゅうぶんな努力をしたことにならないのである。たとえ、なんらかの落ち度があるということがまちがっている認識だとしても、なんらかの落ち度がある他人は、努力をしなかった人になるのである。AさんとBさんがいたとする。Aさんが、Bさんは成功していないと思えば、Aさんのなかでは、Bさんは、努力をしてない人になるのである。だから、自分のほうが「上だ」と思っているAさんは、Bさんに対しては「努力をすれば成功する」とえらそうにいうことができるのである。これが、ポジティブな発言なのか、ネガティブな発言なのかはわからない。

Aさんが、Bさんはだめだと思うには、それなりに根拠がある。それは、属性に関する偏見が関係している場合と現実的な意味での上下関係が関係している場合がある。まあ、主にこのふたつなんだけど、ともかく、「だめだなぁ」と思ったら、その人のなかで相手は、ダメな人になって、努力をしてない人になるのである。「だめだなぁ」と思う相手は、たいていの場合は、成功していないように思えるのである。

ちなみに、属性に関する偏見というのは、たとえば、相手が「無職」なら、「無職だからダメだ」と思う場合に発揮される偏見だ。いっぽう、現実的な意味での上下関係というのは、たとえば、職場での上下関係のことだ。役職が上の人は、役職が下の人を自分よりも下だと認識しやすいのである。自分よりも成功していないのだから、自分よりも努力をしてないということになり、自分が役職的に下である相手に……「努力をすれば成功する」と説教するのは、適切な行為だということになる。もちろん「自分自身」のなかでそう思っているだけだ。

「努力をすれば成功する」という文は、それだけ抜きだせは、空中に浮かんでいるような文なのだけど、実際には、関係性のなかで発せられる文である場合が多い。「本に書いてある場合」は、関係性が薄れてはいる。しかし、なにかその人のことを尊敬しているので、本を読む場合は、あるていど、上下関係があると想定することができる。評価をして、上に見ているからだ。

ちょっと、言いにくいのだけど、たいして成功していない人も、目下の相手になら「努力をすれば成功する」と説教することができるのである。これは、まあ、負のストロークをあたえたことになるだろう。けど、「努力をすれば成功する」という文は「努力をしないから、成功しない」という文よりも、ポジティブであるような印象をあたえるし、「努力をしても、成功しない」という文よりも、ポジティブであるような印象をあたえる。しかし、「努力をすれば成功する」と言われたほうが、かならず、ポジティブな気持になるとはかぎらない。言われたほうが、ネガティブな気持になる場合がある。どうしてかというと、「努力をすれば成功する」と言っているほうが、自分のほうが上だみなしている場合があるからだ。文が関係性のなかに埋め込まれた場合、その文がポジティブな意味をもつのか、ネガティブな意味をもつのかということは、一概には決められない。また、言うほうと言われるほうでは、気持ちがちがうのだから、「努力をすれば成功する」という文に対する印象もちがってくるのである。

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けっきょく、言いたいことはなんなのかというと、「努力をすれば成功する」という言葉が、社会の不幸を増やしているのではないかと言うことなのである。ほんとうは、条件が非常に重要なのだけど、伝統的に、条件を無視することになっているのである。条件を無視した「努力をすれば成功する」という言葉は、社会の圧力を高めるような効果がある。

2025年5月11日日曜日

他人が経験したプロセスがわからないので、見た感じで、ラベリングをしてしまう

 きちがい家族がおらず、きちがい家族の異常な騒音攻撃を経験したことがない人は、それがどういうことなのか、わからないのである。けど、わからないということもわかってないのである。自分の騒音経験をもとに、ぼくの騒音経験をものすごく、軽く考えるのである。あるいは、無視するのである。もちろん、無視できるのは、実際にやられてないからだ。それだけしかない。こいつらが、実際にやられても、平気だというわけではないのだ。ところが、実際にやられていないので、「平気だ」と思ってしまう。

そして、世間には、たとえば……「努力をすれば成功する」というようなへんな言葉がある。この言葉は、実際には、意味のあることを言っていないにも関わず、意味があることを言っていると思っている人たちがたくさんいるという状態になる。この人たちは、「努力をする」ということが、一意に決められないということにすら、気がつかない人たちだ。この人たちの思考力は限られているのである。だから、一〇〇%詐欺をして、法則性詐欺をしてしまう。そして、自分のことと、他人のことをわけて考えるのだけど、それも、自分がそういうことをしているということに気がつかないというありさまだ。これは、言霊主義者が、自分の現実的なことに関しては、現実的考えるけど、他人の現実的なことに関しては、言霊的に?考えるということに似ている。そして、普段、自分が自部分の現実的なことに関しては、まったく言霊的なことを考えないということについて、無自覚なのだ。でっ、まあ、こういうことに関しては、ここで説明してきた。言霊に関しては、まあ、言霊にこだわる人にかぎられてるけど、努力論に関しては、日本社会のほぼ全員が、なんとなく、努力論を支持してしまっているところがあると言えるほど、支持されている。しかし、努力論にも、言霊理論とおなじような誤謬があり、最初からまちがっている。まちがっているのだけど、正しいこととして、流通してしまっているという状態がある。これは、不健康な状態なのである。たとえ、「努力をすれば成功する」ということを信じて、「自分は、努力をして、成功した」と言っている人が社会のなかにいたとしても、「努力をすれば成功する」という言葉は、社会全体としては、社会が悪化するような言葉なのである。この言葉は、他人に圧力をかけるための言葉であり、成功だと思っている成功は、副作用でしかない。個人的には、「努力をして成功した」と思って、一時的にいい気分になるかもしれないけど、社会全体には、不幸をもたらすものなのである。

自己責任論について述べたとき、自分を対象とした自己責任論と、他人を対象とした自己責任論があるということを述べたけど、「努力をすれば、成功する」という言葉にも、自分を対象とした努力論と、他人を対象とした努力論がある。他人を対象とした努力論に関しては、自分のなかに、社会的なラベルとしての成功のイメージがあり、自分を対象とした努力論に関しては、過程などを重視した自分なりの成功のイメージがあるのである。だから、「成功」と言っても、意味がちがうのである。そして、相手が敗者であるように見えるときは、「この人は、成功していない」とみなす傾向がある。ようするに、敗者である属性をもってるものに関しては、「この人は、努力をしなかったから、成功しなかったのだ」と考えがちなのである。しかし、成功したかどうかなんて、わからないのである。だって、成功の意味がちがうのだから。努力についても、一意に内容が決まらないのだけど、成功についても、一意に内容が決まらない。言霊主義者だって、自分が現実的に体験したことに関しては、自分がプロセスを知っているので、言霊的な考え方をしないのである。しかし、他人に関しては、他人が経験したプロセスがわからないので、見た感じで、ラベリングをしてしまう。こういうところに、人間の限界があり、その限界が、悪く働いてしまうのである。努力論においても、言霊理論においても、この人間の限界が、悪く働いてしまうのである。だから、基本的に、努力を論を口にする人は、傲慢で自己中なのだ。おなじように、基本的に言霊理論を口にする人は、傲慢で自己中なのだ。手短に言うと、どちらも、夜郎自大なところがある。言霊理論と努力論は、人間の夜郎自大な性格を、引き出してしまうようなところがあるのである。

ひろい範囲では、自己イメージと属性思考のイメージは、だいたいのところ、一致している。しかし、「自分は自分なりに成功した」と思っているときは、自己イメージと属性思考のイメージは乖離しているのである。ようするに、自分なりに、成功というものを定義して、自分は成功したと思っているときは、「努力をすれば成功する」という言葉は正しいと思っているのである。そして、他人を見て、他人の属性で他人をラベリングするときも、「努力をすれば成功する」という言葉は正しいと思っているのである。両方とも、普通の人が思っていることだ。だから、こういうことを考えている普通の人にとっては、「努力をすれば成功する」という言葉は正しいということになっているのである。ただし、狭い範囲で自分のことを考えるとき「成功」の意味と、他人のことを考えるときの「成功」の意味は、ちがう。自分なりに成功した」と小さい範囲で思っていることに関しては、自分がプロセスを知っているので、成功の意味が、自分のプロセスを考慮したものになるのである。しかし、他人について考えているときは、自分のプロセスがなく、他人のプロセスについて考えて、無視するので、プロセスを重視しないのである。だって、他人のプロセスなんて、自分の身の上に起こったことではないので、簡単に無視できるものだからだ。無視しようと思って無視するわけではなくて、最初からわからないので、「そういうもの」なのである。無視をしようという明確な意識があるわけではなくて、ごく自然に、他人のプロセスは無視してしまうのである。自分のことではないので、わからない。他人の「プロセスの意味合い」が、欠落しているのである。「の」の重複は指摘しなくてもいい。

他人の場合は、プロセスについて考えないし、成功の意味が、ラベリングに適したものになるのである。条件が悪い他人の、悪い条件については、考えないのである。悪い条件がもたらすことについては考えないのである。悪い条件のなかで、他人が「努力をした」としても、その他人が「失敗しているように見える」限り、その他人は(本人にとって)努力をしたことにならないのである。どうしてなら、努力をすれば成功するはずだからだ。だから、もし、条件が悪い他人が、成功しているように見えない場合は、その他人が「努力をしなかったから成功していない」と考えがちなのだ。おわかりか?

 そうなると、不幸な条件をかかえた人は、不幸な条件がもたらすことについて、他人から理解されないということになる。不幸な条件をかかえた人が不幸なのは、その人が努力をしなかったからだ」と(普通の人が)考えるようになるのである。他人に関してはそうなる。特に不幸な条件であって、なおかつ、特殊な条件をかかえた人は、他人から誤解されるようになるのである。その「不幸な条件であって、なおかつ、特殊な条件をかかえた人」が、どれだけ努力をしても、他人は、その「不幸な条件であって、なおかつ、特殊な条件をかかえた人」が、努力をしてないと簡単にみなすようになるのである。不幸な条件のせいではなく、特殊な条件のせいではなく、その人が単に、……努力をしなかったから、不幸なのだと、考えるようになるのである。その人が単に、サボり魔だから、成功せずに不幸な状態で暮らしているのだと考えるようになるのである。普通の人が普通に(そのように)考えるようになるのである。

そうなると、普通の人は、不幸な他人の「不幸な条件がもたらすもの」や「特殊な条件がもたらすもの」を無視して、その人が努力不足だからダメなんだと考えるようになるのである。不幸な条件が「不可避的にもたらすもの」を完全に無視し、「特殊な条件がもたらすもの」を完全に無視するように、誘導されてしまうのである。他人の……「不幸な条件がもたらすもの」や「特殊な条件がもたらすもの」を無視して、「その他人が、不幸なのは、努力不足だから、不幸なのだ」と考えるようになるのである。

改善する努力をしないから、不幸である場合もあるのだけど、不幸の度合いというのがちがうので、改善する余地すら、あたえられなかった場合もある。あるいは、他人から見たら、さぼっているように見えても、本人は、死に物狂いで努力をしている場合もある。ところが、「努力をすれば成功する」という言葉は、一括して、すべての場合において、「努力をすれば成功する」という意味になるので、成功していない場合は、一括して、すべての場合において、努力をしなかったということになってしまうのである。一括的な判断と言うべきもの、あるいは、全体的な判断と言うべきものが、成り立っているのである。

 

2025年5月10日土曜日

そのくらいに感覚がおかしいのだ。ぜーーんぜん、わかってない。

 勉強をしたいのに、一日に一分も勉強することができない状態というのを、経験したことがない人には、わからない。どれだけ、不安になるかわからない。どれだけ、腹がたつかわからない。どれだけ、腹がたって、どれだけ、不安になるかわからない。きちがいの音のなかで、どれだけ頭が、ぐちゃぐちゃになるかわからない。どれだけ、切羽詰まった気持ちになるかわかない。きちがい兄貴の部屋に行って、きちがい兄貴を刺して殺すとか、きちがい兄貴の部屋に行って、自分の腹を包丁でツキまくるとか、そういうことをしないと、きちがい兄貴は、絶対にやめない。こっちの部屋に帰ってきたとき、ずっと、きちがいの音が、すごい音圧で鳴っているわけだから、こまるんだよ。ちなみに、きちがい兄貴はきちがいだから、俺が、きちがい兄貴の部屋に行って「うるさい静かにしろ」と言って、自分の腹をつきまくっても、そのまま、エレキギターを弾いている感じがする。そのくらいに、わかってないやつなんだよ。俺にとって、入学試験は重要こなことだ。けど、一分だってやめてやるつもりがないし、こっちがどれだけこまるか、まったくわかってないのである。自分の部屋に弟がはいってきて、弟が、包丁で、弟の腹をつきまくって血まみれになっても、なんか、そのままエレキギターを弾いて、でかい音でヘビメタを聴いているような感じがする。もちろん、実際に、腹を包丁でつ決まることをしたわけじゃないけど、そのくらいに感覚がおかしいのだ。ぜーーんぜん、わかってない。きちがいなんだよ。

いまの設定だと「うるさい」と言って、弟が自分の前で、弟の腹を包丁で差閉まるわけだから、自分と関係がありそうなことが、普通の人だったらわかるのだけど、まったくわからないのではないかなと思う。もちろん、これは、想像しただけだけど、ほんとうにそのくらい、話が通じないのだ。そんなでかい音で鳴ってたらこまるだろ」というのが、一切合切わからない。こっちがどれだけ切羽詰まった気持ちになるか、まったくまったくわからない。きちがい兄貴が張本人で、きちがい兄貴がやりたいからやっていることなのに、自分が関係がない人のつもりなんだよ。それが、きちがい親父のように、こわれない。このきちがい兄貴の態度は、きちがい親父の態度とおなじなんだよ。きちがい兄貴だって、ハンダゴテで、きちがい親父にやられたときは、きちがい親父の態度が……こういう態度に腹をたてていたのに……自分が弟にきちがいおやじとおなじことをしているということが、わからないのだ。きちがい兄貴の脳みそと、きちがい親父の脳みそが、この点において、まったくおなじなのである。いいようがない。このことについて、ほかの人は……うちきちがい親父やうちのきちがい兄貴と一緒に暮らしたことがないので、まったくわからないのである。そして、うちのきちがい親父のような人……感覚の持ち主や、うちのきちがい兄貴のような人……感覚の持ち主と、暮らしたことがないのでわからないのである。わからなければ、「そんなのはへんだ」で、すんでしまう。だから、こういうことについて、つねにギャップがある。普通の人はやられたことがないので……まったく、どういうテンションでこういうことが行われるか、わかってないのである。どういう意地でこういうことを、(きちがい兄貴きちがい親父がやるか)まったくわかってないのである。高圧状態なんだよ。爆発的な状態なんだよ。こっちが意地を闘争としたら、きちがい兄貴やきちがい親父をその場でころ寿司しかないんだよ。そういう意地なんだよ。そういう、意地なんだよ。まるでわかってないんだよな。常に、覆そうとしたら、殺さなければならないようなことを、殺さなければならないような態度でやっているんだよ。発狂して、相手を殺すか、自分が死ぬしかないというところまで、おいつめる。でかい音で鳴らしたい……。竹を植えたい……。魚の切り身をのせた皿を片づけたくない……。そういうことで、こういうテンションになってしまうんだよ。どうしてかというと、きちがい親父の意地のはり方や、きちがい兄貴の意地のはり方が、異常だからだ。これが、みんな、わかってない。「受け止め方をかえればいい」なんて言っている人は、まったくわかってない。「受け止め方をかえればいい」なんて言う人は、「受け止め方をかえればいい」という考え方を批判されただけで、おこるような人だ。俺にあわせて、受け止め方をかえればいいとは、思っていないのである。目の前にいる俺の考え方にあわせて、自分の受け止め方をかえればいいとは、思わない人たちなのである。けど、自分のことではなければ、「切迫感がある問題じゃないから」……思いつきで「受け止め方をかえればいい」とアドバイスをしてしまう。こんなの、屈辱。こういうくそ凡人の、宗教的な考え方と、実際のきちがい兄貴やきちがい親父の態度のギャップがある。くそ凡人には、うちのきちがい兄貴やきちがい親父のような人と、一緒に家族として暮らした経験がないのである。他人事なのである。話を聴いて想像することが、これまた、ちがうのである。普通の人が思い浮かべる頑固な姿と、きちがい兄貴の頑固な姿はちがうのである。普通の人が思い浮かべる頑固な姿と、きちがい親父の頑固な姿はちがうのである。

だから、普通の人たちというのは、軽く見るんだよな。軽く見る。

 ヘビメタ騒音に縛られて、すべての時間が、うまく使えなくなる。すべての時間に影響がある。「ああっ、むりだったな」「あれじゃ、入学試験に合格しないよな」というのがある。実感があるのだ。普段の日、めちゃくちゃに、勉強の邪魔をされた。すべての時間、勉強の邪魔をされた。あの強烈な音で、ずっと、勉強の邪魔をされて、受かるわけがないのだ。こっちは、実感があるけど、「話を聴いただけの人」には、実感がない。日ごろの実感がない。毎日の実感がない。毎日やられたということが、でかい。そりゃ、毎日だから、でかい。これが、一日だけだったらちがう。これが、期間限定で六か月で、終わることが最初からわかっていることなら、ちがう。ほんとうに、できなくなる。ほんとうに、勉強すること自体ができなくなる。どれだけやろうと思っても、きちがいヘビメタががんがん鳴っているから、できない。これ、ほんとうに、できないのだけど、ヘビメタが好きな人には、想像ができない。「苦手な音で想像してみろ」と言っているけど、こいつらは、想像力がないから、まったく想像できない。けど、こいつらよりも、きちがい兄貴のほうが、想像力がないのだ。これ、こだわってこだわって、すべての時間絶対の意地で譲らずに鳴らしているのに、「関係がない人のつもり」なんだよな。これは、試験の一週間前とか、一日まえでも、発揮された感覚だ。きちがい兄貴側の感覚だ。ほんとうに、どれだけ鳴らしてもいいと思っている。どれだけ鳴らしても、自分の音で弟がこまっているということが、まったく想像できないのだ。想像できなければ、やってないのとおなじ感覚なんだよ。これが、異常なんだよ。けど、この異常性は、実際にきちがい兄貴にやられている人じゃないとわからない。きちがい兄貴が、自分の苦手な音を、きちがい的な感覚で、きちがい的にでかい音で鳴らしている状態を経験したことがない人にはわからない。きちがい兄貴のほうで、スイッチが入って、「絶対に自分が満足できる音で鳴らす」ということに、こだわっている。けど、じゃまされて、自分が(思いっきり鳴らすことが)ほんとうにできなくならなければ、「そんなことは、毛頭思ってない」と言うことになる。きちがい兄貴が、こだわっこだわって、ほかの人が絶対に鳴らさないような、でかい音で鳴らしているのだけど、本人は、つねに、関係がない人なんだよ。この『関係がない人のつもり』という感覚が、きちがい兄貴特有のものだから、ほかの人にはわからない。きちがい兄貴みたいな感覚をもった人といっしょに、家族として住んだことがない人には、わからない。これも、逆立ちしたってわからないことなんだたな。だから、普通の人たちというのは、軽く見るんだよな。軽く見る。

2025年5月9日金曜日

きちがい騒音にずっと毎日たたられ続けた体(からだ)ではない。だから、わからないだけだ。

 すべてが、かわいい子がいた。あっちから、話しかけてきた。きちがいヘビメタ騒音のことが頭にうかんだ。ともかく、きちがいヘビメタ騒音がなかったら、手に入れることができたもの、すべてを、手に入れることができなかった。きちがいヘビメタ騒音がなければ、経験することができたこと、すべてを、経験できなかった。これ、ほんとうに、ちがうのである。ほかの人は「そんなのおなじ」「そんなの、関係、ない」と言うけど、ちがうんだよ。あの生活は、ない。あんな生活の中でできることと言うのは、かぎられている。そして、いつも「ヘビメタ騒音のゴミ」がついているのである。そして、いつも、ヘビメタ騒音に汚染されているのである。ヘビメタ騒音に、前日やられて、デートに行ったって、切羽詰まった状態で、おもしろくない。おもしろくないというよりも、ヘビメタ騒音の緊張がある。そして、ヘビメタ騒音でこころがぐちゃぐちゃなんだけど、それを悟られまいとして、行動すると、ダメなのである。無理やりハイにして、行動して、いい結果になったことがない。前日、ヘビメタ騒音にやられていたというのは、ヘビメタが鳴ってない時間に人と会うときも、影響をあたえる。そりゃ、きちがい兄貴は、「うち」で鳴らわけで、きちがい兄貴が「うち」にいないときはならせない。平日の昼間は、「うち」で鳴らすことができなかった。もちろん、休みの日は、そうではない。休みの日は、昼間も「うち」でヘビメタを、きちがい的な音で鳴らしていた。きちがい兄貴が、うちにいないから、うちでヘビメタを鳴らすことができない昼間、ぼくが、うちではないほかの場所にいて、ヘビメタ騒音を聞いていないとする。ぼくがほかの場所にいるからヘビメタを聞かされていないとする。その時間、ヘビメタを聞かされていないから、ヘビメタ騒音の影響からフリーかというと、そうではないのだ。自由じゃない。ぜんぜん、自由じゃない。前日だけではなくて、前々日の影響も残っている。一〇〇〇日間続いたら、一〇〇〇日間「つもった」ということの影響をうけている。自由じゃない。フリーじゃない。影響がない時間というのが、ないのである。ほんとうに、きちがい兄貴はきちがいなので、ほんとうにしつこく、しつこく、しつこく、どの時間も鳴らし続けた。「やめてくれ」と言えば、やめてくれるかというと、やめてくれない。「ヘッドホンをしてくれ」と言えば、ヘッドホンをしてくれるかというと、ヘッドホンをしてくれない。ともかく、自分が満足できる音を、スピーカーから鳴らすことにこだわって、実際にそうするのである。そうすると、スピーカーとぼくの部屋の壁が、めちゃくちゃに近いので、壁が、スピーカーの表面のような感じで、がんがん鳴っているである。そうなると、この部屋のどこにいても、だいたいおなじぐらいの音で聞こえてしまうのである。すびかーがおいてある床と、ぼくの部屋の床はつながっているので、固体震度もある。振動として感じるような振幅の大きな振動ではなくても、体が影響をうける。この固体振動も、「眠れない時間」に影響をあたえる。脳みその「はれ」に影響をあたえる。鳴らされているあいだ、勉強することができないのだけど、鳴らされたあとも、あれだけ長い時間やられていると……勉強することができない。「鳴り終わったのに勉強ができないなんておかしい」「そんなのはあまえだ」と言ったやつを、なぐってやりたい気持ちになる。期間の長さも問題で、最初は、ぼくに同情的なことを言っていた人も、ずっとずっとずっとずっと、十数年間続くと、しまいには、「いいかげん、立ち直ってくれ」というようなことを言ってくるようになる。彼女?に積極的になれなかったのは、こういうことも影響している。最初は、彼女になった人が、同情的かもしれないけど、最後にはさってしまうような感じがする。そういうことを、まだつきあうまえから、感じてしまうのだ。ともかく、「ほんとうに、すべてが無理な生活」なんだよ。これ、別に非合理的な表現ではないのだ。「すべて」ではないという言い方ができるのだけど、がんばってこらえて、生産性が低いことをやっていたって、しかたがない。これは、ようするに、「できない状態」が続くということだ。この「できない」というのは、たとえば、「いつもよりできない状態」や「人よりもできない状態」を含んでいる。ダメダメなことを、なんとかやっているような状態なのだ。こんなの、恥をかきたくない。けど、こらえて、恥をかきながら、俺は、十数年間にわたって、毎日がんばってきたんだ。それがわかってないやつからが、「あまえている」と言う。こいつらは、きちがい家族と一緒に住んだことがなく、きちがい家族が鳴らす、異常な騒音にさられさているわけではないのだ。普通の騒音にはさらされたことがあるかもしれないけど、異常な家族が、異常にだわってこだわってこだわって鳴らす騒音には、一分間だって、さらされたことがないのだ。きちがい的な家族が、どのようにきちがい的なのかということも、まったくわかってない。経験的にわかってないから、わかってないのだ。きちがい家族とのトラブルを人生のなかで一回も経験したことがないので、つねに、きちがい家族とのトラブルを経験している人間の……普段の生活がどういうものか、まったくわかってないのだ。そりゃ、きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなくて、普通に「鳴らす」普通の兄貴だったら、問題はないんだよ。実際、ぼくは、フォークギターを鳴らしていたときは、文句を言っていない。きちがい兄貴が横の部屋でフォークギターを鳴らしていた期間も、普通に勉強することができた。やろうと思えば勉強することができた。けど、どれだけやろうとしても、きちがい騒音のなかで、勉強すること自体ができない。短期記憶が〇・〇〇〇〇一秒で吹き飛ばされ、まったく考えがまとまらない。きちがい騒音が鳴っていなければ、すぐに解ける問題も、ずっとずっと、解けない状態になる。鳴っているから、解けないわけで、鳴っていなければ、解けた。そして、記憶のほかに思考が必要なことは、まったくダメなのである。きちがい家族のきちがい騒音が鳴っていると、ちょっとでも考えなければならない問題は解けなくなってしまうのである。そして、この時間がマイナスで、学校で覚えたことを、復習しようとすると、学校で覚えて(記憶したことも)ふっとんでしまうのだ。そして、思考が必要になることについては「おぼつかなくなる」のである。試験のときだけではなくて、ちょっとでも、解こうとするとヘビメタ騒音が鳴っているときのような、頭がこんがらがる状態になる。期間が長くなると、この鳴っていないときも、「緊張して」「頭がこんがらがって」できなくなってしまううなことがある。期間が長くなければ、……そして、きちがいヘビメタ騒音のなかで、宿題を含めて勉強をしないようにすれば、ちょっとは、よくなったのかもしれない。けど、ともかく、宿題はやろうとしたので、ヘビメタ騒音時の頭のこんがらがりが、普段も復活してしまうようなことがあった。まあ、これは、いつも復活するわけではないのだけど、試験のときなどは、いつも復活していた。ちょっとでも、解こうと思って緊張すると、ダメなのである。ヘビメタ騒音時の頭の混乱が復活してしまうのである。この混乱のなかには、「やめてくれないきちがい兄貴に対するうらみ」も入っている。この混乱のなかには、「これじゃあだめになってしまうというような不安」も入っている。ともかく、ヘビメタ騒音が鳴るまえ……とは、ちがう状態なのである。鳴るまえというのは、一日のなかで、鳴るまえのことではなくて、期間的な意味で鳴るまえのことだ。期間がのびると、基本的な疲れがたまるし、頭の混乱が、鳴ってないときも復活してしまうようになるので、ダメなのだ。脳みそのつかれというのは、眠らないととれない……ということを、昨日、動画で見た。これは、言えると思う。きちがいヘビメタ騒音が続いていたので、睡眠時間が極端に少ない期間が何年間も、十数年間も続いた。脳みそが影響をうけてあたりまえだ。ところが、きちがい騒音にさらされたことがないやつが「鳴り終わったら関係がない」と言うのだ。ほんとうに、腹がたつ。こいつらは、自分が正しいことを言っていると思っているみたいけど、まちがったことを言っている。鳴り終わっても、影響がある。一日のなかで、鳴り終わったときも影響があるし、十数年後になり終わったときも、影響がある。影響がある。影響があるんだよ。こいつらは、経験してないから、わかってないだけなのだ。経験がないから、わかってないだけなのに、えらそうなんだよ。こいつらの体(からだ)は、きちがい騒音にずっと毎日たたられ続けた体(からだ)ではない。だから、わからないだけだ。だから、影響があるということがわからないだけだ。

すべて、に、影響があるんだよ。

 あんな生活をしていて、学業成績に影響がないなんてことはない。きちがいヘビメタ騒音が鳴っている時間は、ただ単に、勉強ができない時間ではなくて、勉強において、マイナスである時間なんだよ。言っておくけど、鳴り終わったあともおなじだ。あんな、頭の中にある脳みそを、がんがんガン!!ガンガンガンなぐられているような生活をしていいわけがない。影響? 影響、あるよ。なんで、「鳴ってなくたって、おんなじだ」と言うのか? ほんとうに、こいつら、頭が悪いなぁ。普通の騒音と、きちがい家族による騒音はちがうんだよ。普通の騒音は、普通の騒音だ。きちがい家族による、しつこい騒音は、すべてを破壊する、異常な騒音なんだよ。普通の騒音しか経験しなかったやつが、「そんなの関係がない」「どれだけなってたって、勉強ぐらいできる」と言う。けど、そいつにだって、苦手な音はあるはずだ。その苦手な音が、ものすごい音で、四六時中鳴っていたら、勉強ができない状態になるんだよ。そして、鳴っているあいだだけ勉強ができないというわけではなくて、鳴り終わったあとも、勉強ができない状態なんだよ。けど、こいつらは、そういう・異常な騒音を、経験したことがないから、わからない。わからないから、自分が経験した普通の騒音を考えて、普通の騒音なら「勉強ができる」と思って、くそ発言をしているだけだ。すべて、に、影響があるんだよ。あの態度で、あの至近距離で、あの音のでかさで、あの騒音を鳴らされたあとは、つかれはてて、勉強なんてできない。毎日、続いていいわけがないんだよ。そして、これは、隣の家の人が鳴らしている騒音ではなくて、家族が鳴らしている騒音だということが、地味に影響している。そして、きちがい兄貴とおなじタイプのきちがいが、もう一人いるということが、地味に、影響、している。こういうところは、目立たないところなのだけど、きちがい兄貴が、きちがい騒音を行使できたという異常な状態の前提になっている。このふたつがちがうだけで、鳴らせない状態になる。きちがい家族が鳴らしていて、もう一人のきちがい家族が、裏から、応援をしていた。そんな状態は、きちがい家族のもとでくらしたことがある人だってわからない。タイプがちがう、きちがいだと、そうなる。なおさら、普通の家族に囲まれてすごした人には、それらの前提自体がわからないことなんだよな。わからないことであるし、受け入れがたいことだ。だから『そんなのは変だ』と感じてしまう。『そんなのは変だ』と強く感じたやつは、俺が嘘を言っていると思うわけだ。こういうところも、きちがい兄貴が計画してやったことではないけど、「きいて」いる。こういうところも、きちがい親父が計画して応援したことではないけど、「きいて」いる。きいているんだよーー。きいている。

 

「なぐり終わったら、関係がない」と言ってやりたい

 「鳴り終わったら、関係ない」と言ったやつを、一〇〇〇発ぐらいぶんなぐってやりたい。そして、「なぐり終わったら、関係がない」と言ってやりたい。

2025年5月8日木曜日

まず、個別性がある。だから、個別の出来事によって、責任の所在はちがってくる

 まあ、ヘビメタ騒音の話は、ほかの人にとって興味がある話ではないということは、わかる。それから、思霊も、言霊も、引き寄せも否定しているので、そういうのに、興味がある人たちにとっては、おもしろい話ではないだろう。そんなのは、わかっている。あーー。

けど、「思ったことが現実化する」「明るいことを思えば明るいことが起こる」「暗いことを考えると暗いことが起こる」「言ったことが現実化する」「引き寄せることができる」というのは、社会を悪くする考え方なのである。だれかが批判しておかなければならないだろう。「思ったことが現実化する」「明るいことを思えば明るいことが起こる」「暗いことを考えると暗いことが起こる」「言ったことが現実化する」「引き寄せることができる」……全部、条件を無視しているんだよね。条件は現実の出来事に影響をあたえる。現実の出来事と無関係じゃない。ところが、条件を無視して、「思ったことが現実化する」「明るいことを思えば明るいことが起こる」「暗いことを考えると暗いことが起こる」「言ったことが現実化する」「引き寄せることができる」……と言うのだ。こんなのは、ない。これは、よくないことだ。

自己責任論を考えればわかる。自己責任論も、条件を無視する理論だ。「すべては、自己責任だ」と言ってしまう。そう、主張する。条件がちがえば、出来事がちがう。個別の出来事の「責任所在」は、それぞれ、ちがうのである。ようするに、ある出来事は、やられたほうの責任だけど、ある出来事はやったほうの責任だというちがいが出てくる。すべての出来事において、やられたほうの責任だとは言いきれないのである。何度も言っているだろ。どういう条件下で、どういう出来事が発生したのかということが重要なのである。ところが、個別性を無視して、全部、やられたほうの責任だと決めつけてしまう考え方なのだ。……自己責任論というのは……。そこには、何の個別性もない。出来事なんて、出来事がちがえばちがうんだよ。むしろ、おなじ出来事なんて、ひとつもないんだよ。似たような出来事はあるけど、まったくおなじ出来事なんてないんだよ。すべての出来事が、個別性をもっているのである。ならば、責任の所在も、個別性があるのである。出来事、ひとつひとつに、責任の所在のちがいがある。だってそうだろ。出来事自体がちがうのだから。どれだけ似ているようなことだって……出来事だって、おなじ出来事なんてないんだよ。なんでこれがわからないかな? AさんがBさんをなぐった。CさんがDさんをなぐった。なぐったということはおなじだけど、AさんがBさんをなぐったということと、CさんがDさんをなぐったということは、ちがうことなんだよ。ちがう出来事なんだよ。ちがう出来事なのに、「なぐった」という一点がおなじなら、おなじ出来事なのか? ちがうだろ。ともかく、ひとつひとつの出来事に個別性があるんだよ。まったくおなじ出来事なんて、ないんだよ。ならば、すべては自己責任だ」などとは、言えない。言えないに決まっているだろ。個別性を吟味して、責任の所在を明らかにしなければならないんだよ。勝手に、決めつけるな。しかも、これは、やられたやつの責任だと言っているのである……。なんじゃそりゃ。どんなことが起ころうと、やられたやつの責任だと、責任追及をしているのである。なーーんだ? そりゃ? 頭、だいじょうぶ? これがおかしいということがわからないなんて、どうかしているぞ。けど、洗脳されてしまうとわからないようになってしまう。「すべては自己責任」などと、アホなことをまじめな顔で言うようになる。どれだけ思考力がマヒしているか、ぜんぜんわかってないね。まだ、「すべては、やったほうの責任だ」という理論のほうが、わかりやすいね。俺は、「すべては、やったほうの責任だ」とは考えないけど、まだ、「すべてはやられたほうの責任だ」という考え方よりも、「すべてはやったほうの責任だ」という考え方のほうがまともだと思うね。みーーんな、どうしちゃったの? 目を覚ませよ。まず、個別性がある。だから、個別の出来事によって、責任の所在はちがってくる。すべての出来事において、やられた側の人間の責任だと決めつけしてしまうのは、おかしい。「の」の重複は指摘しなくていい。

 

けど、これも、ほかのやつらにとっては、まったく関係がないことで、わからないことだ

「あれじゃあ、むりだよな」というのがある。ほんとうに、きちがい兄貴の騒音のなかで、まったく勉強ができない。あんな音のでかさで、自分がきらいな音を至近距離で鳴らされたら、ほかの人だって、勉強はできないと思う。けど、普通の騒音しか経験がない人は、きちがい家族による異常な騒音について、まったく知らない。鳴っているときに、うちにくれば、一発でわかるのに、鳴っているときにうちにきたことがないので、まったくわからない。きちがい兄貴のきちがい的なセンスが、異常なんだよ。そして、きちがい兄貴の態度そのものが、基本的なことを否定している態度なので、ムカつくのである。だれでもわかる基本的なことを認めない。耳が正常なら絶対に、わかることを、認めない。わからないままやり続ける。けど、これも、わからないままやり続けているということがわからないということになっている。だって、自分が「正常な耳」をもっていて、「正常な耳」をもっている人なら、絶対に、だれでも、「でかい音で鳴らしている」ということが、わかるのに、わからないのだ。意識的に、わからないふりをしているわけではないので、たちが悪い。重複することになるけど、これは、きちがい親父のいろいろなことに対する態度とおなじだ。うちでは、二人の人間が、そういう態度をもっているのである。そして、そのふたりとも、自分がそういう態度をもっているということがわからない。本人は、無自覚なのだ。じゃあ、本人に「そういう態度で鳴らしている」とか「そういう態度でやった」と言えば……ちゃんと言えば……理解してくれるのかと、そうではないのだ。感覚器が正常なら、だれだって、一発でわかることが、わからないままやっているのだ。それも、きちがい的な意地でやっているのだ。これ、「わからないはずがないこと」なんだよ。「わからないはずがないこと」を発狂して認めないまま、やり続ける……。こういう態度が、デフォルトだ。これは、ずるい。ちょっと言いようがないほどずるいんだけど、わからないかな? きちがい親父をきちがい兄貴がわからないのは、わかるけど、ほかの人は、どうなんだよ? 俺が言っていることがわかないのかな? 親父や兄貴の態度が「そういう態度だ」ということがわからないのかな? これ、きちがいがそういう態度で生きていたら、こっちは、きちがいの脳みそをいじって修正することかできないのだ。きちがい兄貴の脳みそをいじって、無意識的なずれがない脳みそにしてあげるということができないのだ。そして、俺は、ほんとうに、ちゃんと説明したのである。きちがい兄貴ちゃんと説明したのである。ところが、きちがい兄貴の脳みそが、極端に異常だったので、理解しなかったのである。けど、これも、ほかのやつらにとっては、まったく関係がないことで、わからないことだ。そうすると、ほかのやつらは、「ちゃんと説明しないからダメなんだ」と俺のほうをせめてくるのである。ほかのやつらだって、きちがい的な家族と一緒に住んでいたら、説明して、言うことを聞かせるということが無理なことだということがわかるはずなのだ。ようするに、きちがい兄貴が、きちがい的な脳みそを搭載しているから、俺がほかの人に誤解をされることになる。「(エイリさんの)言い方が悪いから、お兄さんがわからないままなのだ」と見下してくるのである。しかも、そういう失礼なことをしているのに、これまた、こういうことを言うやつらは、自分が(エイリに対して)失礼なことを言っているという自覚がないままなのだ。こいつらに、ちゃんと、兄貴のことを説明して「失礼なことを言うな」と言うと、こいつらは、自説にこだわり……知りもしないくせに、自分の判断が正しいと思ったまま、俺に敵意を向けてくることになる。きちがい兄貴の脳みそが、突出してかわっているから、ほかの人は、ごく自然に、誤解をすることになるのである。その誤解というのは、いつもいつも、俺にとって、「不利な誤解」なのである。もう、決まっているんだよな。きまっているんだよなぁーーーーーー。いやだなーーーーーー。いやだなぁーーーーー。

2025年5月7日水曜日

「思ったことが現実化する」という思考の鋳型があり、現実が、その鋳型に流し込まれるのである

「現実感」というのが、ものすごく影響をあたえているのだ。あるいは、「現実味」というのが、ものすごく影響をあたえているのだ。思考に影響をあたえている。

たとえば、ある仕事Aをしたとする。その仕事をしていたとき、腰をいたくしたとする。その仕事をすると、かなりの高確率で、腰がいたくなるということが、わかったとする。

こういう場合は、過去のデータに基づいて、現実的な思考がができるのである。

思霊主義者だって、『Aという仕事をしたとき、腰痛が発生したので、Aという仕事はさけよう』と思うのだ。思霊主義者だって「腰痛が発生すると思うから、腰痛が発生する」とは考えないのだ。

つまり『腰痛が発生する』という悪いこと(ネガティブなことを)考えるから、実際に、腰をいためるという悪いこと(ネガティブなこと)が発生するとは考えないのだ。

そして、「Aという仕事をしても、腰をいためるというネガティブなことを考えなければ、実際に、腰をいためることがない」とは、考えないのだ。

思霊主義者は、思ったことが現実化すると考えるので、本来なら、腰をいためるというネガティブなことを考えたから、腰をいためるというネガティブなことが発生したと考えるはずなのだ。

しかし、自分が経験したことに関しては、そのような思考をせずに「こういうことが起きた」という過去のデータを参考にして現実味がある思考をする。そして、この思考全体が、じつは、思霊主義者の主義にはあわない思考だということに、気がつかない。まったく、気がつかない。

自分の経験からわかっていることに関しては、ちゃんと、原因と結果について、考えることができるのだ。ところが、漠然とした不安を感じることに関しては、思霊思考におちいってしまうのである。

言霊主義者の思考にしたがえば「Aという仕事をしても、腰をいためることがないと考えていれば、腰をいためることがない」……はずなのである。こういう思考を思霊思考と呼んでおこう。

「思ったことが現実化する」という思考の鋳型があり、現実が、その鋳型に流し込まれるのである。だから、なにかいやなことが起こった場合は、先にそのいやなことが起こると考えたから実際に、そのいやなことが発生したと考えるのである。

しかし、何度も言うけど、実際に自分が経験した……現実感が高いことに関しては……これをするとこうなるという現実的な思考をしてしまうのである。

しかも、自分が現実的な思考をしているということが、わかっていないのである。

この現実的な思考というのは、思霊思考ではないのである。自分が、思霊思考をしていないということに気がつかない。普通に、Aという仕事をすると、腰がいたくなるので、Aという仕事をすることを避けようとするのである。

この場合は、思わなければ、発生しないというような思霊思考をしないのである。「悪いことを考えると悪いことが発生する」という考え方があるのである。これを「思霊思考1(いち)」と呼んでおこう。

また、思霊思考の理論的な帰結として「悪いことを考えなければ、悪いことが起こることを避けることができるのではないか」と思霊主義者は考えるのである。これを「思霊試行2(に)」と呼んでおこう。

実際に、自分が経験したことに関しては、言霊思考1も、言霊思考2も成り立たないのである。完全にスルーしてしまう。思いに関係なく、Aをすると、Bが発生しやすいと考えるのである。Bが発生することを避けるには、Aをしないようにすればいいのだと考えるのである。

これは、思霊思考ではない。

思霊思考にしたがえば、かりに、Aをしたとしても、Bが発生しないと考えれば、Aをしても、Bは発生しないということになるのである。

けど、これが、自分の経験によって、打ち破られている場合は、ごく自然に、AをするとBが発生しやすいので、Aをするのはやめようと思うのである。何度も言うけど、自分が、思霊思考をしていないということに関して、無頓着なのだ。

ようするに、思霊主義者は、自分が経験したことに関しては、思霊思考をしていないのに、思霊思考をしていないという認識がないのだ。だから、ほんとうは、思霊思考をしていないのに、自分がいつも、思霊思考をしているような気分になっているだけなのだ。

思霊思考になってしまう場合は、経験がない漠然としたことについて考える場合なのだ。この場合は、『暗いことを考えると暗いことが起こるので、暗いことを考えないようにしよう』と思うのだ。ようするに、自分が暗いことを考えないことによって、自分にとって不都合なことが発生することを、避けることができると考えているのだ。

これは、ジンクスやおまじないのようなものなのである。もうすでに、経験して、経験則から「Aをするときは、Bというネガティブなことが起こりやすくなる」ということがわかっていることに関しては、思霊思考をしない。思霊思考にしたがえば、経験則からわかっていることに関しても、「考えないこと」によって「発生するかどうか」を制御できるはずなのだ……。

どうしてかというと、思霊思考というのは、わけへだてなく、成り立ってしまう思考だからだ。つまり、ここでも一〇〇%詐欺が成り立っていて、「すべてにおいて、成り立つ」ということになっている。ある範囲では成り立つけど、ある範囲では成り立たないというものではないのだ。

ところが、経験則からわかっていること……経験則から容易に想像がつくことに関しては……おまじないで避けることができないと考えてしまうのだ。何度も言うけど、そのように考えているという自覚がない。

ようするに、思霊思考を完全に否定して、現実的な思考をしているときも、思霊主義者は、思霊的な思考を完全に手放したわけではないのだ。経験則から、類推できないことに関しては、突如として、思霊思考が復活して、思霊思考をしてしまう。

ようするに、本人にとって、漠然とした不安を感じることに関しては、思霊思考をしてしまうのである。経験則でわかってることに関しては、現実思考をして、経験則ではわからないことに関しては、思霊思考をしてしまうのである。

そして、そういう切り替えをしているということに関して、本人が、無自覚なのだ。ようするに、自分にとって現実感があることに関しては、まったく、思霊思考なんてしていないのに、思霊思考をしていないということに、本人が、気がつかない。現実感があるかどうかと言うことを基準にして「思ったことが現実化する」という考えを使うかどうか決めているのだ。

無意識的に決めているので、本人は、ずっと、自分は「思ったことが現実化すると考えている」と思っているのだ。

2025年5月6日火曜日

けど、相手のせいにして、濡れ衣を着せているのである

 言霊主義者は、出来事の時系列的な順番を無視してしまうのである。これに関しては、ずっと前に書いた。今回は、ニコニコ教の人も、出来事の時系列的な順番を無視してしまうということを指摘しておきたい。出来事の時系列的な順番を無視してしまうというのは、相手の立場になって考えるということが苦手なので、相手にとっての出来事の順番を理解しないということだ。たとえば、ヘビメタ騒音が鳴ったあと、ヘビメタ騒音が鳴ったから、不愉快そうな顔になったとする。順番を考えると、ヘビメタ騒音が鳴ったあと、不愉快そうな顔になったのである。ところが、順序を入れ替えて、不愉快そうな顔をしていたから、ヘビメタ騒音が鳴りだしたと考えてしまうのである。これは、本人は意識していないかもしれないけど、他罰的な傾向がある。本人というのは、ニコニコ教の人のことだ。これは、思霊主義者にも当てはまることだ。実際には、不幸なことが起こったあと、不幸な気持になったのに、不幸な気持になったから、不幸なことが(実際に起こった)と考えるのだ。そして、これは、条件が悪い人に対する宣戦布告なのである。これ、まったく理解してないだろうけど、条件が悪い人に対する、勘違い攻撃だ。不幸なことが起こると思っていなかったのに、その不幸なことが起こって、その不幸なことが起こったあとに、不幸な気持になったのである。最初に不幸な気持になっていて、そのあと、その不幸な気持に対応した不幸な出来事が発生したわけではないのである。最初に「なんの理由もない」のに不幸な気持になっていて、その不幸な気持に対応した出来事が発生したわけではないのである。ちゃんと、不幸な出来事が発生したあと、その不幸な出来事に対応した不幸な気持になっているのである。精神世界の人は、現実に起こったあと『後出しジャンケン』で、その人が思っていたからそうなったという考えてしまうのだ。これは、相手に、濡れ衣を着せることになる。ところが、濡れ衣を着せるという、悪い行為をしているつもりがまったくないのだ。精神世界の人は、相手に濡れ衣を着せても、まったく気にしないのだ。だって、濡れ衣を着せたという認識がないからな。けど、相手のせいにして、濡れ衣を着せているのである。相手の気持ちに原因があると言って、「人のせい」にしているのである。実際に、相手の身の上にこまったことが発生したら、こまったことが発生する前に、その相手の人が、こまったことが発生すると思ったから、そのこまったことが発生したのだと決めつけてしまう。けど、これは、勘違いだ。『後出しジャンケン』なのである。理由について、ちゃんと考えていないのである。

2025年5月5日月曜日

 ニコニコ教の人も、一〇〇%詐欺と法則性詐欺をやっている

ニコニコ教の人も、一〇〇%詐欺と法則性詐欺をやっている。けど、悪気はないのである。真実だと思ってしまっているのである。幼児的万能感があまりにも強いために、どうしても、思考が、一〇〇%詐欺の方向や法則性詐欺の方向に「ひっぱられて」しまうのである。

ほんとうは、法則性なんてないのに、法則性があると思ってしまうのである。ほんとうは、一〇〇%成り立つわけじゃないのに、本人にとって、一回でもそのことが成り立ったと思えれば、これは、一〇〇%成り立つことなのだと確信してしまうのである。

だから、別に悪意はないのだけど、人をだましている。そして、自分自身をだましているので、「まちがいがある」ということに、いつまでたっても気がつかない。

たとえば、ニコニコしていたら、いいことがあったとする。ニコニコしていたら……友人が「まるまるちゃんは、いつもニコニコしていて、気持ちがいいね」と(自分に)言ったとする。ようするに、褒められたので、いいことがあったと認識したわけだ。これは、「明日、雨になる」と(自分が)言ったら、実際に雨になったので、言霊の法則は完璧だと思ったということに、似ている。

ほんとうは、自分が言ったから、雨になったのではないのだ。これは、一〇〇%ちがう。勘違いだ。

一回でも、自分が「雨になる」と言って、雨になったら、すべてのことについて言霊の法則が成り立っていると勘違いしてしまうのだ。

自分が「雨になる」と言ったあと、ほかの理由で、雨になったのだ。「言ったあと」と「言ったから」の区別ができていないのだ。こういうまちがいが、基盤にある、思考方法なのだ。

ニコニコしていた場合は、まず、親の性格やほかのことで、ニコニコできるような環境があったのである。自分の場合、ニコニコしていたら、一回だけ、いいことがあったということなのだ。

ところが、「ニコニコしているといいことが起こる」と法則化して考えてしまう。けど、ニコニコしていたって、次の瞬間、悪いことが起こることだってあるのである。そして、「自然なニコニコ」と「意識的なニコニコ」にちがいがないと考えているのだけど、ちがいはある。

「無理やり笑顔を作れば、笑顔を作ったのだから、いいことがある」とニコニコ教の人は考えてしまうけど、無理やり笑顔を作らなければならないという意識が、人間の感情にあたえる影響はでかい。

そして、ぼくの経験の範囲で言うしかないのだけど、作り笑顔と、ほんとうの笑顔のちがいがわからない人もいるけど、作り笑顔と、ほんとうの笑顔のちがいがわかる人のほうが、多い。

もう、すでに、記述したことなのだけど、ニコニコするというのは、じつは、本人が決めていることではなくて、本人のことを見ている人が、ニコニコしているかどうかということを決めている。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、作り笑顔をうかべて、ニコニコしているつもりになっていたとする。けど、BさんがAさんを見たとき、Aさんが不自然な笑顔を作っているので、気持ち悪く感じて、Aさんに「なに、ニタニタしているんだ」と言ったとする。Aさんは、ニコニコしているつもりだったけど、Bさんは、Aさんがニコニコしているのではなくて、ニタニタしていると認識したのだ。

こういうことだって、ほんとうにある。

そして、いいことがあると思って、作り笑顔を浮かべて歩いていたら、「なに、わらってんだ?」「おまえ、俺を見てわらったな」「なにがおかしいんだ」と言われることだってあるのである。

だれかの笑顔に対して、どういうふうに思うのかとというのも、わりと自由度が高いことなのである。かならず、ほめてくれるとは限らないのである。

ところが、ニコニコ教の人は、たとえ作り笑顔でも、ニコニコしていれば、相手は、かならず、ほめてくれると思っているのである。そういう、無邪気な前提があるのである。

現実世界では、本人がニコニコしているつもりでも、相手(他人)が、文句をつけてくることは、ある。

あるのだけど、本人が本人に一〇〇%詐欺を行っているので、ニコニコしていれば一〇〇%の確率で、いいことが起こると思ってしまっている。ニコニコしていたのに、悪く言われるなんてことは、ニコニコ教の人のなかにはないのである。

けど、実際には、ある。

あることなんだよ。

ニコニコ教の人は無視しているけど……。

本人が本人に、一〇〇%詐欺を行っているので、本人は理論的な誤謬に気がつけないのだ。これは、ニコニコ教の人だけではなくて、言霊信者や思霊信者にも成り立っていることだ。そもそも、誤解なのである。

そもそも、理論的にまちがっているのである。

けど、どれだけのニコニコ教徒が、ぼくの説明を受け入れるだろうか。多分だけど、多くのニコニコ教徒が「ニコニコしていれば、いいことがある」と反論してくるのではないかと思う。

 

2025年5月4日日曜日

ちがう性質をもっているのである。

 ヘビメタ騒音のしつこさについて、みんな勘違いをしているのである。「そんなんじゃない」と言いたくなる。言ったって、わからないけどな。俺が言ったって、聞いた人たちは、経験がないのでわからない。つねに鳴っているということがもつ意味がわからないのである。

四六時中なっているということの意味がわかってない。経験したことがないので……わからない。もちろん、工事の音は経験したことがあるので、そういう意味では、経験したことがあるということになる。けど、きちがい家族による、無自覚な、きちがい騒音というのは、普通の騒音とはちがうのである。ちがう性質をもっているのである。

これも、どれだけ、「ちがう性質」について……ぼくが語ったところで、けっきょく、経験がない人にはわからないのである。どういうことになるか、まったくわかってないのである。けど、普通の騒音は経験したことがあるので、普通の騒音を念頭に置いて、ぼくに、いろいろなことを言ってくるのである。けど、それが、全部、まとはずれなんだよ。

何度も言うけど「まとはずれ」ということをぼくがどれだけ詳細に説明したとしても、その人たちには、わからないのである。そして、関心がない。どうしてかかいうと、自分の身の上に生じたことではないからだ。自分の身に起きたことではないので、軽く考えることができるのである。だって、ほんとうに、自分身に起こったことじゃないのだから、簡単に考えて、簡単な感想を言うということになる。そういうレベルの感じ方しかないのである。

 

 

 

 

 

 

 

俺がどれだけ「ちがうんだ」ということを説明しても、そいつらは、考えを改めない。

 ヘビメタ騒音の「あしひっぱられ感」が、すごい。やられていないやつはわからない。わからないのに、わかったつもりで、アホなことを言いやがる。そういうことも含めて、ヘビメタ騒音が、いやだよ。だって、ほんとうに、ヘビメタ騒音がなかったら、こいつらから、なめられることもなかった。ヘビメタ騒音がなければ、こいつらが、俺に対して、こんなことを言う場面はなかった。ほんとうに、すべてに影響があるのに、こいつらは、「そんなの関係ない」と言う。こういうことも含めて、ほんとうに、人生がいやになる。複数回繰り返されたことだけど、こいつらとのこういうやりとりが、生きる気力を奪う。ほんとうに、きちがいにやられて、きちがいにやられたから、弱くなって、くそ凡人から、くそを言われるようになった。ほんとうに、ゆるしがたい。ともかく、ヘビメタ騒音なしの人生がほしい。ともかく、きちがいヘビメタ騒音なしの「若い時代」がほしい。どうしても、ヘビメタ騒音なしでやりなおしたい。ヘビメタ騒音なしで生きたい。あの生活が、その後の人生に影響がないわけがないだろ。あの音の連続が、その日の状態に影響をあたえないわけがないだろ。「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいあった」「自分だって、朝はつらい」と言えば、影響がないことになってしまう。そいつらのなかで、ヘビメタ騒音の影響なんてたいしたことがないということになってしまう。そうなったら、そいつらのなかでは、そうなんだよ。俺がどれだけ「ちがうんだ」ということを説明しても、そいつらは、考えを改めない。自分の考えが正しいと思ったままだ。

鳴っている最中のものすごい状態がわかってないやつら……。鳴り終わったあとのものすごい状態がわかってないやつら……。あれが五〇〇〇日積み重なったときの状態がわかってないやつら……。こんなやつらに、アホなことを言われる。こんなやつらが、こともあろうに、俺に説教をしてくる。きちがいの行為がわかっていないやつが、きちがいの行為を無視して、むりなことを言ってくる。こいつらは、きちがい行為がどういうものかわかってない。きちがいの「無視のしかた」がわかってない。わかってないから『影響なんてない』と思っているだけなのに、えらそうなんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年5月3日土曜日

やられているのに、やられていないような状態で、生きることができないことなのである

あの状態を経験したことがないやつが、とやかく言ってくる。ゆるせない。あの状況を知らないやつが、アホなことを言ってくる。ゆるせない。ほんとうに、あいつら、わかってないからなぁ。相当にまとはずれなことを言っているのだけど、まとはずれなことを言っているつもりがないんだよな。そういう誤解を、きちがい兄貴が、きちがい行為によってつくる。どれだけ、きちがい兄貴のことを言ったって、こいつらはこいつらで理解しない。「そんなの、ちゃんと言えばいい」「ちゃんと言えばわかってくれるよ」……。こんなレベルの理解しかない。ちゃんと言えばわかってくれるよ」というのは、お兄さんにちゃんと言えば、お兄さんはわかってくれるということだ。そして、しずかにしてくれるということだ。こういうレベルの理解。こういう誤解が、最初から、強烈に成り立っている。そして、こいつらはこいつらで、実際に、やられたことがないので、『影響のでかさ』がわからない。こいつらはこいつらで、影響のでかさを、ガン無視したことを、言いやがる。そして、『影響のでかさをガン無視している』ということも、絶対に認めない。ぼくの経験の範囲だと、最初に、「そんなの、ちゃんと言えばいい」「ちゃんと言えばわかってくれるよ」と言ったやつが、影響のでかさを理解してくれることはない。説明したって、理解しない。しかも、説明を聞いているうちに、腹をたてるの。そういうところ、あるよ。それは、「自分が思っていること」とちがうことを言ってくるわけだから、腹がたつんだよ。ようするに、自分が思っていることとは、ちがうことをぼくが言うので、腹がたつ。こいつらのなかでは、「これは、こうだ」という常識が成り立ってる。自分のなかに成り立っている常識を否定されたら、腹がたつだろ。けど、きちがい兄貴は、こいつらの常識のなかの人じゃないのである。うちのきちがい兄貴は、こいつらの常識が通用する人ではないのである。うちのきちがい兄貴は、こいつらの常識外の人なのである。「の」の重複は指摘しなくていい。

何度も言うけど、こいつらはこいつらで、認めないんだよ。きちがい兄貴が、きちがい感覚で、普通の人がしないことをしている。そして、その「普通の人がしないこと」というのは、普通の人が理解できないほど『影響がでかいこと』なのである。やられているのに、やられていないような状態で、生きることができないことなのである。けど、やられてないやつは、やられていないので、それがわからない。不可避性をガン無視してくる。「やられる」と「こうなる」という必然性を無視しやがる。毎日続くということの意味が、まったくわかってない。

やられていなければ、簡単にできることができなくなる。どれだけがんばっても、どれだけ努力しても、できなくなる。……これがわかっていないやつばかりだ。こいつらにとって、ぼくの騒音……きちがい家族による騒音は、通常の生活範囲で、消化できることなのだ。影響をうけずに、なんとかやっていけることなのだ。そういう想定でものを言ってくる。無理なことを言ってくる。もちろん、「無理なことを言っているつもり」なんていうのは、ない。だから、これも、きちがい兄貴のガン無視と、ちょっと似てくるところが出てくるんだよ。きちがい兄貴が、きちがい感覚で、くそめいわくなきちがい行為をするから……毎日夢中になって、長時間するから……こっちのからだがこわれてくる。こっちのなかで、『できないこと』が増えていく。これ、必然なのである。けど、必然性が見えないやつから……ぼくのことを見ると……ぼくがさぼっているようにしか見えないのだ。だから、攻撃をしてくる。普通にバカにしてくる。こんなことが、つみかさなって、いいわけがないだろ。

 

 

 

 

 

 

2025年5月1日木曜日

特殊な家族にたたられないで、普通の家族と一緒に暮らしていたら

  まあ、正直言って、今の状態ではなくて、むかしの状態だったら、とっくに、動いているんだよ。とっくに、引っ越している。うきうき気分で、新しい住処を探して、うきうき気分で、引っ越しの用意をし、うきうき気分で新生活をはじめている。けど、つかれはてた。しかも、つかれが、まったくまったく、とれない。常に、そこを歩いているような状態だ。「もう、つかれた」と、何回、言っているかわからない。ほんとうに、つかれた。そして、いろいろとやってきたことが、あんまり役に立っていないのだ。もちろん、役に立ったことはある。おカネが増えた。しかし、つかれた。これ、ほんとう、もしも、ぼくが、特殊な家族にたたられないで、普通の家族と一緒に暮らしていたら、なんとだってなったんだよな。こんな苦労なんてしてないよ。

いろいろと、回収のこころみをしたのだけど、回収のこころみをすると、いやな出来事が発生するのだ。きちがいヘビメタ騒音で、「底の状態」になると、「底の状態」から這い上がろうとする行為が、あらたなるトラブルをうんでしまうところがある。それは、不可避的なんだよ。ところが、きちがい家族によるしつこい騒音を経験してない人は、それが、まったくわからない。不可避的だとも思わないだろう。こいつらは、常識通りの偏見をもっている。たとえば、無職に対する偏見だ。ヘビメタ騒音で働けないからだになると、それだけで、「自分だって苦労をした」と言う常識的な人たちが、俺のことを下に見てくるようになる。けど、その人たちの経験した苦労というのは、けっきょく、無職にならず、常識的な生活を維持し、常識的な偏見を維持できるような苦労じゃないか。ぜんぜん、ちがう。けど、この人たちに「ぜんぜんちがう」と言ったって、この人たちは、想像力も経験もないので、まったく、理解できないのだ。「不可避的だ」と言ったって、「不可避的だ」とは思わないんだよ。こいつらは……。けっきょく、きちがい家族と一緒にすんだことがないから、きちがい家族がもたらす不幸を経験していないだけなのに、わかったようなことを言う。わかったようなことを言っていいと思っているのは、「自分のほうが上だ」と思っているからなんだよ。自分のほうがエイリよりも上だと思っているからなんだよ。こいつらはこいつらで、理解しないのである。言霊主義者の理解力は、だいたい、一般人の理解力とおなじだ。言霊的な提案をつけくわえるかどうかのちがいがあるだけだ。だから、言霊主義者との間に起こったことが、一般人との間にも起こるということになる。もう、それは、小学生時代の宿題や遅刻からはじまって、ずっとずっと、続いてきたことなんだよ。それが、無職という属性に移行しただけなんだよ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのは、ほかの家にはないことなんだよ。ほかの人の身の上には、起こらないことなんだよ。だから、体でわかってないだけなのだけど、体でわかってないということは、きちがいがい兄貴の影響がないということだから、ごく普通に、きちがい兄貴の影響を無視して考えてしまうのである。「そんなんじゃない」「そんなことじゃない」とどれだけ説明しても、こいつらはこいつらで、理解しないままなんだよな。ある意味、きちがい親父やきちがい兄貴と対峙しているような気持になるよ。きちがい親父やきちがい兄貴が、よその人が、絶対やらないことを、きちがい的な意地で毎日やっていたから、どうしようもなく、働けないからだになった。これが、よその人たちには、わからないので、よその人たちは、誤解をするんだよ。誤解をしないのは、経験がないけど想像力がある人だけなんだよ。だいたい、〇・五%の人たちだ。二〇〇人にひとりしかいない。二〇〇人中一九九人は、経験も想像力もないから、ごく普通に、俺について、誤解をする。俺の身に起きたことについて誤解をする。俺の身に起きたことの、俺に対する影響について誤解をする。

そりゃ、みんな、つらいのはわかるけど、ちがうんだたな。ちがうんだよ。だって、きちがい家族と一緒に住んだことがないんだろ。そのきちがい家族のうちのひとりが、きちがい感覚で騒音を鳴らすことにこだわったわけじゃないだろ。きちがい家族と一緒にすんだことがあって、そのきちがい家族のうちのひとりが、きちがい的な意地で、騒音を鳴らしたということが、自分の身の上に発生した人は、みんな、俺が言っていることを理解できる。そして、俺とおなじように通勤して働くということができなくなっていると思う。俺が学校で経験した様々なことを経験していると思う。だったら、俺に同意してくれるはずだ。一般的な人みたいに、否定をしたりしない。あるいは、俺の話が嘘だと思ったりしない。だから、反応に差がある。反応の差は、理解力の差を意味しているんだよ。

「俺だってつらい」のひとことで、同質化・同量化・均質化できるわけがないだろ。 「みんなつらい」のひとことで、「俺だってつらい」のひとことで、同質化・同量化・均質化できるわけがないだろ。そりゃ、みんなつらい思いをしていると思うけど、俺がここに書いていることは、事実なんだよ。誇張していないんだよ。きちがい兄貴のきちがい的な意地がわかってないやつは、わかってない。きちがい兄貴のきちがい的な騒音がもたらす『影響』『負の影響』がわかってないやつは、わかってない。わかってないやつらは、同レベルのことを経験していない。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。